『飢餓海峡』['65]
監督 内田吐夢

 手元の記録には残っていないものの、四十年ほど前に観ているはずの作品を再見した。主催の平林牧師が上映前に話していたように、水上勉作品は、一頃盛んに映画化されたものだ。だが、どうも陰気で鬱々としているうえに、妙な女性崇拝というか聖女化した人物造形が気に沿わないところがあって僕の好みではなかった。そういったいかにも水上作品らしい造りにある本作がさほど気に障らなかったのは、僕自身の加齢のせいもあるかもしれないが、やはりキャスティングの妙によるものだろう。

 犬飼多吉を騙った樽見京一郎(三國連太郎)が「貴女は本当に心のきれいなひとだ」と感じ入りながら殺害してしまった杉戸八重を演じた左幸子が、愚直なまでにタフなイノセンスを衒いなく漂わせていて実に嵌まり役だった。当初、佐久間良子が想定されていたらしいのだが、イノセンスはまだしも愚直やタフネスは佐久間良子からはイメージしにくく、また違った八重像になるほかなかろうが、一目惚れした多吉に明け透けに迫る部分も含めて、やはり左幸子が演じてこその八重だという気がする。

 遠い昔に観た際には、岩内の大火災を引き起こした強盗事件や層雲丸転覆事故に乗じた殺人事件について僕は、樽見京一郎の供述した顛末が真実だったと受け取ったような覚えがあるが、今回観直してまた少し違った解し方をしたところが面白かった。極貧のなかでも母想いの健気な少年として早くから大阪に丁稚奉公に出て仕送りを続けていた京一郎が、京都の僻村からは大阪よりも遙かに遠い北海道に身を移した後は、世知辛い世間の荒波に揉まれて荒んだ暮らしをするようになっていたのではなかろうか。ところが、疎遠になっていた母の面影をふと感じてささやかな功徳を老女に施した姿を八重が観留めて、篤い情を通わせてくれたことで救われ、目が覚める想いをしたのではなかったのかというものだ。その下地となったものは、犯行に際して終始指示を出していた主犯格の男からの攻撃によって仕出かした殺人事件に対する怯えであり、この件に関しては、京一郎が供述したとおりの顛末だったような気がしている。

 そのように考えれば、樽見が思わず八重の後を付けて花乃屋を訪ねたのも、別れ際に少なからぬ金を渡したのも合点がいくし、大金を元手に事業を成功させつつ篤志家となったことも腑に落ちるような気がした。さればこそ、樽見恭一郎が犬飼多吉であることの動かぬ証拠を八重が握っていたところで「決して他言はしなかったはずだけれど、あんたは八重さんを信じられなかったんだ」との元刑事の弓坂(伴淳三郎)の指摘が応えたのだろう。いくらなんでも致死させるかとも思ったが、考えてみれば、八重は異様に大きな京一郎の爪を懐紙に包んで大切に保管し、時折取り出しなぞっては恍惚と京一郎を偲んでいて、観客もその姿を幾度も目撃していたのに対し、京一郎にとっては藪から棒に彼女が現れるまで姿形も覚えていなかったようだし、よもや物証を所持しているとは想像だにしなかったはずだから、逆上して我を忘れてしまっても無理からぬところがあったのかもしれない。目撃者の書生を巻き添えにする運びにしていた部分は少々蛇足のような気がするけれども、雨の中、車を駆る京一郎の形相には鬼気迫るものがあった。

 その一方で、東舞鶴警察署長(藤田進)の言う“鉄壁のアリバイ”がそんなわけないと釈然としなかったり、昭和22年の何処か初心なところを残した若者然としていた京一郎が僅か十年でこの貫禄を身につけるのかと訝しんだりもした。とりわけ最後の場面は、いくら逃亡のしようのない海上とて、あそこで手錠を外しているわけないじゃないかと思いつつも、映画的にはそれしかないよなと納得した。

 映画の終わった後、同席した高知シネマクラブで旧知の内原さんから「『太陽がいっぱい』は、いつでしたっけ?」と問われて成程と思った。帰宅後、確かめてみたら五年先んじる['60]だった。ルネ・クレマン監督の映画化作品は、水上勉の原作小説よりも先んじているようだ。野村芳太郎監督の砂の器['74]の原作小説とは同じ頃合いになるらしい。
by ヤマ

'18. 9.27. 高知伊勢崎キリスト教会



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>