『人間の條件 第1部純愛篇第2部激怒篇』['59]
『怪談』['64]
監督 小林正樹

 合評会の課題作となった小林監督による二本立ては、先般の課題作上意討ち 拝領妻始末['67] の前作『怪談』['65]と人間の條件の「第一部 純愛篇/第二部 激怒篇」を収めた第一作['59]という、フルタイム勤務の仕事持ちには過酷とも言える、合計六時間半を超える長尺プログラムだ。些か怖気づきつつ、製作時順に取り敢えず『人間の條件』を八年ぶりに再見した。

 軍隊の行進とロダンの代表作「接吻」を並べて提起するオープニングで始まる大長編の、梶(仲代達矢)が軍隊に召集される前の南満州鉄道株式会社勤務時代を観ながら、改めて今ではもう作れなくなっている映画のように感じられることが情けなくなった。人間は弱いものと零す金東福(淡島千景)に対していくらでも強くなれるのが人間だと返した王亨立(宮口精二)の言葉が、その後の梶の身の処し方と運命を思うと、いかにも暗示的だったように思う。

 映画作品の受け手が最も立ち位置を重ねやすい沖島(山村聡)の言っていた“ヒューマニストの専用車”に乗り込んだ梶が憲兵隊の渡合軍曹(安部徹)の拷問を受け、懲罰的な“徴兵猶予の解除”によって釈放されるまでを描いていた第一作を観ながら、沖島の指摘していた“根本的矛盾の上に立つ正当化”の持つ意味について、改めて考えてみたりしていた。そこのところがまさに標題の『人間の條件』というわけだ。

 本社の部長と対立して左遷された沖島も、梶という“ヒューマニストの専用車”に乗り込む男と出会ったがゆえに、彼なりの“根本的矛盾の上に立つ正当化”を梶の求めに応える形で実行して左遷されていたわけだが、理念に傾く梶と違って遥かに現実の見える沖島は、梶の求めに応えても梶の望む奇跡など起きないことを承知のうえで応えていた気のするところが味わい深い。ある意味、止むに止まれぬ己が思いに忠実に振舞う梶以上に、勇気を要することのように思われるが、沖島にその勇気を抱かせる“行き掛り”になり得るのは、沖島のように現実と理念の両方に足場を置くことのできる人物ではなく、梶のような理念に傾いた人物であるところが目を惹く。僕など、沖島になれることはあっても梶には絶対になれない気がすると同時に、なるなら梶ではなく沖島のような人物でありたいと思うほうだ。

 年嵩ながら梶班長の元で労務に携わっていた沖島が左遷されて、その後に就くはずだった古屋(三井弘次)への引継ぎを梶に命じていた黒木所長(三島雅夫)の指示からすれば、陳(石浜朗)を嵌めて自死に追いやった古屋は、沖島の後任を飛び越えて梶の後の労務班長職に就任することになったようだから、飛び級昇進を果たしたわけだ。梶に処刑立会人を命じていた憲兵隊の河野大尉(河野秋武)もそのようにして昇進してきたのだろうと思わせる人物像を、古屋と河野に相通じるものとして造形していたような気がした。

 そして、特殊工人と呼ばれる戦争捕虜の中国人労働者のリーダー王亨立(宮口精二)の発した“人間性を捨てるか保つかの岐路”という言葉に強迫されつつ、妻の美千子(新珠三千代)からの懇願に煩悶する梶の姿に圧倒された。かような“人間の條件”が問われる岐路に立たされることほど酷なことはないと、つくづく思う。そこで“根本的矛盾の上に立つ正当化”に過ぎないなどと観念して、“毒を食らわば皿まで”と居直るようなことだけはしたくないから、これまで己が職務において、そこまでの岐路に立たされたことのない我が身の幸いを改めて思った。己が良心の傷むような仕事をせずに定年退職を済ませられたことに優る幸運はないのかもしれない。


 そのような形で“人間の條件”について想いを巡らせた後で観たからか、十八年前に160分バージョンでスクリーン観賞している作品の183分完全版での再見となった『怪談』は、当時の映画日誌 '65年カンヌ映画祭審査員特別賞を受賞したことが頷けるようなアーティスティックな映像美と実験性を格調高く追及したとの印象が非常に強い作品だった。八月の狂詩曲で黒澤明が空に浮かせた眼のイメージのようなものやら、大林宣彦や篠田正浩が好んだ空への彩色などを遥か前に小林正樹がこの作品でやっていたのだということを初めて知った。美術的には圧倒的な造形力で、巨額の製作費を要していることが素人眼にも一目瞭然だ。黒澤明監督のには、強い影響を与えていたんじゃなかろうかとも思った。キャスティングが非常に豪華で、女優にしても男優にしても、見知った面々の若かりし頃の美形ぶりを次々と目の当たりにして、思わず感じ入っていた。と記してあることと印象に違いはないが、オープニングロールから色とりどりの墨流しを鮮やかに使ったアーティスティックな導入に見合う以上の美術造形とメイク、照明の素晴らしさに目を奪われながらも、人の業というか性の底知れない深さに対する作り手の強い関心というものを改めて強く感じた。

 そういう点では、第三話「耳無芳一」の抜きん出た格調以上に、休憩前の二話「黒髪」「雪女」に今回の再見では惹かれたように感じる。「男には立身出世が大事」と妻を変え、生活困窮から脱しながらも愚かな無いものねだりに囚われ繰り返している男(三國連太郎)にしても、粗忽な約束破りで掛け替えのないものを失う男(仲代達矢)にしても、怪談的な怖さよりも、人の性の愚かさのほうが怖い話だったように思えて面白かった。

 第三話では、琵琶法師の芳一(中村賀津雄)を霊界から呼び出しに現れる甲冑武士を丹波哲郎が演じている適役ぶりが今さらながらに可笑しく、第四話「茶碗の中」では、小泉八雲の役は滝沢修だったことに覚えがなくて心外だった。

 合評会では、メンバーの一人から四話のオムニバスをどう観るかと問われたのだが、四話の抽出が脚本を書いた水木洋子によるものだと聞いて、本作のオムニバス主題は“小泉八雲の仕事”だったのだなと思った。最後に置いた「茶碗の中」が重要で、最初に字幕によって「なぜ明治32年?」と思わせてくれたことと、小泉八雲と思しき男(滝沢修)までもが茶碗の中に映り込んでいたショットが効いて「あぁ、そういうことか」と得心がいった。

 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの怪談から何を取り出すかとなれば自ずと最も著名な「耳無芳一」と「雪女」になるわけだろうが、そうした際に水木洋子は、外国人の小泉八雲が外国人であるが故に魅かれた怪談の怖さについて、パワフルで攻撃的な恐ろしさとは異なる情緒的なものを日本的な怖さとして小泉八雲が観て取ったと捉えたのだろう。

 怪談「雪女」に描かれた“約束破りによって妻を失う男”として即座に連想するのは、ギリシャ神話のオルフェウスが冥界を出るまで振り返ってはならない約束を破って妻エウリュディケの姿を見てしまったことで失う話なのだが、雪女では、お雪(岸恵子)と巳之吉(仲代達矢)の間に子を為すエピソードに重みがあって、それゆえに雪女のほうも「殺す」という約束を果たせなくなる情の部分が強調され、夫婦の物語ではあっても男女としての熱情と失意の物語ではなくなり、柔らかみと哀しみに彩られた大和風味が効いてくるものになっている。真に怖いのは、冥界の王ハデスのような強い力で威圧してくる恐ろしさではなく、雪女の話はするまいと誓っていてもつい洩らしてしまったり、約束を破ったら殺すと決心していてもそうはできなくなってしまう己が変心や油断のような“内なるままならなさ”という攻撃性とは無縁の怖さのほうだったりするような気がする。

 そこに西洋的な感性と日本的な感性との対照のようなものを感知して小泉八雲が「雪女」を書いたのだとしたら、「黒髪」の妻を乗り換えた男に棄てられていた最初の妻(新珠三千代)の怖さこそがその真骨頂だということでの第一話だったような気がした。夫から一縷の救いも立つ瀬もない形で棄てられながら、恨み言すら一切洩らさずに懇願と気遣いしか残さなかった優しい女だったがゆえに、入り婿によって念願の出世を与えてはくれても些かの安らぎも与えてくれない新たな妻(渡辺美佐子)との生活に疲弊して、まるで呪いのように棄てた妻の面影に憑りつかれていた男にとって、真の怖さというのは、生活困窮や愛せない現妻よりも、亡き骸を亡き骸とも判らぬままに交わらせてしまうほどに己が心を蝕む前妻の面影のほうだろうと思った。

 そして、こういう日本的感性による怖さというものに深く分け入った小泉八雲に対して、大和という茶碗の中にその面影を浮かばせて、既に日本人以上に日本人になった男としてラフカディオ・ハーンを称揚して終話としていたのが、第四話「茶碗の中」だったのだなと思った。振られた問いにそのように応えたら、なんだかえらく感心された今回の合評会だった。




(追記)'21.11. 9.
 課題にでもされなければ、自ら進んでこの二作を続けて観ることなど、するはずもなかっただけに、今回続けて観たからこそ湧いた感慨があったように思えたことが愉しかった。単品で『怪談』を観れば、やはり丹波哲郎が毎晩霊界から誘いに来る「耳無芳一」にいちばん目を奪われるような気がする。それだけ圧倒的にアーティスティックな造形だった。それなのに、休憩前の二話のほうに心惹かれ、オムニバス構成を振り返る機会が得られたのは、大いなる収穫だった。

 小泉八雲の『怪談』をオムニバスで映画化するとした際に、不可避的に挙がったはずの「雪女」「耳無芳一」に何を加えるかで、本作のオムニバス作品としての真価が浮かび上がっていたように思う。同じ「怪談」からの作を採らずに、映像で小泉八雲作品集であることを提示すべく終話に「茶碗の中」を持ってきた選択眼は、なかなかのものだが、形式上からも如何にも着想できそうなことだという気がする。

 だが、「黒髪」を最初に持って来る選抜と配置の見事さには畏れ入った。形からの構成ではなく、小泉八雲の神髄を何処に観て取っての映画化作品であるかを鮮明にした素晴らしい選択眼で、しかも終話の「茶碗の中」を観た後に、その真価が沁みて来る形に配していたわけだから、まったく大したものだ。

 また、『人間の條件』も全編一挙に観てしまうと、どうしても軍隊に入ってから後の惨状に目を奪われがちなので、今回、満鉄時代に留めて観る機会を得たことは幸いだった。公開当時は、これだったのだから、本来に帰ったようなものだ。そうして観てみると、第三部以降は登場しなくなる沖島が俄然、存在感を発揮することになるわけで、本作におけるその配置に感心させられた。原作では、どのような人物造形がされていたのだろう。五味川純平の大長編はかなり敷居が高いけれども、読んでみたい気持ちになった。
by ヤマ

'21.10.24,27. DVD観賞
'21.10.28.   DVD観賞



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