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『心中天網島』['69] 『はなれ瞽女おりん』['77] | |||||
監督 篠田正浩
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先に観たのは'60年代の『心中天網島』。半世紀余り前の映画だが、なかなかスタイリッシュな作品で大いに感心した。同じATG映画の『曽根崎心中』['78](増村保造監督)を観たのは二十年前だが、あの芝居掛かった台詞回しと運びには本作が影響していたのかと得心した。増村のスタイリッシュな力業と篠田のスタイリッシュな知的遊戯の対照が非常に興味深かった。もしかすると、増村は本作のアンサームービーとして『曽根崎心中』を撮り、心中ものの本質は圧倒的な情念であって、知的遊戯では描き出せないとして、高い評価を得た『心中天網島』に対抗してみせたのではないかという気がした。ともに際立ってスタイリッシュな映像化を図りながら、その演出において意図的なまでに情念を排した篠田作品と、同じく意図的なまでに知的造形を排していたような覚えのある増村作品の好対照ぶりに、そのような思いが触発された。 オープニングのドキュメンタリーフィルム張りの人形浄瑠璃の舞台裏を捉えた映像と、共同脚本の富岡多恵子との電話での遣り取りの音声の醸し出す現代感に意表を突かれ、本編が始まるや時代掛かった浮世絵的な誇張を感じさせる凝った画面が現れ、続いて今風な芝居掛かった“静止画ではないストップモーション”や黒子の姿が登場して、観る側を撹乱するといった刺激的な趣向が凝らされていて驚いた。ライブの人形浄瑠璃や歌舞伎と違って、使わずに済む黒子を敢えて登場させたことによって、自身でもままならぬ人の心や行き掛りを司り押し流していく運命というものの存在を視覚化しているように感じた。 手の込んだ設えをして時代性というものを意識させたのは、やはり現代とは少々異なる美意識・価値観による時代の作品を映画化していたからだろう。現代感覚からすれば、何故これで心中に至るのかとの思いが拭えなくなる気がする。だが、江戸時代の人形浄瑠璃の物語なのだ。 序盤に紙屋治兵衛(中村吉右衛門)の恋敵である太兵衛(小松方正)が豪語する「カネで出来ぬ事はこの世にないわ!」とは正反対の、「カネよりも命よりも大事な面目、義理」に殉じていく男女の道行きだった。治兵衛なんぞは、曽根崎紀伊国屋の遊女小春(岩下志麻)に入れあげるだけの甲斐性もない身の程知らずの痴れ者でしかない気がしたけれども、遊女小春と治兵衛の女房おさん(岩下志麻)の女同士の義理と筋の立て方が、なかなか観応えがあって、先ごろ観たばかりの『あのこは貴族』で映友から指摘された“華子と美紀の間のシスターフッド”などよりも余程、その描き方に納得感があった。 自分が手紙で頼んだ件を見事なまでに完璧に果たしてくれた小春に一人で自害させるわけにはいかないと家財を投げうってまで死なせまいとする女房の意気地と義理立てにしても、おさんの渾身の願いを踏みにじることになるのだからと、冒頭に出てきた心中者のように身をむすび結わえての相対死にはできないとする小春の意気地と義理立てにしても、あっちふらふらこっちふらふらで、太兵衛に出し抜かれ面目が潰された悔し涙に塞ぐ治兵衛とは心映えが違うと思った。心中か不心中かとの字幕が現れたのは、本編だったか予告編だったか不確かだが、僕としては、これは形式的には心中でも内実はもはや心中ではないような気がした。 舅の五左衛門(加藤嘉)から「もう去り状なんぞ書かずともええ」と女房を引き取られ、行き場も生き場も面目も失った治兵衛の成れの果てと、連れがいようがいまいが金輪際、遊女暮らしが嫌になって死にたいと言っていた小春の、ある意味、思い残すところのない辞世という気がしてならないかった。それが原作者の近松門左衛門の意図したところかどうか判らないが、本作を観て「篠田のスタイリッシュな知的遊戯」と映ってきたゆえんだった。 互いの気心をきちんと解して通わせたのは、おさんと小春であって、治兵衛も太兵衛も五左衛門も、治兵衛の兄孫右衛門(滝田裕介)も、小春とおさんの心中を解することはできていなかった気がする。ATG印とも言うべき、無駄に裸女が登場することの踏襲も含め、思いのほか面白かった。それにしても、予告編のみに出てきていた裸女の逆さ吊りショットは、何だったのだろう。 翌日観た『はなれ瞽女おりん』は、木村光一の演出による地人会の舞台を'84年、'96年と二度に渡って有馬稲子・松山政路のコンビで観ているけれども、原作小説は未読で、映画版は初めて観た。『心中天網島』の成島東一郎の撮影も見事だったが、本作の宮川一夫の撮影による画面の端正さには瞠目した。 それでも僕の映画ではないなという感じがしたのは、三年前に『飢餓海峡』の映画日誌にも記したように「水上勉作品は、一頃盛んに映画化されたものだ。だが、どうも陰気で鬱々としているうえに、妙な女性崇拝というか聖女化した人物造形が気に沿わないところがあって僕の好みではなかった。」からだろう。 本作のおりん(岩下志麻)の無垢さにも、平太郎(原田芳雄)に「仏さんじゃ」と言わせるに足るだけのものが、夕映えの裸身のみならず心根に窺えるのだが、先に観た『心中天網島』の小春・おさんほどには惹かれなかった。おりんに魅せられ肉体を貪る助太郎(西田敏行)にしろ、別所(安部徹)にしろ、いかにもな下衆男としては登場せず、平太郎を拷問にかける憲兵(小林薫)ですら殊更の悪役面を見せずに、六歳のおりんを高田の瞽女の師匠(奈良岡朋子)の元に世話した薬売り(浜村純)や、はなれ瞽女同士のたま(樹木希林)にしても、善良なる人物として描かれ、そこにおりんの人間観が投影される形になっていた描き方は、悪くないように感じている。自然の景色のみならず街角の路地や建物を捉えたショットまでもが実に端正で美しいのもまた、盲目のりんの心の眼に映っているものを観客に視覚的に提示しているからなのだろう。 その手法には感心しながらも、自ずと徹頭徹尾りんの聖女化に貢献することになってしまうわけだ。それによって、原作小説の描いていたものを効果的に映し出していたにしても、まさしくそこのところが気に沿わない僕にとっては、巧みな映像化が却って仇になるという形で作用してきたような気がする。ただでさえ水上作品にある女性崇拝に加えて、四半世紀前に観た『八日目』の映画日誌に綴った「無垢なる魂の持ち主として、…障害者にある種の役割が負わされる」形になっていることへの疑問と抵抗感が生じた。折しも『コーダ』を観ることで想起した『エール!』の映画日誌に綴った「障碍者を“問題”として捉えることは脱しても、せいぜいで“障碍”として捉えるに留まり、とてもではないが、“個性”として捉えるには至らないでいる日本映画」のことを思い出したりもした。 *『はなれ瞽女おりん』 推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4329347583831458/ | |||||
by ヤマ '22. 1.29・30. DVD観賞 | |||||
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