『アマデウス<ディレクターズ・カット>』(Amadeus Director's Cut)
監督 ミロシュ・フォアマン


 十年あまり前に同じ職場にいた知人からメールがあって、スクリーンワイド100インチ、音響システムTHX認定DAT、DD等 5.1CHサラウンドシステムのホームシアターを構えたから検分に来ないかとの誘いをもらった。僕のなかでは特段の映画愛好者という意識はなく、日頃の付き合いもなかったのだが、僕のHPを見てくれていたらしい。20タイトルほど構えたという作品リストのうち、18作品は既観作だったけれど、『アマデウス』DC版があったので、それを見せてもらうことにした。オリジナル版は二十年近く前に劇場で観、日誌も綴っている。ネビル・マリナーが音楽監督を務めた耳にも贅沢な作品だった記憶がある。それだけにオーディオ・マニアに相応しいJBLのどでかいスピーカーや別途付加されたトゥイーターやウーファーなどのシステムで、その十畳ほどの防音室がどんなふうに鳴り響いてくるのか楽しみでもあった。

 結果は、予想どおりと言えば、予想どおり。映画館よりも快適に没入できる。不粋な非常口表示灯もないし、嘗てと違って解像度も格段に進歩していて奥行や陰影にも薄っぺらな感じがまるでない。音の響きの空間的小ささによるコンパクト感は否めないものの、質的にはそこらへんの劇場で鑑賞するよりも遥かにクリアで、ダイナミックな響きのうねりさえも感じられる。垂涎とも言うべきものだった。しかし、僕などは、日常の場にこういうものを構えてしまうと見境・けじめを失ってしまいそうでおっかない気もする。使いこなすというか、生活のなかでの距離感の持ちようが難しそうだ。


 それはともかく、約二十年ぶりで観直した『アマデウス』は、やはり時の経過にいささかも色褪せることない稀代の傑作だった。目にも耳にも心にも深く豊かに訴えてくるものに満ちた、本当に贅沢な作品だ。しかも観る側の僕が二十年の時を経て観ても、感想自体には質的に変化したところが何もなかった。受け手の側の経年変化でぶれるところがほとんどないくらい、作品自体が確立させている部分が大きいということだろう。もっともこれは、僕の進歩や変化が乏しいだけのことかもしれない。

 ただ今回DC版を観て、昔の日誌に綴っていることとの食い違いにも気づいた。二人の男がモーツァルト(トム・ハルス)の死の直前、レクイエムの作曲を通じて交わる。この場面の迫力は最大の見所でもあるが、このときにモーツァルトの側からは『ただ一人の友達』、サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)の側からはモーツァルトの愛称『ウルフィ』が初めて口にのぼる。と記していたのだが、そんな台詞は登場しなかった。嫌われていると思っていた、赦してほしいとの言葉はモーツァルトから出るが、その後に僕の記したような台詞は続かず、愕然とした。「ウルフィ」と呼んだのは、妻コンスタンツェ(エリザベス・ベリッジ)のほかは、大衆オペラの座長シカネイダー(サイモン・カロウ)だけだった。

 大島渚の愛のコリーダ 2000 を観たときにも、二十二年前に観た記憶と場面が全く異なっていて愕然としたものだった。今回はさすがに観た当時に綴った日誌だから、場面違いではない。しかし、映画にない台詞を記しているわけで、この珍事には我が事ながら実に興味深いものがあった。

 僕は、映画を観たその日に日誌を綴るということは、二十年前にしても今にしても、一切しないようにしている。仮に僅か一日にしても、自分のなかでの醸成と反芻によって寝かせてから綴るようにしている。だから、その過程において、観た映画の印象から再構成をしているのだろう。その際、映画は絵画や活字と異なり、目なり耳の受け取るものが固定的に存在し続けることのない幻であるところが音楽にも似て、非常に感覚的で、可塑性に富んだ主観的なものになるということだ。極論すれば、映画や音楽は鑑賞者の脳内宇宙に記憶という形でのみ作品として存在し続け得るものであり、映写や演奏は、鑑賞者の内部に作品を形作らせることをもって完成に至らしめる“プロセス”でしかないのかもしれない。そして、そういう意味で鑑賞者が創造に加担できるというところが、僕が長らく映画を愛好している一番の理由なのかもしれないなどと、ふと思った。




推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/11010801/110/
by ヤマ

'04. 1.10. ミヨシ邸



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