『若い娘がいっぱい』['66]
監督 筧正典

 昭和三十年代の御粗末なアパートに住む地方出身大学生の村瀬(石坂浩二)は、狭い部屋の壁にル・コルビュジエのポスターを貼ってあったから建築科の学生のようで、ボクシングを嗜んではいても体育会系の学生ではないようなのに、いつも学生服だったのが目を惹いた。思えば、むかしは体育会系に限らず誰もが学生服を着ているのが大学生のあかしだったような気がするけれども、僕が大学生だった昭和五十年代には、学生服というのは体育会系か応援部しか着なくなっていたような気がする。いつからそのあたりの状況に変化が及んだのかは、若大将シリーズを追って観て行けば、判明するのかもしれないなどと思った。

 それにしても、この時代の日本映画には、得も言われぬ明るさや伸びやかさがあって何とも気持ちがいい。先ごろ観たばかりの五泊六日['66]にしても、昨年観た本作と同じく浜美枝の出ていた君も出世ができる['64]にしても同様だったような気がする。若い時分に当時の作品に接した時には、何とも他愛なさしか覚えなかったけれども、いま観ると、もはや取り戻し得ない“時代の明るさ”が宿っているようで、どこか眩しい。

 そういう意味での時代性をまとっていた女優が、浜美枝だったのだなと今回改めて感じた。ボンドガールに抜擢されたのも、それゆえのことだったのだろう。その出演作をほとんど観ていないにもかかわらず、画面に映し出されると少し特別な感情を呼び起こされる女優なのは、その造作ではなく面立ちの雰囲気が彼女とよく似た女性に僕が強く惹かれていた時期のことを思い出すからなのかもしれない。粗末なアパート暮らしの村瀬に惹かれる、瀟洒な豪邸に暮らすお嬢様育ちの依田久美子を演じていたが、実に溌溂としていて、少々複雑な家庭事情を抱えながらも微塵の翳りもない健康さを体現していて、なかなか素敵だった。

 過日観た『五泊六日』でも問われていた“女の幸せとは”が主題になっている作品で、当時の時代風俗がよく捉えられているように感じた。久美子のような娘の事情を負ったとき、父親としてはいかに臨むべきなのかは難題極まりないところで、秘しておくべきか否かは一概に言えないところであるがゆえに、思慮深い依田春樹(上原謙)が妻宗子(加藤治子)に言った「私は無駄な後悔はしないようにしている」との言葉が印象深かった。戻しようもない詮無きことに囚われても、何も開けはしない。それよりも大事なのは、今これからだし、そのうえで必要なことは「私は久美子を賢い子に育てたつもりだ」との自負の元に寄せていた“我が子への信頼”ということなのだろう。

 短大を卒業して職業婦人になるのか、家事手伝いとして花嫁修業に勤しむのか、率直に自分というものを開示し合える気の合うバイト学生と寄り添うのか、申し分のない釣書に保証された見合い相手と結婚するのか、などといったことは、さしたる大事ではないということだ。久美子の実母である高木民代(藤間紫)が決してつまらぬ女性ではなかったのに、依田との結婚が破れたように、人の暮らしや幸いというものに予め保証されたものなどないのが人の生の定めということなのだろう。誰もが羨むはずの“お嬢さま”にはお嬢さまなりのままならなさや隠れた事情があったりすることが描かれていたように思う。

 原作『楽しい我が家』(石坂洋次郎)とクレジットされていた小説の映画化作品タイトルを敢えて『若い娘がいっぱい』と改題したのは、それで観客を引き寄せようとしたということもあるかもしれないが、やはり久美子の同窓生である数多の若い娘たちのそれぞれの生の選択をいっぱい並べて、そのようなことを描いた意図によるものだという気がした。




推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/3300138713419022/
by ヤマ

'21. 3. 9. 日本映画専門チャンネル蔵出し名画座録画



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