『アンダーグラウンド』(Underground)
監督 エミール・クストリッツァ


 三時間近くの長尺ものを全く長いとは感じさせない堂々たる作品である。映画評論家の淀川長治氏は、この作品にシュトロハイムの『愚かなる妻』『グリード』、あるいはヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』を想い起したようだが、僕は、その自由奔放で破天荒な想像力の噴出の仕方にジャコ・ヴァン・ドルマルのトト・ザ・ヒーローを思い出し、祖国の歴史に対する哀切感とともにあるイメージの壮大さと象徴性の豊かさにテオ・アンゲロプロスのシテール島への船出を想起した。それでいて、彼らの作品にはなかったエネルギッシュでパワフルな躍動感が、ある種の猥雑さとともにみなぎっている。それは、同じユーゴスラヴィアのマカヴェイエフにも通じるところであるが、いずれにしても、クストリッツァ監督の個性豊かな作品であることを、ひときわ声高に主張しつつも、さまざまな映画の記憶をも呼び起こすという贅沢な作品なのである。

 それにしても、自国の歴史に対する愛情と不信、誇りと諧謔、悲喜こもごもの混沌とした思いをそのまま率直に掬いとって、まるごと表現し得ているのはたいしたものである。そのような効果をあげるうえで、この作品では、登場人物たちが実体性を伴った個人として物語を紡いでいくのではないということが、大きな役割を果たしているように思う。彼らは、ある時代においてその社会を構成した人物像として、背後に匿名の大勢の人たちを背負った形で描かれている。一個人ではないからこそ、クロはトランクの中で手榴弾が爆発しても死なないし、マルコがある社会的ポジションにつくことや彼らの関係の変化においても、それに至る個別的な経緯は重要ではなく、そのポジションについたという事実や関係性の変化そのもの、あるいは、そこでどういう状態にあるのかということのほうが重視される。そして、ナタリアがフランツからクロ、マルコと渡り歩くことにおいてもまた、彼女の心の動きや感情の変化による恋愛遍歴とは異なった意味が投影されているのである。

 そのように受け取ると、個人の物語として観たときには不自然きわまりない顛末や登場人物たち相互の関係性にも、さほどの違和感を覚えなくなる。むしろ、ダイナミックな構成や映像表現のなかに、自国の五十年の歴史に対する作り手の時代観や社会観、人間観が総括されているような気がしてくる。それは、即物的な下俗に堕しやすい小賢しい人間の愚かさや近視眼的なナルシズムとともに権力者に唯々諾々と騙される民衆の愚かさであり、同時代において社会の真実を見極めることの困難さといったものではなかろうか。だが、そう言いつつも、クストリッツァは、そもそも歴史に確たる真実などありはしないとも考えているような気がする。あるのは事実のみで、それらに付与される意味などというものは、さまざまな主観の数だけあって、到底、確たる真実などには至らない。そういった眼で人間の営みを見渡せば、戦争の悲劇やヒロイックな地下抵抗活動も富や権力も民族の解放や宗教の独立も、愚かな人間の営む滑稽譚でしかないようだ。けれども、そうは言いながらも、自国の歴史のなかの人々の営みを見つめる眼指しには、いささかもニヒルな冷やかさがない。むしろ、善悪を越えて兎にも角にもそうやって懸命に生きている人々のエネルギーを讃えているかのようだ。

 だからこそ、ラストシーンは祝祭のエネルギーに満ちている。しかし、それを楽天的なエンディングと観るのか、あの世にならないことにはこの世では決して和解できない深い傷だと捉えるのかでは、随分と意味合いが異なってくる。僕としては、祖国の大地から切り離され、海に漂うよるべなさに、少なくとも楽天的な印象は持てなかった。



推薦テクスト: 「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1802695784&owner_id=4991935
推薦テクスト:「Silence + Light」より
https://silencelight.com/?p=1034
by ヤマ

'96.10. 8. 県民文化ホール・グリーン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>