戦後在日五〇年史[在日]』['97]
監督 呉徳洙

 チラシに記された今は亡き土本典昭監督の五〇年に一本生まれ得るかどうかという傑作である。…この映画を見るか否かで、われわれの「在日」の見方が左右されると言っても過言ではないとの言葉に大きく首肯せずにはいられない作品だった。'45年の日本敗戦による“解放”以降五十年を概観する歴史篇(135分)と、その五十年のなかを生きて来た六人の[在日(一世一人、二世二人、三世三人)]に焦点を当てた人物篇(123分)という二部構成によって、スケール感のある奥行きと存在感を醸し出していて実に観応えがあった。'01年にGOを観たときに、杉原(窪塚洋介)が中学まで朝鮮民族学校に通い、高校から国籍を韓国に変えて在日韓国人として日本人の普通高校に通っていた国籍の件について、確かに大問題ではあるのだけれども、そのどうにでもなる国籍のいい加減さに不思議な気がしたのだが、本作を観て、そのあたりの事情がよく判った。

 そして、今から二十五年を遡る'95年当時に、'91年日韓協議に基づく特別永住者への指紋押捺制度からの除外が、在日コリアンによる運動のみならず、日本国民の支持と後押しあってのものだったとしていた本作を観ながら、今ならとてもじゃないけれども、かような流れを生み出すことはできなくなっていることに気が塞いだ。本作でナレーターを務めていた亡き原田芳雄が残している優れたドキュメンタリーは優れたフィクションでもあります。映画[在日]の中で呉監督は解釈、注釈を付与せず、この映画証言から立ち上がってくる観るもの一人ひとりの想像力に委ねます。またそれはチョロチョロくすぶりはじめた記憶(歴史)の除外や都合の良い選択、捏造、浄化への表象でもあると思います。とのチラシに記された言葉を噛み締めなければならないと思った。八年前に亡くなっている彼が二十余年前に「チョロチョロくすぶりはじめた」と記していることを今や公言し強弁する政治家が政権与党を闊歩する時代になっている。


 祖国解放五〇周年、光復五〇周年を祝う日韓での記念行事の様子から始まった第一部では、'45年から一年の間に半島に帰国した140万に対して残った60万人がいたことから、大日本帝国下では日本人だった人々が戦後[在日]と呼ばれる基になったことが紹介されるとともに、彼らが解放により外国人とされることに伴い参政権を停止されながら、'48.8.15.の大韓民国樹立、同年 9.9.の朝鮮民主主義人民共和国樹立まで所属する国もないまま、今のクルド人のような状況に置かれたということのようだ。言われてみれば、成程そうなるしかなかったのだろうけど、なかなか凄いことだと改めて思った。帰属する国がないなかで彼らが拠り所にしたのが、'45年に結成された十年後には朝鮮総連【在日本朝鮮人総連合会】の母体となった朝連【在日本朝鮮人連盟】であり、先ごろ金子文子と朴烈(パクヨルで観たばかりの朴烈を担いで翌'46年に結成された建同【新朝鮮建設同盟】と合体して民団【在日本朝鮮居留民団】となった建青【朝鮮建国促進青年同盟】だったようだ。在日の人たちにおける朝鮮総連及び民団の存在の大きさというのは、国家樹立に先駆けて混乱期に国なき在日の人々の拠り所だったからなのだと大いに得心が行った。それとともに、朝鮮建国という所期の名称の変更を余儀なくされる南北国家樹立に伴う両団体の勢力争いと日本を含めた三ヶ国の都合に、民が置き去りにされたまま振り回される状況に今なお置かれている根っこの構造がよく判った。映画パッチギ!で幾度も取り上げられていたイムジン川の歌詞の意味しているところは、そこにあるわけだ。

 特に目を惹いたのは、当時、在日の人々に外国人登録制度を設けたのは、今でいう“グリーンカード”の発行を企図したもので彼らの市民生活を保障するためのものだったのに、当時の日本政府が排斥の論理による運用を図ってその意を汲まなかったとの証言を元GHQ担当者がしていたことだった。元担当者の弁とはいえ、それがそのまま事実だとも思えぬところがあるが、少なくともマッカーサーによる憲法草案で第13条及び第16条において外国人の権利として明記してあったらしい。そのGHQ草案で「外国人」及び「すべての自然人」としていたところを日本政府案で「国民」に置き換えることによって、日本国籍を持たない者を排除する形にして制定したことに紛れはないようだ。また、'48年に朝鮮人学校閉鎖令反対闘争の渦中で、十六歳の少年【金太一】が日本の警官に射殺される事件が起こっていたことを僕は知らずにいたから、かなり驚いた。今まさに香港で起こっていることが七十年前の日本で起こっていたわけだ。

 次の五十年代は、'50.6.25.に勃発した朝鮮戦争に彩られることになる。民団側は自願軍を結成し、総連側は民戦を結成して、日本から渡って参戦し、少なからぬ犠牲者を出したとのことだった。こういうことを起こしてしまうと、在日のなかでも拗れた関係が根深いものになっていくのは当然で、戦争の罪深さには全く度し難いものがあるわけだが、周知の事実として、この朝鮮半島の人々の犠牲による“戦後日本の経済復興の足掛かり”があってこその後の経済大国であることを、日本人は忘れてはならないように思う。

 この章で特に印象深かったのは、小松川女子高生殺害事件を起こし、犯行時十八歳でありながら死刑宣告を受けて処刑された李珍宇と日本プロ野球で殿堂入りまで果たした張勲【張本勲】という同い年の二人を並べて、当時の在日の明暗両極を映し出していた部分だった。『パッチギ!』と違って、ザ・フォーク・クルセイダーズの♪悲しくてやりきれない♪が流れたりはしなかったように思うけれども、殺人犯と球界のスターに分けたものに差別の影が差していないはずがないと思われるような李珍宇の人物像が描き出されているように感じた。

 六十年代は、五十年代末の安保闘争と帰国運動の高まりを伝えた後に示された'60.4.19.に李承晩体制が倒れて張勉が首相に就くことになった四・十九革命から始まり、翌年の軍事クーデターによる朴正熙軍事政権誕生が大きく作用していて、近年“決着済”の代名詞としてしばしば引用されている'65年の日韓基本条約及び在日韓国人法的地位協定の調印が、在日の国籍比率を逆転させたことを伝えていたのが目を惹いた。“協定永住”が韓国籍を前提にしていたために起こった現象のようだが、条約にしても地位協定にしても、著しく政治色の濃い取引だったような気がする。僕が十歳になる直前だった金嬉老事件には覚えがあるけれども、彼が口にしていた蔑称としての「アサ公」には覚えがない。全国的に使われていたものだったのだろうか。

 新谷のり子の歌で僕にも同時代に耳馴染みのあるフランシーヌの場合のインストゥルメンタルが流れて始まった七十年代は、よど号ハイジャック事件と三島由紀夫の割腹自殺で明け、梁政明【山村政明】の自死、朴鐘碩の日立就職差別裁判での法廷闘争勝利、バレーボールの白井貴子の活躍、金敬得の韓国籍での司法修習生採用といった出来事が紹介され、朴正熙大統領の暗殺で終わっていたように思う。

 印象深かったのは、個人によるエポックメイキングな出来事の数々が取り上げられていて、これまでの団体中心の動きからの脱却が始まったことを示していたことだった。なかでも、朴鐘碩の入社二十年後と金敬得の'95年当時の証言が、併せて得られていて、感慨深いものがあった。

 5.18.の光州事件から始まり、昭和天皇崩御の年で終わった八十年代は、「たった一人の叛乱」と呼ばれた韓宗碩による指紋押捺拒否から始まり反外国人登録法闘争に発展した十年が描かれ、 全斗煥大統領と中曽根首相の会談という演出によって“特例永住”者への押捺更新を要しない1回登録制を打ち出しながら、初回押捺を拒否する若者が現れるほどの運動の高まりが捉えられていた。

 盧泰愚大統領の来日及び南北首脳会談から始まった九十年代は、'65年の日韓基本条約に際して約した二十五年の再協議によって“特別永住”への一本化が図られ、特別永住者の指紋押捺制度からの除外が果たされるに至ったことが示されていた。これに伴い、'48年に在日本朝鮮居留民団から在日本大韓民国居留民団に改称していた民団が居留の文字を取って在日本大韓民国民団に改称したとのことだった。そして、指紋押捺制度からの除外を得た後のテーマが公務員任用及び地方参政権に係る国籍条項の廃止に移ったことが示されていた。


 学生時分のテレビドラマでクンタ・キンテを追って僕が観た『ルーツ』の原作者アレックス・ヘイリーの「われわれは何処から来て なぜ、今の場所にいるのか」との言葉で閉じられた歴史篇に続く、パチンコの景品買いで家族を養ってきた一世一人、美術コレクターとブルースシンガーの二世二人、テレビ報道カメラマンと陸上十種競技者、『にあんちゃん』の作者である安本末子の娘という三人の三世に焦点を当てた人物篇では、やはり特別なエポックメイキングな出来事とは関係ない無名の一世女性の鄭秉春による【家族】が最も印象深かった。

 東京オリンピックが迫るなか都市整備のために住んでいたバラック長屋を追われていた当時の記録映像が残っていて三十余年後との対照が示されるのだから、強烈だ。かつて新宿の路上で景品買いをやっていたのが、小綺麗な身なりで人を使って事務所然とした店舗を構えて営んでいた。家にはルノアールやミケランジェロ、ゴヤなどの画集が応接間に並んでいて、2ヶ月に1回、青森に湯治に出るのを楽しみに暮らしていると言うが、長女は済州島、次女は十二歳のときに行方不明で、三女は帰国運動のなかで'72年に北鮮に渡ったきりだそうだ。四女が'64年に済州島から帰国した際に密入国で拘留された長崎の大村収容所に引き取りに行く姿が当時の記録映像で残っていて驚いたが、考えてみれば、このフィルムが残っていたからこその'95年の彼女への取材だったのだろう。

 事業で成功して得た富を在日同胞画家の作品収集に努め、私設美術館を開設するつもりが先祖の地である光州市立美術館にコレクションの半分を寄贈し、在日作家の画業を紹介する一室を構えてもらったり、貧しい少年時代を過ごした秋田県田沢湖町で戦前の発電所工事に徴用工として駆り出されて強制労働の犠牲となった朝鮮人労働者の慰霊碑を建立したりしている二世の河正雄による【故郷ふたつ】も観応えがあった。

 もう一人の二世は、僕もCDを持っていて6章~48番まである四十分を超える『清河への道』を歌った新井英一で、彼による【在日ブルース】では、本当に久しぶりにその歌声を聴いたように感じた。福岡で生まれて十五歳で家出をした後、二十一歳でアメリカに渡り、'75年に二十五歳で帰国したそうだ。清河への道は、自身の帰化問題に悩むなかで父の故郷を訪ねる旅のなかで生まれた歌だった。

 日本テレビの報道カメラマンである三世の玄昶日による【挑戦】は、'70年代の日立就職差別裁判を闘った朴鐘碩の頃からすると隔世の感があり、陸上十種の金尚龍による【飛翔】もまた、'70年に山村政明が抱えた苦悩とは余りに対照的なアイデンティティ感覚が鮮烈だった。映画化作品の『にあんちゃん』['59]を僕が観たのは、もう三十年くらい前になるNHKでの放映だった覚えがあるが、とても印象深い作品だった。その作者の娘である女子大生の李玲子が母親の育った炭鉱町を訪ねていた【明日】では、廃屋となったまま残っている長屋での、かつての母親の暮らしがもはや想像も及ばないほどの寂れようのなかで、母の面影を自分に見て声を掛けてくれる老婦人と出会う場面が心に残っている。

 実に大した作品だった。
by ヤマ

'19.11.10. 自由民権記念館・民権ホール


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