『ナイン・ハーフ』(Nine 1/2 Weeks)
監督 エイドリアン・ライン


 官能の魔力に引き込まれ、自分を失うまいとしながら、次第に溺れていく女の物語であるが、最後には自分の力でそれを振り切っていく。自分の痛みを決して男に責任転嫁せず、自らの選択としてケジメをつけていく生き方は、性に溺れる脆さの部分も含めて魅力的な女性像と言い得るものであろう。そして、それとは対照的に男の方はミイラ盗りがミイラになってしまう無様さとともにエンディングを迎える。肉体と精神の葛藤のなかで、より肉体に支配されるのが女であるという一般的構図は、どうやら現代においては通用しなくなっているらしい。これは、多分に女性開放による女性の精神の強化と覚醒、その一方での社会の分業化・管理化に伴う男性の抱くアパシーによる精神の脆弱化と後退の相対的現象ということなのかもしれない。

 それはともかく、この作品が原作ではそういったエンディングではないらしいことに注目したい。原作は未読ながら、かの『O嬢の物語』を意識した作品だということである。であれば、この作品の前半からの展開からすれば、徹底的に性の魔力に溺れ、失うまいとしていた自分を失い、ある精神的飛躍を肉体のもたらす官能により遂げて、変貌していく女の物語であろうかと思われる。ラドリー・メッツカーの監督作品に『イマージュ』という映画がある。『イマージュ』は日本の緊縛ものの妖艶美とは対照的な、ある種の純度すら感じさせる硬質的な美の表現に成功した小説であるが、ラドリー・メッツカーは大半を小説に忠実に映画化し、しかも原作の持つ透明感のある硬質的な美を思いの外、現出し得て、いわゆるSMポルノとは一線を画しているが、その映画『イマージュ』においても『ナイン・ハーフ』と同様、ラストの部分を変更してしまうことで、物語をぐっと卑近で通俗的なレベルに落としている。その変更の仕方は同質で、とどのつまりは、単純な形での精神の肉体に対する優越である。服従は、あくまで意志(精神の選択)による服従であり、完璧な服従ではない。だから、最後には意志によって隷属からの開放を遂げるのである。

 しかし、『O嬢の物語』において描かれる開放とは、そういった次元の開放ではない。そこに描かれるテーゼは、真の開放(自由)とは完璧なる隷属(不自由)のなかにのみ実現されるという恐るべき思想である。あらゆる屈辱、あらゆる苦痛を最大限に甘受し、さらに快楽へと転化し得ることによって、いかなる屈辱・苦痛とも苦になり得ぬ、つまり、いかなる不幸もあり得ぬ至福の境地に到るプロセスを描くのである。そして、快楽への転化の唯一の鍵としての性への認識があり、性は生の根源である以上、人間とは本質的にそういった転化を為し得るものだという人間観を提出しているのである。これは、宗教における修行としての苦行の果ての悟りへの道とも一脈通じるものであるが、苦行を苦行とする修行よりも苦を快へと転化するといったところに、宗教以上に奥深い哲学的主題を持つとも言える。

 『イマージュ』もまた、そういった文脈の上に成り立った美の表現なのだが、ラドリー・メッツカーは、その映像化にはかなり成功しながらも、ラストを改ざんすることで、その文脈を失ったのである。同様に『ナイン・ハーフ』も、そのシルエットをうまく使った画像の美しさや音楽の巧みさにより、興行的には成功するであろうが、ストーリーの常識的価値観によって、その本来持っているであろう毒と煌きと奥行きとを失って、ちょっとアブノーマルな香りのする、極めて常識的なファッショナブルなだけの娯楽作品になってしまっている。
by ヤマ

'86. 5.14. 名画座



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