『牝猫たちの夜』['72]
『真夜中の妖精』['73]
愛欲生活 夜よ、濡らして』['81]
新宿ラブ・ホテル 週末㊙天国』['73]
監督 田中登
監督 田中登
監督 西村昭五郎
監督 遠藤三郎

 『みうらじゅんのグレイト余生映画ショー in 日活ロマンポルノ#115』の「新宿」というテーマで収録されていたディスクの「牝猫たちの夜【原英美】、真夜中の妖精【山科ゆり】、愛欲生活 夜よ、濡らして【風祭ゆき】、新宿ラブホテル 週末マル秘天国【牧れい子】」というラインナップのなかの最初の作品牝猫たちの夜は二十年ぶりの再見作だ。

 二十年前に朝日新聞の家庭欄でアダルト映画 女性が共感との見出しの記事で紹介もされていたウェブサイト「ロマンポルノ女性友の会」の井田祥子さんから薦められて観ているのだが、当時そうだったように、あまりピンと来なかった。

 ソープランドなる用語に変更される前の「新宿トルコ極楽」などという、時代風俗を知らない人が聞くと、新宿なのかトルコなのか極楽なのか、場所が判らない名前の店で働く三人の特殊浴場嬢の生態を描いていたけれども、哀感でも明朗でも実録でもない半端さと女優の魅力の乏しさから、僕には本作が名高いことの気が知れない感じのほうが強い。画面に映っていた路上に立てられた三角看板に記された入浴料1000円 サービス料500円は記載間違いなのだろうが、作り直す製作費がなかったのだろう。現場では、きっとどやされたに違いないと思った。

 平成末の【ロマンポルノリブートプロジェクト】の牝猫たち['16]は、おそらく本作を踏まえて撮られた映画だろうが、そうまでされるほどの作品かと思わぬでもない。もっとも、白石和彌監督による『牝猫たち』のほうはなかなかのものだった覚えがある。


 次に観た『真夜中の妖精』は、二丁目と思しき新宿の路地を映して始まった同じ田中登監督の翌年作品だった。『牝猫たちの夜』もそうだったように、田中作品とは相性がよくないようで、まるで響いて来なかった。大傑作と世評の高い㊙色情めす市場['74]でさえ、敢えて挑発のための挑発に終始しているような気がしてならなかったのだから、本作に少々頭でっかちなあざとさを覚えるのは、致し方のないことだと思う。

 焦点の合わない中空を見る眼差しに、今や死語となっている「白痴美」という言葉が当時けっこう流行っていたことを想起した山科ゆりの演じたカナリヤと呼ばれる娘は、父親も知れぬと思しき赤子を乗せて吊るした揺り籠の下で客を取っている娼婦だが、彼女が口ずさみ愛唱している「歌を忘れたカナリヤ」なるものの表象する“役立たずの無用者”で、犯罪者にさえなれない青年(風間杜夫)の成れの果てが描かれている作品だった。主役を演じた風間杜夫は、十代の面影を残す若々しさで、恵まれた階層にて暮らす人々への怨嗟をよく演じていたようには思うけれど、物語の仕立てのせいか、僕の年齢によるものか、どうにも共感が湧かないどころか♪いえいえ、それはなりませぬ♪としか思えなかった。

 僕の記憶にある♪かなりや♪の西條八十の詞は、♪いえいえ、それはかわいそう♪のほうだったが、敢えて「なりませぬ」のほうを持ってきているのは、そちらのほうが一般に知られているからなのか、不条理のオンパレードのような作品世界だからか、いずれなのだろうと思ったりもした。

 また、「おとうさん」という言葉の多義的な使われ方にも少々思わせぶりなものを感じた。カナリヤが求めていた「おとうさん」の理想像は、年端もゆかぬ青年だった。もっともカナリヤは、べろべろ相手=おとうさんと呼んでいた気もする。おそらく彼女の成育歴において起こっていた出来事を暗示しているのだろう。それはともかく、そのカナリヤを演じた山科ゆりよりも、標的にされた御令嬢の冴子を演じた潤ますみのほうが目を惹いたように思う。映画としては、わりと重要な意味合いをまとって画面に現れてきていたように感じる軌道としての線路は、何処のロケーションだったのだろう。当時の新宿界隈にはまだ路面軌道の残っている場所があったのだろうか。'76年に上京した僕の記憶では、新宿のあの辺りにそのような線路はなかったような気がした。


 三作目の愛欲生活 夜よ、濡らして』は、唯一の八十年代作品。元ガソリンスタンド店員の売春婦トモエ(風祭ゆき)が愛猫コロの亡骸を抱えてこんな街、出て行きたいと呟くとき、本作が「新宿」とのテーマのもとにセレクトされた四本のうちの一本でなければ、街=東京と映ったはずものが、街=新宿という感じになったので、画面に垣間見えた電柱やビルの掲示物に窺えた「六本木」の文字に対して妙な違和感が生じて可笑しかった。

 やっていることのろくでもなさは、手下格の三人組にトモエを強姦させたシノダ(中田譲治)のほうが、トモエを見棄ててその場を独りで逃げ出した恋人(明石勤)よりも阿漕なはずなのだが、彼女に売春をさせたカネでギャンブルに現を抜かすシノダの仕打ちには、どこか女の心底を試すことで安堵を得ずにいられない執着の哀しさが漂っていて、トモエに愛想尽かしをされるや彼女のルームシェアメイトの同僚(萩尾なおみ)に乗り換えてベッドに潜り込んでいる元恋人のほうが、もっとろくでもない男のように映る人物造形が施されていたような気がする。

 風祭ゆきは、僕の好みからすれば、ボリューム感に乏し過ぎるのだが、ニュアンス豊かに見せる表情に魅力があり、シノダや元恋人に対して抱く複雑な思いを台詞抜きに巧みに表現していたし、強姦や強要、睦み事、売春、見世物といったさまざまなシチュエイションによって開かれる女体に対してみせる反応を演じて、なかなか見事なものだと感心した。客の求めに応じて娼婦仲間のカズエ(麻吹淳子)と繰り広げていたレズショー場面やラストカットの何某かの決意を秘めた面持ちのクローズアップがとりわけ印象深かった。


 最後の新宿ラブ・ホテル 週末㊙天国』は、ラブホテルの一室に置かれた水槽に入れられた鮒の目撃するカップル四態を描いた作品だった。ラブホテルに観賞魚の入った水槽など、あるはずもない気がするが、旧来の連れ込み宿と違って従業員との対面の必要がないからこそ人気を得たはずのラブホテルに客室案内係のイク子(牧れい子)がいたりするのと同様に、作劇上の必要性からなのだろう。観賞魚ではなく鮒で名がゲンゴロウというのも可笑しいが、由利徹の声の鮒による序章での前口上は、なかなかよかった。

 高度成長期を経て豊かになったと言いながら、食糧危機や地震、公害によって安心安全が損なわれ、人生五十年どころか人類二十年と言われる昨今、という語りが今からちょうど五十年前の1973年のことなのだ。食糧危機や公害はともかく、地震というのが思いがけず、意表を突かれた。そして、潜在的不安のもと人々は、山あり谷あり泉あり、ほとりには若草まで萌える生まれ故郷を求めて、二百軒以上あるとも言われる新宿のラブホテルに一日で五万人ものアベックが参集しているという触れ込みだった。一日五万人と言えば、二万五千組だから二百軒二十室で割れば、一室一日六組余り。確かに、そんなものだったのかもしれない。凄い数字だ。

 その鮒が目撃した四態の男女の営みは、年少兵だった戦時中に女装をさせられ上官に犯されたことが忘れられず、女装した自分に軍服姿で挑んでもらわないと勃起しなくなっている男と枕営業ホステスのハルミ(大山節子)、初めて結ばれた感激に結婚を誓い合う若いカップルの明男とヒデ子(葉月かおる)、カネに細かいケチ中学教師と売春目的の女子高生(静ゆき)、出入りの寿司屋とイク子だったが、あまり上手い風俗描写、性事情とは言えず、序章での由利徹の軽妙な前口上ほどに気の利いたものには、なっていなかったように思う。


 こうしてみると「新宿」の名の元にある四本は、ソープランド、特飲街、管理売春、ラブホテルとなるわけで、いかにもという気がしなくもない。四作品のいずれにも歌舞伎町のバッティングセンターが映らなかったような気がするのが、やや心外だった。
by ヤマ

'23.10.31.~11. スカパー衛星劇場録画



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