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007🔫 THE SEAN CONNERY COLLECTION
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これが『007は殺しの番号/ドクター・ノオ』か。その名は知れど、既見か未見か心許なかったが、たぶん初見だ。ハニー・ライダー(ウルスラ・アンドレス)の登場シーンしか見覚えのある場面がなかった。馴染みのテーマ曲からの継ぎ接ぎ感満載のオープニングクレジットに唖然としたが、極めて解像度の高い画面の綺麗さに吃驚。ブルーレイにしても、凄いものだ。 映画としては、今どきの目まぐるしいほどに捏ね回した、刺激度ハイパーインフレのアクション映画からすれば、なんとも緩くて捻りのない運びの長閑さが却って新鮮に思われるほどだった。この時分のショーン・コネリーのスタイルの良さとダンディぶりは流石というほかない。ドラゴン戦車のデザインと放射能汚染の除染場面に失笑し、原子力施設を爆破破壊して一件落着としていることに恐れ入った。また、手元にある'72年のリバイバル公開時のチラシにはアーシュラ・アンドレスと表記されていることに驚いた。リバイバル公開時でもアーシュラだったのなら、いつウルスラに変わったのだろう。 翌日観た『ロシアより愛をこめて』は、『ドクター・ノオ』と違い、『危機一発』からタイトル名を変えた丁度半世紀前のリバイバル公開時にスクリーン観賞をしている。第一作の継ぎ接ぎ感満載のオープニングクレジットから一転して、踊る女体に投影された文字が揺らめく見事なタイトルバック【デザイン:ロバート・ブラウンジョン】に変貌しており、ダニエラ・ビアンキの文字が腿の動きで妖しくうねっていて感心した。 前作のカジノで知り合ったシルビア・トレンチ(ユーニス・ゲイソン)が半年も放ったらかしにされたとしな垂れかかってくるように、物語の運びが前作を踏まえているばかりか、ゲームに始まり、水上でのしっぽりシーンで終える首尾を踏襲しながら、賭博のカードゲームをチェス選手権に替え、ジェームズ(ショーン・コネリー)の訪れる異国の街をジャマイカからイスタンブールに替えて、タイトルバック同様、洗練度をアップしている。ロマ女性リーラ(リサ・ギラウト)の瞠目の腰振りダンスやらゾーラ(マルティーヌ・ベズウィック)とヴィダ(アリジャ・ガー)によるキャットファイトの場面を盛り込むなど、エロティック度や便利なカバンの活躍、グラント(ロバート・ショウ)との格闘やヘリ爆破などのアクションシーン、「Call Me Bwana」のアニタ・エクバーグの“口は災いの元”場面の件も含め、何もかもが五割増しになっていたような気がする。ボンドガールとしても、ウルスラ・アンドレスより、アニタことタチアナ・ロマノヴァを演じたダニエラ・ビアンキのほうが好いように思う。 監督がガイ・ハミルトンに替わった『ゴールドフィンガー』は、作品タイトルに相応しく全身に金粉を塗った“踊らない”女体の各パーツに動く画像を投影した、かなり前作を意識したタイトルバックで始まったが、せこいイカサマでカードゲームに臨むオーリック・ゴールドフィンガー(ゲルト・フレーベ)の実にスケール感に乏しい悪役ぶりと、かなり緊張感を欠いた危機一髪感に乏しい運びが、前作に及ばない印象を残す作品だったような気がする。 思わず笑いの漏れる“残務整理(unfinished business)”から始まった出だしも、全身の金粉塗布で窒息死させられたジル・マスターソン(シャーリー・イートン)という、視覚効果のみ抜群の実に手の込んだ呆気にとられる殺しの場面も好かったのに、残念だ。 だいたい己が保有する金塊の価値を高めるために、ほかの金を放射能で汚染するだの、空中からの毒薬散布による大量殺人だの、何とも貧相でセンスのない悪党ぶりに興覚めを覚えた。殺し屋オッドジョブ(ハロルド坂田)のキャラクターと必殺技の山高帽は忍者っぽくてなかなか笑えるのだけれども、最後にボートではなく、パラシュートの傘布にくるまってしっぽりのオナー・ブラックマン扮するボンドガールに命名されている“プッシー・ガロア”にしても、なんだか身も蓋もない感じで、ボンドシリーズに望ましいスマートなお洒落さを損なっている気がしてならない。 監督がガイ・ハミルトンからテレンス・ヤングに戻った『サンダーボール作戦』は、007のオープニングロゴの射撃が、これまでの少々鈍臭く感じる捻り飛びから、素早い回転に変わるとともに、序章でのアストンマーティン・DB5からの放水に続いて、水中遊泳のシルエットによるトップレスと思しき美しく妖しいタイトルバック【デザイン:モーリス・ビンダー】が始まり、その既視感から既見作であることを確信した。おそらくリバイバル公開の1974年に観たのだろう。 特典画像のボンドガールに挙がっていたのは、序盤に登場した保養所のパット・ベル(モリー・ピータース)と、スペクターのNo.2であるラルゴ(アドルフォ・チェリ)の愛人ドミノ(クローディーヌ・オージェ)だったが、スペクターのフィオナ・ヴォルベ(ルチアナ・パルッツィ)のほうが目を惹いた。 かなり盛沢山なエピソードによって約130分となっていたが、110分程度の軽快さが好もしいシリーズだと改めて思った。最後はきっちり海上ゴムボートでのしっぽり場面で終えるのかと思いきや、序章での空飛ぶボンドを受けてなのか、意表を突く空中吊りとなったが、しっかり抱き合っていても、あれではしっぽりとはいくまいと妙に可笑しかった。 それにしても、いくら最後には“ミンク酔い愛撫”で篭絡してはいても、パットの弱みに付け込んだセクハラ以外の何ものでもない、口説きを欠いた“積極さ”なり“強引さ”というのは、お洒落でもスマートでもなく、ジェームズには似つかわしくない気がしたが、存外、不遜な自信のもたらす本性なのかもしれない。だが、ボンドガールは割といいし、小道具が面白いし、ラルゴのキャラも悪くないから、マネーペニー(ロイス・マクスウェル)への軽口にも出てきていた部分も含めて“お仕置きネタ”など割愛し、100分に絞り込んでいたら、存外イケるのではないかという気がした。 監督がルイス・ギルバートになった第五作は、これが浜美枝がボンドガールをやった『007は二度死ぬ 』かとの思いで初めて観たものだが、思いのほか面白かった。やはり、このシリーズは120分を切らないといけない!と改めて思った。 ショーン・コネリー時代に既に宇宙に出ていたのかと驚いた序章だったが、寸でのところでジェームズは、スペクターNo.1のブロフェルド(ドナルド・プレザンス)によって降ろされていた。シルエットの水中遊泳がとても魅力的だった前作のタイトルバックに対して、炎ではなく、たぎる溶岩に転じ、主題歌もトム・ジョーンズの男声からナンシー・シナトラの女声に替え、東洋趣味全開に変じつつ、どうやらトップレスだけは踏襲しているらしきシルエットにほくそ笑んだ。だから溶岩だったのか、との納得が最後に得られるのが好い。 『乱れる』['64]、『君も出世ができる』['64]、『若い娘がいっぱい』['66]、『乱れ雲』['67]でも目を惹き、待ち遠しかった浜美枝の登場が散々焦らされたのには閉口したが、前作にて強引なセクハラでパットをものにしていたジェームズとは違って、キッシー(浜美枝)から寝床を別にすると言われて「体に毒だな」と精のつきそうな牡蠣を食べるのを止める場面が、可笑しくも好もしかった。最後は、最早お約束とも言える洋上のボートでのしっぽり場面となっていて、加えてそこに一工夫施されていて、最初に出てきた「潜水艦にマネーペニー(ロイス・マクスウェル)のいる本部って何故?」というのが、最後に「そういうわけね」と腑に落ちたことも気に入った。荒唐無稽の出鱈目に作っているようでいて、けっこう周到なのがとても好い。 ロケット発射基地のありそうな島を探索するスパイ活動のために何故、海女と結婚する必要があるのか不思議なのだが、“牡蠣は体に毒”とラストの“ハネムーンの続き”のためだったかと、潜水艦ともども納得。そういう類の仕掛けが満載だったような気がする。また、「リトル・ネリー」とヘリコプターの空中戦も、タイガー田中(丹波哲郎)率いる忍者部隊による最後の宇宙船基地の襲撃場面もけっこう壮観で、なかなか見映えがしたように思う。アキ(若林映子)の殺害方法が時代劇でも見覚えのある忍者スタイルだったのは、敵味方反対じゃないかという齟齬があるけれども、ロジカルな辻褄よりも雰囲気重視は作り手側の確信なのだろうから、スペクター側の暗殺方法としての不適合性など、ものともしないわけだ。周到と杜撰の匙加減の相性が僕の嗜好に合っていて、なかなか美味しく食することのできる作品だった気がする。 第三作『ゴールドフィンガー』のガイ・ハミルトン監督が再登板した第七作『ダイヤモンドは永遠に』は、ブロフェルド(チャールズ・グレイ)の猫の目からの宝石繫がりで始まるモーリス・ビンダーによるタイトルデザインも前二作ほどの冴えはなかったような気がする。イサム・ノグチの灯を設えた和室から始める展開には『007は二度死ぬ 』ならぬ「ブロフェルドは二度死ぬ」との趣向かとニンマリしたものの、ブロフェルドは終盤に至るまで全く登場しなくなって、珍妙な殺し屋コンビが付き纏う奇妙な展開にげんなりした。 主題歌も『ゴールドフィンガー』と同じシャーリー・バッシーに戻していたガイ・ハミルトン監督版は、僕とは、どうにも相性が悪い。「ブロンドと黒髪とどっちがいい?」と訊かれて「下着との兼ね合いだな」と返すジェームズには流石だなと感心したが、ティファニー・ケイス(ジル・セント・ジョン)にしても、葬儀社にしても、サーカスなどの見世物小屋にしても、謎めいていると言うより訳が分からず、場面を見せるためだけのもので、まるで話になっていない気がしてならなかった。ラナ・ウッドの演じていたプレンティ・オトゥールに、添え物以外の何の役割があったのだろう。 どうやら「お決まり」らしいラストの洋上でのしっぽり場面が、ボートではなく、大型船になっていたことには意表を突かれ、そう来たかと少し感心したが、客船に変えるのは、やはり方向性が違っているだろうと思い直した。けっきょくダイヤモンドは、どうなったのだろう。宇宙を浮遊しているだけだろうか。それでも、核開発競争に明け暮れて、とんでもない兵器を保有することのリスクを五十年以上前から端的に突いていた点は、御見事だった。本作でのスペクターがAI制御に替わる日が来るのも遠くないのではとの懸念が湧くほどに、現代の権力者たちの無責任ぶりが空恐ろしい。 それはともかく、六枚組BDコレクションを貸してくれた映友が見どころを四点も挙げていたことに感心しつつ、「バストトップがはっきり写っているのは本作だけなのでは?」と記していた箇所に唖然とした。僕としたことが、そこを見落とすとは、よほど漫然と観ていたのだなと苦笑したわけだ。そこで、早送りしながら探してみたのだが、ボンドガールには、どうも見当たらなかったように思う。ジル・セント・ジョンのニップルパッチがちらっと覗くミスショットならあったのだけれども。「接眼でメガネを上げて見んと見えんかも」とも言っていたので、もしかするとショーガールのレビューのことなのかもしれない。 【追記】'23.11.17. BD観賞で『女王陛下の007(On Her Majesty's Secret Service)』['69](監督 ピーター・ハント)を観た。飛んでいたシリーズ第六作だ。 第五作『007は二度死ぬ 』を観た際に、前作『サンダーボール作戦』が約130分だったことに対して「やはり、このシリーズは120分を切らないといけない!と改めて思った。」と記していたが、本作では再び『サンダーボール作戦』と同様の130分になっている。 スキーや雪崩、ボブスレーなどの雪山アクションになってからは瞠目したけれども、それまでは、まどろっこしい展開に少々倦んでいた。誰もが思うことだろうが、ボンドを演じたジョージ・レーゼンビイが、けっこうアクションを頑張りながらも、どうにも顔つきが鈍臭くてかっこよく見えてこない。ボンドガールのテレサ伯爵夫人ことトレーシーを演じたダイアナ・リグも、時に魅力的に映ることもあったのだが、概ね僕の苦手な某女を思わせる風情を漂わせていたから、妙にいただけない感じが付き纏ったのかもしれない。 トレーシーの父で犯罪組織の首領ドラコ(ガブリエレ・フェルゼッティ)とボンドとスペクターの首領ブロフェルド(テリー・サバラス)の三者関係の、少々座りの悪い“取って付けた感”にも興が削がれたようなところがある。 タイトルバックが始まる前の“シンデレラの靴”を思わせる謎めいた登場をしたプロローグにおけるトレーシーと、本編が始まってからの彼女との女性像の落差の大きさにも釈然としないものがあったが、何よりイルマ・ブント(イルゼ・ステパット)による殺害という後味の悪さが、ボンドシリーズに僕の求めるものとの違いを際立たせていたような気がする。 【追記】'24. 4. 1. BD観賞で『ネバーセイ・ネバーアゲイン(Never Say Never Again)』['83](監督 アーヴィン・カーシュナー)を観た。 これが「もうやらないとは言わないで」との名の元にショーン・コネリーがボンドに復帰した007か。もう一度は、ジェームズ・ボンドどころか、サンダーボール作戦までもとは思わず、いささか驚いた。かなり出鱈目な人物造形と運びは、相も変わらずだが、サンダーボール作戦の日誌に「ジェームズには似つかわしくない気がした」と記したような厭味はなくなっていたものの、130分超は変わりなく、やはり冗長な気がした。また、『ナインハーフ』['85]以前のキム・ベイシンガーがボンドガールになっていることも知らずにいたから意表を突かれた。そして、当時のパンフレットにはキム・ベイシンジャーと表記されていて驚いた。 | ||||||||||||||
by ヤマ '23. 8.31. BD観賞 '23. 9. 1. BD観賞 '23. 9. 2. BD観賞 '23. 9. 6. BD観賞 '23. 9. 6. BD観賞 '23. 9. 8. BD観賞 | ||||||||||||||
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