『魂萌え!』
監督 阪本順治


 誰をも裁いていない視線のフラットさが何とも魅力の素敵な作品だった。だから、関口敏子(風吹ジュン)の脱皮が浮ついた格好良さではない味わいを伴って沁みてくるのだろう。魂の芽生えと呼ぶに相応しい人生の新機軸に踏み出す敏子の姿に、幾つになっても、思い掛けなく転機が訪れる可能性を孕んでいるのが人生なのだと改めて思った。

 専業主婦でずっとやってきてたらしい敏子は、夫の定年を迎え、人生の黄昏時を感じながら、あてにできない子供たちに対し少なからぬ失意と諦念を覚えつつ、穏やかに人生の終息に向かっていく自分を感じていたような気がする。しかし、夫隆之(寺尾聡)が定年後わずか三年で突然死したことで、実直に見えた彼が生前、十年にも及ぶ裏切りを続けていたことを知り、愕然とするわけだが、ずっと家族中心の専業主婦でやってきた妻なら殊更に、還暦前にもなっての夫や子供という家族に対する失望というのは相当に応えるはずで、己が人生の全てを否定されたような憤りと落胆をもたらすであろうから、思わず家出をしてしまうのも無理からぬ話で、むしろ、僕の目には彼女の動揺よりも気丈さのほうが印象づけられていた。

 だが、この作品の値打ちは、敏子を主軸に描きながらも、彼女に失望を与える夫や息子彰之(田中哲司)、娘美保(常盤貴子)をろくでなしに仕立てあげて彼女を持ち上げたり、夫の愛人伊藤昭子(三田佳子)を敵役に置いたりせずに、人生のままならなさとペーソスのなかでの慰めや踏み出す力を描いていた点にあるように思う。自分のための買い物などろくにしたことがなかったであろう敏子が、自分のためのケータイとシステム手帳を買うささやかな新鮮さにときめく姿や夫の愛人と矜持を以て対峙する姿の描出におけるニュアンスの豊かさには、特に感心させられた。それと同時に、愛人からの痛烈な返し刀のような言葉の数々にも自負と矜持の籠もった敵愾心が見事に宿っていて圧倒された。なかでも「知らないことは罪ですわよ、奥様。」との言葉は、敏子にとってはさぞかし重いものだったことだろう。長らく連れ添った夫の何を自分は知っていたのかと内心で抱えていた敏子の弱みを鋭く突いた昭子の言葉は、仮に多少の経済的ゆとりがあったにしても、昭子が蕎麦屋を始めるときに共同出資者として出したとの五百万円やゴルフ場の会員権購入などさえ全く知らずにいた敏子の鈍さを嘲笑するニュアンスよりも、ずっと愛人に甘んじるしかなかった境遇に対する苦渋が滲んでいたように思われて、関口家での最初の対峙における、敏子のどぎつい口紅と昭子の真っ赤なペディキュアの対照の際立ち以上に強烈だった。亡夫の愛人の来訪に慌てて顔の面に紅を塗る本妻とストッキングの陰に隠した鮮やかな彩りで飾って線香をあげに来る愛人の対照というのは、表の本妻・陰の愛人という図式として、少々あざとさが勝っていたような気がしなくもない。


 それにしても、十年前に始まったとの隆之と昭子の関係の発端は何だったのだろう? 十年前なら、入社同期の同い年だったような感じだから、二人が五十三歳のときのことだ。五十九歳の敏子をエスコートしてホテルに部屋を取り、スマートに口説いて抱いた亡夫の蕎麦打ち仲間の男(林隆三)よりも数段若く、まだまだ男として枯れるような歳ではないものの、特に不満もなさそうな家庭を危うくするようなリスクを負ってまで、敢えて火遊びに耽りたいほどに精力を持て余している歳でもない。昭子は、ちょうど敏子が隆之を亡くしたのと同じように突然に夫を失い、未成年の子供を抱えて呆然としていたのではなかろうか。そのなかで隆之を頼ったのではないかという気がする。隆之に愛人が欲しくて、という事情だったとは思えない始まりのような気がしてならない。定年を迎えた日の家でのささやかな祝い膳の後、酔夢から醒めてやおら台所に向かい、食器洗いの泡にまみれた妻の手を握って「ありがとう」と言う実直さでもって、たまたま妻以外にも自分を見込んで頼ってきた女性に対して応じていたら、かような顛末になったのではないかという気がする。熱情というほどのものではなくとも、幾ばくかの好意を寄せている女性から、その窮地において見込まれたら応えずにいられないのは、男として極当たり前のことだ。それも縁というものなのだろう。昭子と一緒に蕎麦屋をやっている彼女の子供夫婦とも隆之がうまくやっていたらしい様子には、敏子は更なるショックを受けていたわけだが、敏子にすればそれも無理からぬことながら、隆之がそのように馴染んでいたのは、彼の実直さゆえのものだったような気がする。昭子は昭子で、そういう隆之だったからこそ深い仲になっても自制を利かせ、敏子から奪い取ろうなどとは決してしなかったのだろう。それはそれで彼女にとっては辛い日々だったに違いない。だが、敏子は敏子で、そんなことには露ほども想像が及ばないのが当然なのだが、昭子にしてみれば、自分は敏子の思いも充分判るなかで痛罵される立場で、敏子はこちらの胸中を一顧だにしないでいられるという不公平感に悔しさが募るから、「知らないことは罪ですわよ、奥様。」と言わずにはいられなかったのだろう。

 生前、妻には露ほどにも悟られず、愛人にはそれだけの自制を自ずと促し、見事十年も隠し通せた隆之の器量とも言えるわけだが、そのためには隆之も相当のエネルギーを注がねばならなかったはずで、それすら怠って上手くやり過ごせるほどに女性たちは甘くないとしたものだ。それなのに、遺品の一つとなったケータイの着信で昭子の存在を知られるに至った隆之は、草葉の陰で、ちょうど一度目にうまく敏子を口説き落とせた男が迂闊に敏子の夢を破って帰らせてしまって「バカ!」と呟き自嘲していたのと同じ思いをしていたのではなかろうか。しかし、侮れないのが人生だ。塞翁が馬の如く、敏子は亡夫に愛人がいたことに向き合うことで、他の数々の新たな出会いを引き寄せ、還暦前にして見事に脱皮をしていく。亡夫からも子供からも独り立ちした自分の新たな人生の歩みへの踏み出しを白い軍手とともに遂げる。映画好きには堪えられない琴線に触れてきた。

 思えば、死ぬまで伴侶に長らく愛人がいたことを知らずにいた話という点では、一ヶ月ほど前に観た『椿山課長の七日間』と似たような設定の物語だ。あちらは、奇抜な趣向のファンタジーで、人生の機微を心得つつ、ある種、受け手を手玉に取れる作り手の才覚と機知というものがストーリーテリングの巧みさという形に結実して、うまく語られたような思いがしなくもないけれども、けっこう面白く観たものだった。人の誤りを赦す寛恕は、やはり誤りに至る事情への理解と己が誤りへの気づきからという判りやすさがきちんと折り込まれていたところがミソだったように思う。そのうえで、誤っていたか否かの過去を追うのではなく、これから何が必要かに思いを致すことが寛恕を生み出すものであることがうまく表されていたように思う作品ではあったが、『魂萌え!』の“脱皮”と『椿山課長の七日間』の“赦し”では、断然、前者のほうが味わい深く心に沁みた。

 何と言っても、風吹ジュンが素敵だった。嘆息混じりの口調に年輪が刻み込まれている風情が漂う一方で、夜景の見える高層ホテルのベッドで見せたハッとした面持ちの初々しさ、皺も弛みも隠し装わずに晒しているのに、面立ちの優しさが人柄を偲ばせ、カプセルホテルの風呂場でタオルを前に掛けてしゃがんだ尻の線には艶っぽさがしっとり感じられ、魅了された。だが、最も素敵だったのは、やはり白い軍手を填めて映写機に寄り添っていたラストの姿だった。



参照テクスト1:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録
参照テクスト2:桐野夏生 著 『魂萌え!』(毎日新聞社 単行本)読書感想


推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20070203
推薦テクスト:「とめの気ままなお部屋」より
http://www17.plala.or.jp/tomekichip/impression/houga11.html#jump18
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2007tacinemaindex.html#anchor001550
by ヤマ

'07. 2. 2. TOHOシネマズ9



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