『ラプソディ オブ colors』['20]
監督 佐藤隆之

 しばらく遠ざかっていた気がするドキュメンタリー映画を続けて観たばかりで、それが死刑弁護人ヤクザと憲法ホームレス理事長といった強烈な生き方と個性を見せてくれる人物を捉えた作品で、大いに刺激を受けたところだったからかもしれないが、本作を観て改めて、ドキュメンタリー映画の面白さの真骨頂は、カメラの捉える人間像にあるような気がした。前記三作の捉えていた人物は、いずれも職業的生業を通じてのものだったが、本作の捉えていた人々は、職業的な部分から離れた人間そのもののところで圧倒的に異彩を放っていた。

 僕も変わった人だとか個性的だと言われたことがあるけれども、およそ次元が違う強烈な人々が続々と現れて恐れ入った。そうか、最後は♪蒲田行進曲♪かと、四カ月前にほぼ四十年ぶりに再見した蒲田行進曲』['82]の映画日誌に奇しくも記してあった造形されていた映画世界の“単なるカリカチュアライズを突き抜けた過剰さと倒錯”というフレーズを思わず想起した。それが劇映画ではなく、ドキュメンタリーフィルムで現出されていて、いささか呆気にとられた。作中に字幕でも刻まれていたいったい何なんだろう、この人たちはだ。

 四半世紀前に刊行してもらった拙著これまで、映画の楽しみについて長々と述べてきましたが、私にとって最も素朴な映画の楽しみというのは、やはり映画の中で、そこに写っているいろいろな珍しいものを観るということです。P62)と綴った部分に、ダイレクトに響いてくるところのある作品だった。

 僕にとっての本作のキーワードは、いろいろな意味での“虚実”だったような気がする。何が真で何が虚か、自身についてさえ曖昧模糊としているこの虚実ないしは真偽なるものをいろいろな面で一気に相対化してくれるパワーが宿っている映画だったように思う。虚実であれ、真偽であれ、善悪であれ、チラシに記された<障害>と<健常>であれ、新型コロナウイルス対策に係るマスクの着否であれ、いっけん判りやすいと錯覚されがちな“二元論的区分”というものが、生身の人間の現実や本心、実体を何も捉えていない実に観念的なものであることがよく伝わってくる作品だったように思う。

 障害者と健常者の違いは障害者手帳を持っているか否かで分けられるとか、配偶者の有無は婚姻届を出しているかどうかで分けられると本気で思っている人はいないだろうと思うのに、虚と実、真と偽、善と悪、障害と健常の間には歴然とした違いがあるとされるのは制度的都合でしかないということをわきまえている人があまりにも少ないように感じられるのは、何故なのだろう。本作には、そのあたりにダイレクトに切り込んでくるものが宿っているような気がする。そこが面白かった。

 障害平等研修(Disability Equality Training: DET)のトップファシリテーターだとの石川悧々が使い分けていた電動車椅子と三輪自転車の彼女にとっての意味とか、障害者手帳を持っているいないを問わない幾人もの強烈な人たちが参集していた“トランジットヤード”の開設発案者だという中村和利が理事長を務める特定非営利活動法人の彼にとっての意味は、実のところ何なのだろう。

 それにしても、誰も彼もが能弁で、実に歌と笑いに溢れている“トランジットヤード”の人々だった。確かにラプソディだと思った。じょぷりん(上田繁)の歌う百人一首にこんな歌は今まで聞いたことがなかったとの字幕が挟まれていたが、disability ということでは、彼らの歌と笑いのような自己表出は、僕にはとても出来ないことだとつくづく思った。そして、“トランジットヤード”は、彼らにとっても実生活の場ではないことが強く印象づけられると同時に、必要な場所でもあることがよく伝わってきた。

 作中の字幕にも記されていた【真っ当な熱意】と【うさん臭さ】なるものが妙に印象深く残る、実に興味深いドキュメンタリー映画だった。人間って、なんか凄いよなぁとしみじみ感じ入った。
by ヤマ

'22. 5. 6. DVD観賞



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