『あのこは貴族』
監督・脚本 岨手由貴子

 予告編を観たとき、お嬢様育ちの箱入り娘との榛原華子を演じる門脇麦と、富裕子弟御用達の幼稚舎からの一貫校である有名私大に進学した地方出の時岡美紀を演じた水原希子の配役は、敢えて狙って逆にしたのかと思ったが、描かれていた人物造形からすると、これでもっともだと思われる女性像になっていた。ある意味、納得感があるものの、逆に言えば、そういう造形になっている人物像そのものが妙に取って付けたような印象が拭えず、ほかの人物像の醸し出す現実感に比して、どうにも実在感に乏しく、血の通いというものが感じられないように思えた。

 僕が最も実感をキャッチした場面は、美紀の地元からの学友だった里英(山下リオ)が、三十路になっての回想の際には5000円に切り上がっていた「高級ホテルでのティータイム・サービスの料金4200円」を事も無げに、気軽にティーブレイクに使っている学友たちに驚いて、本作のタイトルに繋がるぼやきを美紀に告げた場面だった。原作者の実体験が投影されている気がしてならなかったのは、慶応義塾大学ではないものの、僕自身が地方出身者として進学した東京の大学で、少し似たような経験をした覚えがあるからなのだろう。

 しかし、僕が学生時分のときに比べて、そこに階層意識を強く感じさせる時代に、今はなっているような気がした。なんだか息苦しいような閉塞感に若者たちが喘いでいるような映画だった。作劇的には、そこから飛び立って自由を得て、活き活きした人生に踏み出したはずのエンディングにおける美紀にも華子にも、今一つカタルシスが得られず、彼女たちが馴染めなかった生活のほうが印象づけられる作品だったような気がする。

 名門とされる階層の家に生まれ、弁護士になった幸一郎(高良健吾)の言っていた「夢とかじゃない。継ぐべきものをこなしたいだけだ」というような言葉の背後に透けて映る息苦しいまでの窮屈さと負担感を思うと、昨今流行りとなっているらしい“親ガチャ”などという言葉の浅薄さを思わずにいられない気がした。華子が現れ、美紀との邂逅をヴァイオリニストになった逸子(石橋静河)が設えるまでは空白を含んでの十年の長きに渡って、その窮屈さの息抜きを味わえる美紀を得ていた幸一郎とは違って、そういうことも叶わないであろう衆人環視に晒されている皇室などは、その最右翼にある人々だと改めて思った。それでも、その務めを果たし続けられているのは、本作においても触れられていた“カネよりも何よりも人にとって最も必要なもの”としての“シェアできていると思える相方の存在”を得ることができているからなのだろうという気がする。そういう意味からも、“美紀にとっての里英”が、十年の時を経て“里英にとっての美紀”にもなったような形で、そういう存在を美紀が得られたのは、実に掛け替えのないことなのだろうと思う。里英からの誘いを即決していたときの彼女の喜びの笑顔がなかなか好かった。

 本作のいい場面は、ほとんど里英の絡んだ場面だったような気がするが、映友によれば「山下リオが演じたキャラクターは原作ではほとんど描かれてない」そうだ。華子にしても、美紀にしても、幸一郎との関係をもう少し踏み込んで描いていれば、血の通いの得られる人物造形になっていたような気がするのだが、そこに深入りすると、ありがちな恋愛ドラマになりそうで腰が引けたのかもしれない。その話を聞いて、里英に逃げたんだなという気がした。もっとも、チラシに記されていた“シスターフッドムービーの新境地”というのは、逸子だけでは足らず、里英あってこそのものだと思うから、逃げではなく奏功と言うべきなのかもしれない。

 ところが、別な映友からの話によれば、作り手の描きたかったシスターフッドは、どうやら幸一郎を介して得たとの“華子と美紀の関係”のほうだったらしい。これには、意表を突かれた。「女性の絆まで言わずとも女性たちの連帯のつながり」を意味するらしい“シスターフッド”というものは、元々は姉妹関係という言葉のはずで、「今ではほとんど使われなくなっていると思うけれど、昭和の時代には“穴兄弟”という俗語があったように、よもや幸一郎を介しての“棒姉妹”とかいう話ではないよね。そういう作品ではない気がする」と返すほどに驚いた。“華子と美紀の関係”にそこまでのものが描かれていたようには、どうにも思えなかったからだが、 「タクシーに乗っていた華子が、自転車に乗って脇を通り過ぎて行く美紀に声を掛けて、彼女の部屋を訪れる、あそこがこの映画のクライマックスだった」のだそうだ。そこが「美紀と里英、そして華子と逸子のような友達関係」とは異なる「単に女性の友情関係ではない」シスターフッドなのだとの指摘を受けて、大いに困惑した。

 僕は“シスターフッドムービーの新境地”について、原作ではほとんど描かれてないらしい里英を逸子に加えて造形することによって描き出していると思っていた。それなら納得なのだが、本丸は“華子と美紀の階層間を超えたシスターフッド”なのだとなると、どうにも釈然としない気がして仕方がなかった。本作には“女同士の分断”に対する異議申し立てが重要なモチーフとしてあるのは、台詞でも明示されていたように異論はないのだが、分断への抗いのような話や連帯は、逸子や里英から発せられたのであって、華子や美紀はそういうことを口にしたりもしていなかったことを思うと、妙に無理筋というか、違和感のほうが生じるように感じた。

 そういう意味では、作り手の意図したような作品になっていたのだろうかとの疑念が湧く。なぜ華子が美紀にシスターフッドの連帯を求める気になるのか、どうにも解せず、僕においては、華子と美紀の間のシスターフッドというものに囚われると、ますます血の通いから離れて、図式的な捉え方で臨むしかなくなるように感じた。作り手の意図はともかく、もっと素朴に、“シェアできていると思える相方の存在”を求めるという“人の生の原点に立ち返る生き方”に踏み出していく女性たちの物語だったように、僕は思う。

 それにしても、華子と美紀の関係を、言うところの「シスターフッド」ではなく「階層を超えた恋愛」とすれば、とりわけ異性間においては古今東西の作品世界で扱い、描いてきていることだと思うのに、恋愛ではなくシスターフッドだと何故にこうも釈然としないのだろう。



参照テクスト:フェイスブック&メール談義編集採録


by ヤマ

'21.12. 5. あたご劇場



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