『Life ライフ〜ピッコロと森のかみさま〜』
監督 筒井勝彦

 八年前に観たこどもこそミライ―まだ見ぬ保育の世界―['13]に取り上げられていた、野外保育に力を入れている「森のようちえんピッコロ」(山梨)の15周年記念事業として制作された作品を観ながら、最後に出てきた卒園式に感銘を受けた。卒園証書は、子供たちが作ったものを自分で保護者に手渡ししていて、大人たちが最後に“鯉の滝登り”と称して並んで組んだ腕に載せた子供を跳ね上げて送り出し保護者の元に運ぶという、これ以上ない身体性に富んだ、とてもいい卒園式だったように思う。家庭教育ともども子供がとても大事に育てられている感じがよく伝わってきた。

 ピッコロは「ようちえん」ではあっても文科省が所管する幼稚園教諭による幼稚園ではなく、厚労省が所管する資格の保育士たちが保護者との共同運営によって保育事業を行っているようだ。自分で考える子供を育てたいと語っていた中島代表の提唱していた「待つ保育」は、彼女が言うように、ただ一方的に子供が決めるのを待つ保育というのではなく、「待つ」という観点から、待つ待たないの判断について不断に意識しつつ臨む保育という意味なのだろう。

 「子供の目に映っている世界」を観たいとは言わずに、「子供の目に映っている景色」を観たいと言っていた中島代表の言葉遣いが気に入った。世界などという観念的なものを志向しているわけではなく、生き物の棲む生命感を伴った自然を指し示す景色を志向しているのだろう。子供に見せたいではなく、自分が見たいとの思いで飽くことなく取り組んでいるという立ち位置には、気負ったものが取り払われた自然さがあるように感じられた。

 『こどもこそミライ』に出演していた時分の幼児教育に対する問題提起の滲み出ていたヴァイタリティを感じる言葉の印象からすると、随分と落ち着いた年季を感じたのは、15周年記念事業ならではのことのように感じた。さればこそ、既に成人に至っている者もいると思しき卒園生の高校生や中学生、小学高学年生の“森のようちえん”の思い出なり、記憶というものを聞いてみたい気がする。幼児期を「森のようちえん」で過ごした子供たちのその後を観てみたいと思った。

 それにしても、制度的に保証された幼稚園や保育園、こども園でもなかなか事業継続が困難にあると仄聞するなか、改めて「継続は力なり」だなと思った。公費給付の証憑のような形で課されているとも思える膨大な書類に係る事務作業を軽減できているであろう「現場の伸びやかさ」を感じた。その伸びやかさは、自然環境がもたらしてくれているものでもあるのだろうが、保育士の事務負担軽減も大きく作用している気がしてならない。待てる環境というのは、とても大事だと思う。

 また、一口に「共同運営」と言っても、実際どうやっているのだろうかとも思った。ほんの数年で入退園で入れ替わっていく保護者たちとどう繋いでいくのだろう。文字で「保護者」と書けば、変わりなく保護者だが、その顔ぶれは年ごとに代わっていく個々人なのだから、大したものだ。だが、公費給付の対象どころか、どうやら子育て支援の公的な補助の対象には一切なっていないらしく、いま社会的課題にもなっている保育士の処遇改善問題からも取り残されているのではないだろうかとの懸念が生じた。
by ヤマ

'22. 5. 5. あたご劇場



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