美術館秋の定期上映会“園子温監督特集”から

 『Strange Circus 奇妙なサーカス』['05]
 『夢の中へ』['05]
 『紀子の食卓』['05]
 『気球クラブ、その後』['06]
 『エクステ』['07]
 『愛のむきだし』['08]
 『ちゃんと伝える』['09]
監督 園子温

 金土日の三日間で9作品を上映する特集上映会の7作品を土日で観た。ずっと気になっている作家ながら、高知では上映作がなかったので、とても嬉しい企画だった。こうして一度にまとめて観てみると系譜のようなものが感じられる点が、やはり作家系の映画監督ということになるのだろう。特集上映会ならではの妙味を楽しむことができた。

 時代の空気を最も敏感に捉える女子高生を通じて現代を捉える視座というものが '02年の『自殺サークル』の女子高生54人の集団自殺を '05年の『紀子の食卓』へと繋げた形の作品提示によって浮かび上がっていた“時代をアクチュアルに切り取る作品”が一つの系譜であり、'06年の『気球クラブ、その後』の語り手たるキタジロウ(深水元基)が、'09年の『ちゃんと伝える』の語り手たるキタシロウ(AKIRA)に繋がる形で提示されていた“プライヴェートを色濃く反映させた記憶を語る作品”が、もう一つの系譜のように感じられた。'05年の『夢の中へ』もその肌触りからは、この系譜のなかに位置する作品のような気がする。
 また、現代の乱歩とも言うべき '05年の『奇妙なサーカス』的エンタテイメントは、児童虐待を軸に '07年の『エクステ』に展開して行っていたような気がするが、この“非常にカリカチュアライズされた造形色と倒錯性の強いエンタメ作品”が第三の系譜というべきものだろう。そして、それら三つの系譜の要素を総て併せ持っていたのが四時間に及ぶ '08年の『愛のむきだし』であり、同作が現時点での園監督の映画作品の集大成を示していると評されるのももっともだと感じた。

 そのように概括してみたうえで、作品的に最も傑出していたのは『紀子の食卓』で、最も面白く観たのが『愛のむきだし』、最も興味深かったのは『ちゃんと伝える』だったような気がしている。そして、自殺サークルであれ、クラブであれ、劇団であれ、教団であれ、“地縁血縁とは異なる人の集まりと帰属集団の原点たる家族の問題”というのが、全作で監督・脚本を担っている園子温にとっての最大のテーマなのだろう。最後に『ちゃんと伝える』を観て、ふとベルイマンのことを想起した。

 五時間を超える長大な映画『ファニーとアレクサンドル』['82]を観たのは、25年前のことだが、牧師の父のもとに生まれたイングマル・ベルイマン監督の描いた、“幻想と創造を愛する演劇人の実父”と“戒律を重んじる謹厳で冷たい教会人の継父”に育てられた少年の魂の格闘が非常に強く印象に残っている作品だ。
 子温が本名であるらしい園監督には、その厳しさに怖れと反発を抱いた父親がいたであろうことと、キリスト教の影が色濃く差している気がしてならない。実のところ『愛のむきだし』を観た時点では『ファニーとアレクサンドル』の想起は僕のなかにまだなかったのだが、スパルタ顧問教師たる父親の徹二(奥田瑛二)の下でサッカー部の主将を務めた十代のときの屈託を解消しきれないまま、父親と同じ病に見舞われつつ先に看取ることを叶えた二十代の息子を描いた『ちゃんと伝える』を観て、リリカルで抑制の利いたなかにも屈託と葛藤を悔悟とともに滲ませていた作り手の心情を受け止めたことで、『愛のむきだし』でのユウ(西島隆弘)と父親のテツ(渡部篤郎)の関係が、まるで園監督の“プライヴェートを色濃く反映させた記憶を語る作品”として立ち上ってきたのだった。思えば、両作品とも父親は、同じ“テツ”の名を持っていたわけだ。
 そして、ユウに強迫感を抱かせる形で「懺悔」を繰り返させていた“虐待とも言えるような関わり方”が、ベルイマンの描いたアレクサンドルにとっての継父を偲ばせ、その父親との葛藤に対して、非常に屈折した、独特で奇妙な感受の仕方をしていたユウの姿というものが、幻想や神秘との親和性によって自己防衛をしていたアレクサンドルの姿に重なってくるような気がしたのだ。それとともに、『ちゃんと伝える』において湖畔で過ごした午後のひとときを描いたことが園監督にとっての懺悔の証にもなっているように感じられ、子供の側からの反逆を『紀子の食卓』などで描いて親の側を斬りつけていた園監督が、集大成として結実させつつも『愛のむきだし』ではまだ済ませられずにいた部分に仕舞いをつけているような気がした。

 喪失不安の強迫から逃れる最も手っ取り早い手段は、喪失する前に捨ててしまうことなのだが、それに勝る本末転倒はない。それにもかかわらず、そうしてしまうことが少なからずあるのが人間であり、家族を捨てたり自分の命を捨てたりしてしまうのも、そんな本末転倒と繋がるところがあるように思うのだが、『紀子の食卓』において『自殺サークル』を継いでいるところには、そのような問題意識が窺えるような気がした。
 家出によって残された家族としての親の側において、巣立ちと家出の最も大きな違いは、了解合意の存否であって、当人の自立ということでは、家出が巣立ちになっている場合も、家出をしてもそれが巣立ちになっていない場合も両方ともにあるけれども、親の側にはそのことはさして重要でなかったりするものだ。親子の断絶の出発点がこの“了解”問題にあるのは、かなり普遍的なことで、自我に目覚めた子供が成長過程においてぶつかる大きな壁が、親に自分の思いを理解してもらえないことであって、親への想いと自立心の両方ともが強い、即ち健やかに成長している者ほど、その葛藤と苦しみが深いという不条理に包まれているのが人の生だったりする。
 実際の家族関係を全うすることよりも擬似家族を演じるほうが遥かにスムースで無難にこなせることと併せ、演技によるサービスであっても、そのようなものを求めずにはいられないのが人間であることを、生活文化としての家制度や家族主義が壊れている現代における様相として、アクチュアルに現出させていた『紀子の食卓』が圧巻だったのは、それゆえだったように思う。レンタル家族サービスの事業経営をしているクミコ(つぐみ)が、親のいないコインロッカー・ベイビーで、新宿駅での女子高生54人の集団自殺を仕掛けた人物でもあったことや紀子(吹石一恵)の父親(光石研)の名前が徹三だったりするところも興味深いところだと思う。

 『ちゃんと伝える』を観たことで『ファニーとアレクサンドル』を想起することとなった『愛のむきだし』は、時間的には一時間以上及ばないが、エンターテイメント色は断然優っており、随所で笑える造りになっていたことが好もしく、またベルイマン作品にはない“救いをもたらしてくれるのは遠くの神より近くの人間”ともいうべき存在が配されていたのが目を惹いた。あと半歩進めばイジメなりリスペクトなりの極に向かいかねない危うさを孕みつつ微妙な距離感を保っていた盗撮仲間がユウにとってのそれであり、ユウの父親を惑乱させ結果的に父子関係を破壊したとも言えるパワフルな存在だった女性サオリ(渡辺真起子)がヨーコ(満島ひかり)にとってのそういう存在として提示されていたような気がするが、両者とも権威からは程遠い所謂“はぐれ者”に位置する者だったところが興味深い。
 エンタメ色ということで僕の目を惹いたのは、パンチラ盗撮のカリスマとして頭角を現していくユウの盗撮行為を場内の女性客からも笑いの漏れる筆致で描き出していたところで、パンチラ盗撮に対して現代の“スカートめくり”のような捉え方をしているように感じた。僕自身にも小学校低学年時分の記憶にある“スカートめくり”は '60年代から '70年代にかけての小学生に大流行していたもので、漫画週刊誌「少年ジャンプ」に連載された『ハレンチ学園』などメイン素材の一つとして扱っていたような覚えがあるが、罪深くも罪浅い微妙な了解と共犯意識の元に成立している“大人には感得できない「子供の領分」を構成していた遊び”だったような気がしている。'61年生まれで僕とさして年齢の違わない園監督なれば、おそらく僕とも同様の体験を過ごしているであろうことが推察されるが、パンチラ盗撮をその“スカートめくり”のようなものと喝破し描いたうえで、女性客の感興を得ていたのは大したものだと思った。
 神であれ、罪であれ、「人間にとっては全ての物事が相対的であって絶対的なものなど何もないのは、人間が「人の間」と表されるように“関係性の生き物”である以上、自明のことだ」というのは、兼ねてより僕自身の感得しているところだが、そのような視座において園監督とは人間観が一致しているのだろう。かなり特異な人物、異様な事件を描いている作品のいずれを観ても違和感がほとんどなく共感を覚えたのは、同世代者であること以上に、そういったことが作用しているような気がする。
by ヤマ

'10.11.13~14. 美術館ホール



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