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美術館特別上映会[歴史民俗資料館特別展「あの世・妖怪・陰陽師-異界万華鏡-」関連企画]“怪談映画大会”
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高知県立美術館が同じ財団の傘下にある他館の企画展との関連企画ということで特別上映会をおこなった例は、過去に県立文学館との提携での『寺山修司映像パノラマ館』があるが、県立歴史民俗資料館との提携は初めてのものだ。僕は、歴民館の特別展『あの世・妖怪・陰陽師-異界万華鏡-』をまだ観ていないが、友人の話ではかなり観応えのある資料展だそうだ。この上映会は、歴民館側の提起によって企画されたようだが、美術館の企画上映としても近来にない動員を果たしていて、大成功だったようだ。 ラインナップ的にもとても充実していて、ちょうど半世紀前のモノクロ作品『怪猫有馬御殿』から始まって、五十年代の映画が大映のモノクロ作品と新東宝のカラー作品(一本はパートカラー)を二本づつの四作品、六十年代の映画が大映のモノクロ作品二本、大映のカラー妖怪映画二本、新東宝の『地獄』と文芸プロ=にんじんくらぶの『怪談』を含むカラー作品三本からなる七作品で、珍品・貴重作品取り混ぜ、“怪談映画大会”の名に似つかわしいヴァラエティの豊かさだった。 *一日目('03. 8.23.) 初日の7作品は、怪談ものに欠くことのできない動物である蛇と猫が二本づつで、妖怪が二本、化身なしの幽霊が一本という配置だった。 妖怪ものの二作品はカラー映画で、漫画的ユーモアを湛えていて楽しく観られる作品だった。最初に観た『妖怪百物語』で、大衆娯楽映画の直球のような作品のなか、ある種、丹精が宿っているように感じられる色合いの美しさとアーティステイックな画面づくりにいきなり魅せられた。大映の製作スタッフの技量の充実ぶりが確かに窺える。 物語は、たわいもない勧善懲悪ものなのだが、感心したのは、妖怪たちに一切の正義を負わせていないところだった。その役処は、藤巻潤の演じる侍に一手に負わせ、あくまで妖怪たちは、禁忌を犯した者どもに疫災を与えるのであって、彼らが悪人だからではないところがすっきりしている。欲に任せた放埒な悪に手を染めて恥じない思い上がりが禁忌をもないがしろにすることに繋がり、結果的に懲らしめられるというわけだ。人間でもないのに、人間界側の価値観を仮託された形のキャラクター造形をされる異形の者が氾濫しているので、どこか爽快な気分を誘われるとともに、大いに目を楽しませてもらった。ところが、同年のシリーズ第2弾となったらしい『妖怪大戦争』になると、忽ちにして妖怪たちの擬人化が進み、バビロニアのヴァンパイアたるダイモンの日本征服に立ち向かう国防軍となって、大いなる義が与えられていた。 ところで『妖怪百物語』では、画面一杯に大写しになる、妖怪の顔が天空からかぶさる構図の映像に確かに見覚えがある気がした。子供時分に観た作品かもしれないと思いつつ、この手の映画ではよく使われそうな手法でもあるので、僕の見覚えがこの作品によるものとは限らないとも思った。 一時間の昼食休みを挟んだ午後からの上映は『蛇娘と白髪魔』だ。少女漫画誌に掲載されていた楳図かずおの恐怖漫画で蛇女が出てくるものは、小学生の時分に通っていた貸本屋の単行本で読んだことがあるような気がする。タマミという名前にも覚えがあるのだが、この映画の原作だったという確たる記憶はない。過剰に健気な小百合のキャラは、遠い記憶にある楳図的なものを想起させ、タマミの不気味さもなかなかのものだったが、物語そのものを含め、作品的にはやや貧弱な気がした。 ちょうど半世紀前の作品となる『怪猫有馬御殿』は、ヒロインおたき(入江たか子)をいびる岩波の憎々しげな悪役ぶりが達者で、作品をよく引き締めていた。『妖怪百物語』でもそうだったが、昔の映画は悪役の個性が際立っていて観応えに繋がっている。化け猫のおたきが眠っている腰元たちをリモートコントロールで操った動きが競技体操の動きそのもので、時代劇に登場してくるところが妙に可笑しかった。 次に観た『執念の蛇』は、この日の7作品のなかで最も充実していると僕には感じられた作品だった。手代の清次郎に捨てられ、最初は気の毒でもあったものが、次第に悪女ぶりに笠が掛かっていく踊りの師匠である歌次(毛利郁子)の映る場面に限らず、画面が全般的に実に官能的だったのだ。そのせいでか、遺恨と強欲の物語のはずなのに、えらく美しい作品だったような印象が残っている。また、毛利郁子が悪役なのに笑くぼ美人だったのが、妙に珍しいような気がした。水中撮影のシーンがなかなか刺激的だったこの女優は、高知県出身なのだそうだ。 この日の上映作品で唯一の新東宝作品『亡霊怪猫屋敷』は、現代劇の部分をモノクロにし、時代劇のほうをカラーで撮ったパートカラー作品だった。『執念の蛇』と同じ '58年すなわち僕の生まれた年に撮られた映画である。一時間余りしかない作品なのに、妙にテンポが悪く、間延びしているように感じたのは、編集のリズムが僕と合わなかったということだろうか。また、化け猫が生者をリモートコントロールして動きを操るというのは、怪猫ものの約束事なのだろうか。『怪猫有馬御殿』のような体操の動きではなかったけれども、この作品にも手招きで動きを操る場面が出てきて、思い掛けない符合を見せていて面白かった。 一日目の最後は、『怪談蚊喰鳥』。後に『盲獣』で按摩を演じた船越英二が、亡き兄の徳ノ市と弟の辰ノ市という全盲の兄弟按摩師を演じ、常盤津の師匠・菊次(中田康子)とその情夫孝次郎の三人の間で、色と欲にまみれ謀略と駆け引きに満ちた濃厚な人間模様が展開される。幽霊が登場するのは最初だけで、再度の登場は雇われ男の扮装だったから、あまり本来的な意味での怪談ものということにはならないどころか、下手すれば、最初の幽霊だって辰の市の芝居かもしれないという気がするが、作品的には、思いのほか充実していた。「かくいどり」というのは蝙蝠の別称らしいが、鳥とも獣ともしれない蝙蝠の名に相応しく、三人が三人とも本性のほどが定かでなく、色と欲に囚われたときの人間の性根の悪さがよく描かれていた。夏場を舞台にして、画面に暑苦しさが充満していたのがなかなか見事で、三人の人間関係のどろどろぶりを引き立てていた。 *二日目('03. 8.24.) 前日と同じ時刻から始まって、終映が一時間半くらいしか早まっていないのに、上映本数が三本も少ない四作品になっている。だが、プログラムとしての観応えは、一日目を上回っていた。午前の部の二作品は、ともに新東宝での中川信夫監督作品だ。最初に上映された '59年公開の『東海道四谷怪談』は、国産ホラーの最高峰と呼ばれている傑作とのことだが、さもあらんばかりの見事さだった。 天知茂の演じる民谷伊右衛門は、見掛けと裏腹に、逆上しやすくて芯から弱い性根が災いし、直助(江見俊太郎)に唆されるままに、とんでもない悪の道を転がり落ちていくことになるのだが、伊右衛門の愚かな世迷いぶりが絶妙で、若杉嘉津子の演じるお岩の哀れさが引き立っていた。そして、毒による腫れ物で崩れる顔に加え、母の形見の櫛で梳いて髪が抜け落ち血を流すハイライト場面での岩の嘆きと恨みの篭もった悲痛さが絶品だった。見事なメイクに、鏡をうまく使った演出と巧みな照明効果によって演技の素晴らしさが最大限に引き出されたことで、比類なきものとなっていたように思う。この場面と併せ、戸板に裏表に打ち付けられた岩と宅悦(大友 純)が水の中から浮かび出て、バタンバタンと暴れ出すようにして伊右衛門を脅かす場面を観ていると、この作品も遠い昔に観たことのある映画だったような気がしてきたが、『妖怪百物語』同様、定かではない。 『東海道四谷怪談』の翌年の作品となる『地獄』は、この企画上映の十日ほど前まで、東京の映画館の“新東宝カルトムービーズ”と題する特集上映のラインナップのひとつとして上映されていたものだ。確かにキッチュな味わいと「?」が連続する物語の壊れようが、いかにもカルトムービーに相応しい装いを備えている。宮川一郎と共に自身も脚本を書いた中川監督は「ファウストなどを下敷きにやりました」と語っているようだが、それで言えばメフィストフェレス役に当たる、沼田曜一の演じた大学生田村は、直前に観た『東海道四谷怪談』で伊右衛門を演じていた天知茂が、この作品で何かと田村に唆される主人公の清水四郎を演じていたことも手伝ってか、僕には、直助に重なるような気がしてならなかった。 昼食休みを挟んだ午後からの上映は、これもまた名高き小林正樹監督の『怪談』だ。 '65年カンヌ映画祭審査員特別賞を受賞したことが頷けるようなアーティスティックな映像美と実験性を格調高く追及したとの印象が非常に強い作品だった。『八月の狂詩曲』で黒澤明が空に浮かせた眼のイメージのようなものやら、大林宣彦や篠田正浩が好んだ空への彩色などを遥か前に小林正樹がこの作品でやっていたのだということを初めて知った。美術的には圧倒的な造形力で、巨額の製作費を要していることが素人眼にも一目瞭然だ。黒澤明監督の『夢』には、強い影響を与えていたんじゃなかろうかとも思った。キャスティングが非常に豪華で、女優にしても男優にしても、見知った面々の若かりし頃の美形ぶりを次々と目の当たりにして、思わず感じ入っていた。 クロージング作品は、 '68年の『牡丹燈篭』だった。左翼的な社会派映画監督と目されることが多い山本薩夫作品に怪談ものがあるとは意外だったが、幽霊映画としても非常にしっかりした佳作だった。社会派の面目というか、観るとなるほどと笑えるところが随所にあって、それも妙に嬉しかった。家名隆盛のために押し付けられた義姉との婚姻そのもの以上に、個人が尊重されない武士の世の中の仕組みが厭で、長屋住まいをしながら、貧しい町家の子供たちに読み書きを教え、世の中を変えたいと願っている節のある萩原新三郎(本郷功次郎)が主人公であるところからして、“ヴ・ナロード(人民の中へ)”を合言葉に啓蒙運動を展開したナロードニキのインテリ青年そのものなのだ。そして、哀れな幽霊のお露(赤座美代子)に魅せられ、異界への道行きも厭わない覚悟をしたつもりでも、長屋の長老とも言うべき白翁堂(志村 喬)に、民の願いを以て教師としての自覚を促されると、私的恋情を断念しようとするくらい社会意識が強い青年だった。 ある意味で純な懊悩に苦しむ新三郎と、慎ましやかなようでいてひたすら押しの強いお露、そしてそれを更に後押しするお米(大塚道子)のありようが、男と女の物語の一つの典型とも言える普遍性を晒していて、苦笑を誘う。とんだ幽霊たちに見込まれたものだが、幽霊たちもまた純情ゆえの深情けだから、余計に始末が悪い。彼ら三人の純情を引き立てる形で、それとは対照的に、浅はかな世知と欲に辛い男と女としての伴蔵とおみねを西村晃と小川真由美が巧く演じていて、コミカルな彩りを添えるに留まらない厚みを作品に与えていた。 参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より https://moak.jp/event/performing_arts/post_154.html *地獄 推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より http://madamdeep.fc2web.com/jigoku.htm 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20050411 | ||||||||||||||||||||||||||||
by ヤマ '03. 8.23・24. 県立美術館ホール | ||||||||||||||||||||||||||||
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