『月のひつじ』(The Dish)
『ホワイト・オランダー』(White Oleander) 
監督 ロブ・シッチ
監督 ピーター・コズミンスキー


 毎度のことながら市民映画会のラインナップに触れるにつけ、興行と自主上映や美術館上映の間で漏れていく作品群の絶妙な拾い出しに、何とも嬉しくなってくる。今回の二本も市民映画会で取り上げなければ、他では上映されることが、いかにもなさそうで且つ観ると甲斐ありの、いいセレクションだ。

 先に観た『ホワイト・オランダー』では、レニー・ゼルウィガー繋がりでもないが、三年前の市民映画会で観た『母の眠り』を思い出した。女性でないと描けない女性の姿というものを感じるという点で、共通するものがあるように思ったからだ。果たしてチラシには、原作ジャネット・フィッチ、脚本メリー・アグネス・ドナヒューとあって、監督が男性であることも共通していた。男の僕などからすれば、女性は、妊娠という醸成期間を持っているから、出産とともに既に母親になっているというか、母親であれるのに対して、父親は、生後の赤ん坊との関わりのなかで徐々に父親になっていくものだという感じを持った記憶があるのだが、先ず女であるという当然の欲求が強くて、社会的自己実現への欲求も強く、強烈な自我とプライドを持つイングリッド(ミッシェル・ファイファー)の姿を観ていると、女性にとっての“母親になること”の困難さについて思いを新たにさせられるとともに、娘アストリッド(アリソン・ローマン)の母親との葛藤に“母親から独立すること”の困難さをまざまざと観るような気がした。ここのところの愛憎表裏一体のヒリヒリするような切迫感を焙り出す力は、同性たる女性ならではのものだ。
 そしてまた、アストリッドが、母親の呪縛と格闘しつつ、三転した里親の元で大きな影響を受けながら、見るからに変化していく部分と芯のように変わらぬ個性を保ち続ける部分に、子供が育っていくことの危うさと力強さを併せて目の当たりにしたような気がする。基本的に、人間の生きる力と感情力に対する信頼感が底に流れているのが救いだ。だからこそ、白い夾竹桃[ホワイト・オランダー]になぞらえられた美しい母の放つ毒と破壊力に晒されての凄まじいまでの葛藤を容赦なく描きながらも、それを超克し、母と同じくアーティストとしての自己実現を試みるに到る娘の物語になるのだろう。我が娘を愛しいと思いつつも、いつだってどうしても我が身のほうを優先しないではいられなかったイングリッドが、初めて娘アストリッドを優先して見せたことで果せる失地回復をリアルに受け取れるか、受け取れないかは、観る側にとっては大きな分かれ目だけれど、僕には充分な説得力をもって描かれていた。パワフルな作品だ。

 一方の『月のひつじ』は、特にどうということはない作品のようでいて、今の時代がいかにギスギスとして遊びと余裕がないかが、じんわりと泌みてくるように感じられる好編だった。人類初の月面着陸ほどの歴史的イベントに対してさえ、それに臨む態勢も楽しむ民衆も、今の時代ならとても許されないような穏やかさと伸びやかさを湛えている。失敗に対する咎めにしても、そのリカバーに関しても、悠長このうえなく、NASAの対応にしても、現在ならとても考えられないことばかりだ。そういう、今現在ではない '69年当時ならではの空気を掴み描いているところに、この作品の値打ちがあり、それによって今という時代に対する批評性を宿している。
 ちょっとしたイベントでも大フィーバーで臨み、過ぎた後は、たちまち忘れ去っていくような臨み方を時代に対して強いられるようになったのは、いつ頃からなのだろう。パークスの巨大パラボラアンテナの管理事務所にメディアの取材陣がいっさい訪れることなく、わずか五人で重大事業にひっそり当たることができ、突然のアメリカ大使の来訪に無線ラジオで急場を凌ぐというようなことで何とか対処できるなどということは、もはや絶対にあり得ない。メディア産業の肥大化がもたらしている人間社会の歪みには、つくづく罪深いものがあると思う。
by ヤマ

'03. 6.25. 文化プラザかるぽーと



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