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『屋根の上のバイオリン弾き』(Fiddler on the Roof)['71] 『ひまわり』(I Girasoli)['70] | |||||
監督 ノーマン・ジュイソン 監督 ヴィットリオ・デ・シーカ | |||||
先に観たのは、『屋根の上のバイオリン弾き』だ。ウクライナ情勢の急変を受けて俄かに合評会の課題作となった本作は、もとよりタイトルも主題曲もかねてより知っているけれど、観賞リストに記録がなく、観たような観てないような覚束なさのあった作品だが、真っ暗闇の夜明けから始まり、ユダヤ人一家の主テビエ(トポル)が「トラディション!」と家父長制を高らかに歌い上げる開幕や、娘たちが不本意な婚意を告げるたびに「トラディション!」と叫び嘆いた後で、「だが、あの娘の眼を見よ」という台詞とクローズアップによって受容していく姿の既視感に、月曜ロードショーでTV視聴していたことを思い出した。しかし、三時間に及ぶ字幕版を観るのは、やはり初めてということになりそうだと思った。 今回、とりわけ心に残った楽曲は、著名な♪サンライズ・サンセット♪ではなく、♪アナテフカ♪だった。折しもウクライナでは、ロシア軍による理不尽な侵攻に見舞われているが、革命前夜のロシアで起こったユダヤ人追放を描いた本作の舞台もウクライナで、旧知の帝政ロシア役人(ウクライナ人か?)から「命令なんだ、わかるな」と複雑な表情とともに言われ、憤慨しながらも結局は、一部の徹底抗戦の声にはよらず、アナテフカの地を捨て、家財道具を曳きながら退去していくテビエの哀切が沁みてきた。娘たちの結婚であれ、安住であれ、トラディション(しきたり)なるものが、ひたすら蔑ろにされていく苦衷を吞み込み呑み込みして生き延びていくのが、あたかも生の定めであることを描いていたような気がする。 長女ツァイテルが親の望んだ裕福な肉屋の老ラザールの後妻を拒み、想い人の貧しい仕立て屋青年モーテルとの結婚を望んで許可を求めた際にテビエの叫んだ「トラディション!」よりも、次女ホーデルが選んだキエフから来た大学生パーチックから「許可は求めていません、祝福を求めています」と言われて叫んだ「トラディション!」のほうが可笑しく、三女ハーバに至っては、許可や祝福どころか、信仰篤いテビエには断固容認できない改宗結婚による駆け落ちとなるのだから、どんどん不本意の度合いは増していたわけだ。 そして、更なる不本意の極みとしてユダヤ人追放が出てくる展開になっていた。それでもなお受忍して土地を去るテビエの後を追っていたラストのバイオリン弾きは、トラディションを奏でながら、地に足の付かない屋根の上にいるようだったテビエの心許なさからすれば、地に足を付け弛まぬ歩みを重ねている姿と言えなくもないような気がした。 それにしても、ひとたび政治的“命令”が出ると、直接行動においては、容赦ない暴虐を打ち壊しや焼き討ちによって易々と揮える人の本性の一端の何とも言い知れぬ恐ろしさが、妙に生々しかった。その暴虐を自ら奮い始める人は少ないように思うけれども、命令には従える人が思いのほか多いのが人間という集団の特質だという気がする。だからこそ、そのような「命令」を政治的指導者たちは、決して発令してはならないと心底から思う。 最後に川を渡っていく人々の姿に四半世紀前に観た『アンダーグランド』['95]のラストシーンの画を思い起こした。本作の場面とは正反対の祝祭的なエネルギーに満ちていたあの場面には、本作が影響を及ぼしていたような気がしてならない。 娘の結婚話のたびに繰り返される「トラディション!」も可笑しかったが、最も頬が緩んだのは、長女の望みを容認したことを家長としての沽券を失わずに妻にどう伝えるか腐心したテビエが、寝ていた妻に夢を騙って聞かせる“ラザールの亡妻が墓から蘇ってくる夢の場面”だった。まったく苦労心労の絶えないテビエだったように思うけれども、トラディションに囚われた家長ゆえに誰にも明かせぬ弱音を“神へのぼやき”によってほぐし、決して人倫の道を踏み外すことのなかったテビエの姿に心打たれた。 合評会では、メンバーの一人である牧師からユダヤ教及び教徒についての話がいろいろ聞けて面白かった。いまウクライナに世界の眼が集まり、『ひまわり』の再映が注目されているように、本作も再映されるべきだとの声も出た。だが、確かに非常に優れた映画だけれども、ウクライナ人がユダヤ人を迫害し追放する映画だし、追われた側が徹底抗戦を選ばない作品だから、そうはならないような気がする。 三日後に観た『ひまわり』は、'76年(5/3)に早稲田松竹で観て、翌年(10/10)月曜ロードショーで観て、'88年(7/20)にテアトル土電で観ているのに、映画日誌にはしていないまま来ている映画なので、ちょうどよい機会での三十四年ぶりの観賞となった。 初めて観たときは、触発されて詩を書いた覚えがある。当時は、まだ映画日誌を綴る習慣を備えていなかったが、日記帳に「画面の、あるひまわりに“はち”がとまってたのがなんとなく嬉しかった。ラストでは、あるひまわりから“はち”が飛び立ったのも嬉しかった。ひまわりは黄色。たんぽぽも黄色。」と記してあり、翌年のテレビ視聴では「やはり掛値なしの名作である。ちょいとしたワンカット、ワンシーンに深い趣がある。特にあのイアリングなんか…」と残していた。 そのイアリングとは、おそらくミラノの自宅へのアントニオの来訪を了承した後に探し回って取り出したイアリングで耳を飾るジョバンナの鏡に映った表情のほうに触発されて記したものなのだろう。序盤のジョバンナ(ソフィア・ローレン)の回想にあったアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)がイアリングを呑み込んでしまった婚前交渉から結婚までの運びの速さに驚かされた展開でイアリングを印象づけていたことが利いていた。 今回の再見では、ラストショットの“広大な畑で一斉にうなだれたひまわりの植生による黙祷”が、劇中に現れた広大な丘に立ち並んでいた夥しい数の墓標のイメージと重なって沁みてきた。戦争はそれを生き延びた者にも途轍もなく深い傷を負わせる絶対悪であることを、今どきの映画だと考えられないような短尺で雄弁に語っていたように思う。物凄く思い切った省略と大胆な溜めの映像が見事だった。前者は脚本、後者は演出によるものだろうが、実に大したものだ。 もう四回目になるという勘定なのに、三十四年ぶりに観て驚いたのが、ソ連での妻マーシャ(リュドミラ・サベリーエワ)の勧めでアントニオがジョバンナに会いに行くようにする場面がなかったことだった。再見して驚いた『アマデウス』['84]での“サリエリによる「ウルフィ」”ではないが、僕のなかでは、マーシャがイタリアに行くよう明言していたのだ。夫が故国に残してきた妻のかなりやつれて老けた姿をウクライナの駅で凝視しながら、一言も交わさぬままに別れた後、すっかり寡黙になり、おそらくは念願であったはずのマンション入居を果たしても喜びもしない有様に困り果てて、一度会ってきちんと話をしてくるよう諭したはずだった。そうでなければ、ジョバンナがアントニオに辿り着く前に見つけたソ連で暮らすイタリア未帰還兵の洩らしていた「もはやイタリア人であること自体を捨てたんだ」というくらいの覚悟なしには暮らせないソ連での生活をしていたはずのアントニオが、自分から言い出すわけがないように思う。 しかし、実際はそのような場面はなく、簡単には取れないイタリア行きの切符のために義母の病気を口実にマーシャが後押しをして手に入れる場面があるだけだった。このときのマーシャの積極性が僕に前述のような想像をもたらしたのだろう。僕のなかでは、マーシャがジョバンニと会って対峙した際の冷静で聡明な対応ぶりから、マーシャならきっとそうしたに違いないという思い込みを得て、実際はなかった場面まで創造したようだ。優れた脚本と演出・演技によって観る者に与える想像は、ときに創造すら果たし得るものだというのは、前掲の『アマデウス』でも体験済みのことだったが、よもや過去三回も観ている映画でさえ、と実に恐れ入った。凄い作品だと改めて思う。 本作に描かれる三回の“駅での別れ”が、その回を重ねるごとに深みを増していくところが何とも堪らない。昨今観た『花束みたいな恋をした』やら『ちょっと思い出しただけ』などとは比較にもならない過酷な今生の縁の不遇さだったが、それらをも含めて縁というものなのだろうとしみじみ思う。 アントニオにとっては、どっちを正妻とも言いようのない二人の妻ジョバンナとマーシャの比較が意味をなさないということを、十五年前に『魂萌え』についての映画談義で、映写技師になった敏子(風吹ジュン)の映し出していた映画が『ひまわり』だったことにかこつけて提起したことを思い出した。 合評会では、両作のカップリングを以て今回の課題作とした元映画部長から、どちらの作品がより好きかと問われ、各自が素直に回答したなか黙していたら督促され、それはアントニオが「ジョバンナとマーシャのどっち?」と問われて困惑するのに等しい問い掛けだと返すと、そう来たかと笑われた。 推薦テクスト[想田和弘]:「マガジン9 憲法と社会の問題のこと。」より https://maga9.jp/220309-3/ *『ひまわり』 推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4444968675602681/ | |||||
by ヤマ '22. 3.11,14. DVD観賞 | |||||
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