『ハウス・オブ・グッチ』(House of Gucci)
監督 リドリー・スコット

 悪女と言うよりも烈女と言いたくなるほどにパワフルな“グッチ夫人”パトリツィア・レッジャーニの人物造形がなかなか見事で、本人は常に“自分にとっての”最善を尽くそうとひたすら一所懸命なだけで、悪意など些かもないと思っている感じをレディ・ガガがよく演じていて、思いのほか観応えがあったように思う。

 実際のパトリツィアもマウリツィオ・グッチ(アダム・ドライヴァー)からエリザベス・テイラー!と言われたことがあったのだろうか。レディ・ガガが発散する“けばけばしくエネルギッシュな色香”に思わず笑った。

 パトリツィアのこれは運命よも、パオラ・フランキ(カミーユ・コッタン)の過ちではなく、選択よも、ハウス・オブ・グッチを持たない僕は言われたことがないけれども、持てる者は持たざる者には無用の用心が必要で、それもなかなか難儀なものだ。坊ちゃん育ちで元々は人が良く、頭もいいけれど、眼力のなかったマウリツィオが、パトリツィアとはまた別の意味で哀れな生涯を送ることになっていたのが印象深い。彼女と結婚しなければ、伯父や従兄との関係を壊すことはなかったとの思いは偽らざるもので、妻から心が離れていった最大要因であるように描かれていた気がする。彼女がパオラにマウントを取った行為は、最後の引き金に過ぎなかったように思う。

 叶うはずもなかったことだろうが、パトリツィアから妊娠を告げられた時点で、グッチ家に戻る必要はないと妻を説き伏せることができていれば、運送会社としてそれなりに成功もしていた感じのレッジャーニ家で穏やかに過ごせた可能性があるようにも描かれていたところが印象深い。ある意味、最も罪なことをしたのは、アルド伯父(アル・パチーノ)だったのかもしれない。

 もしかしてジェレミー・アイアンズ?と思いながら観たロドルフォ・グッチは、声から察した通りだったけれども、アル・パチーノのほうは、エンドロールのクレジットまで気づかずにいたから、すっかり驚いた。服役を終えて戻って知った愚息パオロ(ジャレット・レト)の不始末を嘆きつつも許容する父親を演じる姿に年季を感じていたら、甥に裏切られた悲痛に乱れる姿に圧倒されたものだから、気になってクレジットを追っていたら、彼の名に出くわし、納得と流石を感じた。それとともに、グッチ家のなかで最もファミリーを大事にしたい思いが強かったアルドのやったことが、マウリツィオの引き立てであれ、巨額の脱税であれ、結果的にファミリー解体を招いていた悲哀に、ゴッドファーザーで彼が演じていたマイケルを想起した。それもあってのキャスティングだったような気がしてならない。

 ともあれ、時間の長さが殆ど気にならないところは、さすがリドリー・スコットだ。最後の決闘裁判のマルグリット(ジョディ・カマー)に続くタフな女性像の造形に感心した。本作をハウス・オブ・グッチのお家騒動として観ると、長尺のわりに内情の描かれ方が浅薄に感じられるのだが、パトリツィアの人物造形とマウリツィオとの関係性という観点からは、なかなかよく描かれていたように思う。ファム・ファタールとして一方的にマウリツィオの人生を狂わせたわけではなく、パトリツィア自身も壊れていっていたから、ファム・ファタールものではないところがいい。

 マウリツィオは、パトリツィアへの訣別宣告の際にキミが結婚したのは僕ではなく、グッチ家だったというようなことを言っていたが、マウリツィオ・グッチからグッチの部分は外せないにしても、マウリツィオの部分にもパトリツィアが強く惹かれていたことの偲ばれるような前半部の描出がとても効いていたように思う。結局のところは、専属化に至っていたと思しき占い師ピーナ(サルマ・ハエック)ともども、グッチ家の持つ力によって果たしたい何かという野心ではなく、グッチ家を手中に収める野心しか持ち得なかったことが、その巨万の富とブランド力に太刀打ちできずに壊れていった一番の理由のような気がした。




推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981425395&owner_id=1095496
by ヤマ

'22. 1.25. TOHOシネマズ3



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