『マイスモールランド』
『ワタシタチハニンゲンダ!』
監督 川和田恵真
監督 高賛侑

 高知大学サークル橋人及び日高村地域おこし協力が主催する入管問題って何だろう?」と題する映画上映会に参加した。


 一日目に観たのは、『マイスモールランド』。クルド人が出て来る映画と言えば、クルド人映画監督バフマン・ゴバディによる酔っぱらった馬の時間['00]わが故郷の歌['02]亀も空を飛ぶ['04]サイの季節['12]が思い浮かぶが、最初にクルド人を知った映画は、こうのとり、たちずさんで['91]だったような気がする。また、フィリップ・リオレ監督の君を想って海をゆく['09]には、ドーバー海峡を泳いで渡ろうとするクルド人青年が登場していたが、日本映画に登場するクルド人を観たのは初めてのことのように思う。マイスモールランドとなって、マイスモールカントリーとならないのは、クルド人が自身の国家を持たない人々だからなのだろう。

 クルド人女子高生のチョーラク・サーリャを演じていた嵐莉菜が実際にクルド人なのかどうかは判らないが、お人形さんみたいとバイト先のコンビニの客の老婦人が劇中で言っていたように、瞠目せずにいられない美少女だった。その父マズルム、妹のアーリン、弟のロビンの名がそれぞれアラシ・カーフィザデー、リリ・カーフィザデー、リオン・カーフィザデーとカタカナ表記だったので、一人だけ帰化しているのだろうかと思ったりした。また、三日前に観たばかりの『キリエのうた』に出ていたサヘル・ローズが本作にも出演していたのが目に留まった。

 それはともかく、ビザが失効してから後の不法滞在において、収容猶予とされた「仮放免」についての具体は知らずにいたから、その実情というか過酷な不自由さに些か驚いた。庇護し支援してくれる者がいなければ、犯罪に手を染めなければ、生き延びられない程の制約が課せられていて、ある意味、衣食住は確保される収容の運用実態はともかく制度的には、より過酷なのではないかと思われる縛りようだと感じた。「仮放免」という用語も随分なものだと思うが、まさに日本政府が犯罪のほうへ向かわせているとも言えるような制度だという気がしてならない。当日、会場で配布されたレジュメによれば、・就労権がない・医療費は全額自己負担・居住県外への移動の制限・進学、就職ができない・月1~2カ月に1回の入管への出頭義務とのことなので、自活の道が閉ざされているということだ。

 国民ではないのだから、憲法の保障する人権を認める義務が国に課されておらず、また正式に入国を認めていないのだから、入国手続きを果たした者に賦与される権利を与える根拠がないということなのだろう。だが、国民であろうとなかろうと、丘の上の本屋さんでも高く掲げられていた世界人権宣言を法務省のHPにも外務省のHPに掲げておきながら、かような人権無視というのは、余りにも無責任だとかねがね思っているところだ。そもそも「外国人」というのは何を以て言うかを思えば、偏に「国籍」つまりは国のお墨付きの有無でしかないわけで、人種でも民族でも係累でも成育歴でもない。同じ人が外国人になったり自国民になったりする類の代物でしかないことによって、世界人権宣言においてすべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準としている人権を蔑ろにするどころか侵害して構わないはずがない。

 僕は、入国審査などやめて、国籍なんぞ届け出制にすればいいのではないかと思っているのだが、外国人排斥の機運は今世紀になって地球規模で拡がっているような気がする。本作で難民申請を認められなかったマズルムが脚に残る傷を見せて、拷問を受けた証拠だと申し立てていたが、その傷跡が拷問によるものである証拠がなければ、傷があるだけでは認定できないのも無理からぬ話だ。だからこそ、審査や認定をやめるべきだと思う。外国人の入国を無制限に認めれば、治安が悪くなるなどという根拠薄弱な感覚的な意見を言い立てる向きもあるが、上述したように、不法滞在や無体な「仮放免」によって国が犯罪に駆り立てているから外国人が治安を悪化させるという印象を与えているに過ぎない気がしてならない。

 映画の上映後には、主催の高知大学サークル橋人及び日高村地域おこし協力隊のメンバーが加わってのテーブル討議が自由参加で設けられていたが、僕のテーブルに付いた協力隊のケルビー咲野さんが、自身の体験としてのイギリスの入管審査の排外的スタンスのあからさまぶりを教えてくれたが、手続き段階におけるぞんざいさは日本以上ではないかと思った。彼女は、日高村で村内の外国人就労者対象の日本語教室を運営しているとのこと。村規模の自治体で外国人向けの日本語教室とは思い掛けなくて、驚いた。若い人たちの意見も聴けて、なかなか有意義な時間だった。三日ほど前の地元紙に、共同通信からの配信の「いま、語る」による元入管職員への聴取記事があり、入管の職員は世間で言われているほど、人権感覚が鈍いわけではない。疑問を感じている人はたくさんいます。特に若い職員は、国際的な仕事をしたい、外国人の役に立ちたいと考えている。ところが、法律で体制が決まってい入るから、前例踏襲で行くしかない。と述べていたので、翌日、同じテーブルに付いた大学生にコピーを提供したところ、この元職員の人のことは知っていたけれど、新聞記事のほうは知らなかったとのことで、喜ばれた。


 二日目に観た『ワタシタチハニンゲンダ!』は、日本の外国人差別政策の端緒は、創氏改名などによる皇国臣民化政策にあるとしている作品で、四年前に観た戦後在日五〇年史[在日]['97]に綴られた歴史に加えて、なかんづく在日に焦点を当てた同作では描かれてなかった「研修制度」及び「技能実習制度」に焦点が当てられていたような気がする。後者において特筆すべきは、外国人労働力に対する使い捨て政策が、財界筋からの要請によって、バブル期にやむなく入国受入を拡げたうえで、基本的に流入を拒んでいる政府与党の姿勢によって、増大した入国者に対する弾圧とも言うべき対応を入管に取らせていると指摘していることだったように思う。

 前段の歴史の部分では、『[在日]』と違って、朝連や朝鮮総連には言及しつつも、民団には一切触れていないことが目に留まった。高賛侑監督の立ち位置から来るものなのだろう。また、『[在日]』にも出てきた大村入国者収容所の話が出てきていたことが目を惹いた。

 前日に観た『マイスモールランド』の結末に大きく関連してくるカルデロン一家問題がきちんと語られ、難民認定問題における恣意性というか政治性に対する糾弾が行なわれていたことが印象深い。入管制度というのは、誰のためのものなのだろうと改めて思った。

 前日のケルビー咲野さんとは異なる日本語教師の方が加わった映画上映後のテーブル討議では、国籍など出生届と同様に届け出制にして入国審査を止めれば、入国管理に係る公務員による人権侵害など防げるという僕の意見に対し、彼が思い掛けない発想で驚いたと言いつつ、非常に興味深いと共感を示してくれた。そこで、届け出制にしても入国手続き自体は必要なので、その際に審査ではなく、入国後の利便とトラブル予防を兼ねて観光、就労といった滞在目的に応じた日本語及び慣習研修を課してその修了証としてビザを交付するよう制度化すればいいと思っていると話し、そうすれば、あなた方のお仕事も増えるしと添えると笑われた。他国にはない制度かもしれないけれども、他国には例のない平和条項を憲法に掲げている我が国なれば、率先垂範してみてもいいではないかと本気で思っているようなところが僕にはある。

 人と人とのコミュニケーションにおいて非常に重要な部分を担っているのが言葉と慣習理解だと思っているからだ。事前審査などせずとも入国後に問題を起こせば、自国民と同様に当然ながら国内法による相応の処分を施せばいいのであって、国籍を持たないということだけでの審査も収容も本来的には必要のないことだという気がしてならない。
by ヤマ

'23.10.28,29. 日高村役場3F大会議室



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