『愛にイナズマ』
監督・脚本 石井裕也

 石井裕也作品は、川の底からこんにちはから始めてあぜ道のダンディ舟を編むぼくたちの家族『夜空はいつでも最高密度の青色だ』『町田くんの世界』茜色に焼かれると観てきて、だいたいが面白かったので楽しみにしつつも『茜色に焼かれる』での不安が過っていたのだが、これまでに観たなかでも出色の作品で、『川の底からこんにちは』『舟を編む』『ぼくたちの家族』以上に魅せられた。

 おそらくは自身が経験していると思われる得意と失意のなかで得てきた「人間観察」が活きているのだろう。思えば、まだ自主製作作品しかない駆け出し監督の折村花子(松岡茉優)に対して、プロデューサーの原(MEGUMI)が繰り返し喚起していたのが、その人間観察だった。

 煽てと蔑ろ、持て囃しと踏み付けが、日常茶飯的に増幅された形で無造作に劇的に、実のない場当たり的な流れのまま勢いに任せて人々を翻弄しているのが、花子に付けられたベテラン助監督荒川(三浦貴大)の言うような“業界スタンダード”だったとするのが作り手の立ち位置なのだろう。手前味噌な「意味・理由・真実」を求め、押し付けてくるパフォーマンスによって、己が力と存在を誇示し、花子に訪れていたチャンスを横取りする荒川の人物造形がなかなか強烈で印象深く、本作のタイトルがつい愛のむきだしを想起させるような『愛にイナズマ』だったりするところから、監督・脚本を担った石井裕也の前妻から漏れ聞いた園子温のイメージがかなり参考にされているのではないかという気がした。盗撮カメラを手放さない少年ユウに代わって、デジタル動画カメラを手放さない赤に惹かれる花子が登場する作品だった。いくつかの言葉は、花子ではなく、石井監督自身が誰かからぶつけられたことのあるものではなかろうか。

 そもそも意味・理由・真実などというものは、自明のものとして「ある」ものではなく、考え感じるものだから、あるなしによって質すような性質のものではないと弁えていないことこそが、まるで分っていないことの証だとしていたように感じる。意味は教わるものではなく、自ら問うことだからこそカメラを向けるというのが折村花子のスタンスであり、作り手のスタンスというわけだ。

 序章、酒、愛、カメラ、家族、お金、神様、雷と続く7章からなる章題が、作り手の必要としているものの列挙だとしたら雷は少々特異に感じられるが、もしかすると「インスピレーション」のことではないかという気がした。映画タイトルそのものも、そういう意味合いにおけるイナズマだという気がする。折村家の親子兄弟や舘正夫(窪田正孝)に電撃的に訪れていたものに因果律などない。

 人は因果律に則って生きているものではないから、公的活動に係るものとは違って、生きることに説明責任などなく、証を求めるのは体当たりでぶつかりハグする「存在確認」のほかにないというのが作り手の人間観であり、人生観であるような気がした。本作は、石井監督が「映画=撮るということ」にしっかりハグした姿そのもののように感じられて、なかなか感慨深かった。何を知り、何を知らず、何を語り、何を秘するかが、人が生きていくうえで、他者と関わっていくうえで、最も重大であることが簡明に示されるとともに、思い込みを排した想像力こそが最も必要なことであるというように描かれていた気がする。多くを語られぬままに自死してしまう落合(仲野太賀)のエピソードがきちんと利いていて、花子と正夫に遺したものが伝わってくることにも打たれた。

 折村家の三人として、屈託を抱えた過去を持つ父を演じた佐藤浩市、部分的に状況を知る長兄の池松壮亮、花子よりは記憶のある次兄の若葉竜也がそれぞれの持ち味を活かして素晴らしく、益岡徹らの脇役も含めた演技巧者によって、「人が演じるということ」をも主題とした作品世界を見事に造形していたように思う。松岡茉優は、やはり大したものだ。

 また、おそらくは意図的に重ねられていたと思われる「…してもらっていいですか」「…してもいいですか」という言葉遣いが気に障って仕方がなかった。いつからだろう、相手に対する要求やら有無を言わせない宣告について、許可を求める形式の言葉で表現することが普通に見られるようになったのは。僕には、挑発のようにしか聞こえない非常に違和感のある厭な表現だ。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/23111101/
推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986365554&owner_id=425206
by ヤマ

'23.11. 9. TOHOシネマズ5



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>