『人間の條件 第一部・第二部』['59]
『人間の條件 第三部・第四部』['59]
『人間の條件 完結篇(第五部・第六部)』['61]
監督 小林正樹


 小林監督の上意討ち 拝領妻始末['67]を観るよう勧めてくれた先輩が切腹['62]は観てるかと言うので観ていると答えると、『人間の條件』は? と問うので、五味川純平の映画化作品は『戦争と人間』を観ているだけだと答えると「そりゃ山本薩夫より、小林正樹を観ないと始まらない」と託された。

 第一部 純愛篇/第二部 激怒篇を収めた第一作では、人間とは何なりや。詩でも道徳でもない。吸収と排泄の卑俗な欲望の塊に過ぎないと透徹する所長(三島雅夫)のキャラクター造形と、最後に梶(仲代達矢)に遂に君はヒューマニストの専用車に乗り込んだなと評した同僚 沖島(山村聡)の立ち位置の描き方になかなかのものがあって、大いに観応えがあった。

 製作当時は、原作小説が大ベストセラーになり、映画が大ヒットしたのだろうが、今なら“自由主義史観”なるものを標榜する勢力から、国賊の如く誹謗され、これこそまさしく自虐的歴史観に他ならないとされる作品だろう。なにせ苦悩のヒューマニストとして描かれる梶の台詞に「俺が日本人だってのは、俺の罪じゃない。だが、俺が最も罪深いのは、俺が日本人だってことだ。」などというシンボリックなものがあって、ダイレクトに刺激するのは間違いないからだ。

 そんななかで、最も印象深く僕に残った台詞は、捕虜という名目で捕えられ、鉱山での強制労働に従事させられている抗日活動家の王享立(宮口精二)が採掘会社の労務を指揮する梶に「あなたは、あなたが考えるほど、人間を信じてはいない」だった。衆知に寄せる友人の信頼感と僕の不信感の好対照終の信託において感じたのだが、王が梶に対して言っていたのは、そういうことだったような気がする。だから梶は、完結篇の最後に至るまで、孤高に向かうことはあっても、王のような立ち位置でのリーダーシップを発揮することはなかった。彼を慕い、付いてくる部下や彼よりも上位にある者を抑えて指揮を取る立場になっても、彼のなかに常にあったのは“個の問題”としての“自身の矜持における身の処し方”だったような気がしてならない。

 そういう意味では、僕としても非常に共感しやすい一方で、何とも哀しく寂しい気がしてならなかった。王のような蜂起としての闘争に携わることは決してなく、己が身においての引き受けは凄絶なまでのレベルで果たし得ても、遂に彼が心を許し、自身の心象風景のなかに定着させていたのは、妻 美千子(新珠三千代)ただ一人だったように思う。梶に、孤高はあっても連帯はないような気がしたのだった。

 そして、それは横暴な権力への日本人の立ち向かい方の限界として表れていたような気がしなくもなかった。いつの時代も権力者側は、力は強いが、数は少ない。それゆえ最も恐れるのは、民衆の団結蜂起ということになる。だから、権力側は分断策を講じ、凝らすわけだ。梶の憲兵への異議申し立てに呼応して、王が「人殺し」と挙げた声が大合唱になって憲兵達を圧する場面は、なかなかの迫力だっただけに、梶の闘争においては、『人間の條件 第一部・第二部』の国策会社であれ、『人間の條件 第三部・第四部』の軍隊であれ、『人間の條件 完結篇(第五部・第六部)』の捕虜収容所であれ、集団蜂起による団結の力を示す場面がなかったことの意味は大きいように思う。あたかも日本人の闘争に“団結”はないことを指摘しているかのようだった。

 他方で、個人的奮闘における梶の超人的なまでの克己心と自己犠牲は、いささかマゾヒスティックなくらいに破格のものがあって、『人間の條件 第一部・第二部』での憲兵に連行され、椅子に縛り付けられたり、吊るされたりして打擲に晒される梶を演じた仲代の迫力はなかなか凄くて、時代がおかしくなり、組織がおかしくなるなかで、真っ当で居続けることの至難を描いていて強烈だったし、第三部・第四部の軍隊でも、完結篇の捕虜収容所でも、人間の尊厳を揺るがされるような屈辱と凄惨にまみれながらも不屈の魂を発揮していた。



 第一部・第二部が差別と搾取に焦点を当てていたのに比して、梶が軍隊に召集されてからを描いた第三部・第四部(望郷篇/戦雲篇)は、反戦以上に軍隊批判だったように思う。そして、折しも部活体罰による自殺事件が教育現場のみならずスポーツ界全体を揺るがす出来事へと発展し、五年ほど前の相撲部屋でのシゴキに名を借りたリンチ殺人事件以来の熱狂ぶりでメディアが取り上げているさなかだから、日本軍での体罰やイジメの凄惨を描いた作品を観るのは、実にタイムリーな気がした。

 初年兵のときに古参兵から受ける軍紀や訓練に名を借りた体罰によるイジメの犠牲者として、小原二等兵(田中邦衛)がまさしく自殺をするのだが、銃器の発射に三度も失敗し、「死ぬなっていうのか…そうだ、死ぬのはいつでも死ねる」と口にした後、まるで誤射を起こしたようにして死んでいたのが痛烈だった。何をやっても鈍くて要領の悪かった小原らしい最期なのかもしれないが、後の梶の身の処し方に大きな影響を及ぼす重大事だったように思う。隊長から自殺の原因を問われて「軍隊であります」と答えるほどの硬骨を絵空事に感じさせない梶二等兵の人物像を造形していた演出と仲代達矢の演技に大いに感心した。自由主義史観なるものを支持する勢力からは、おそらく第一部・第二部以上に看過できない作品だろうと思った。

 このとき隊長から硬骨ぶりを買われて昇進した梶は、二年目には旧友の影山(佐田啓二)が士官として着任したこともあって、早々と上等兵になって新兵の指導係になるのだが、古参の上等兵や一等兵から受ける妬みや白眼視が凄まじかった。彼らの口から繰り返し出てくるのが「俺たちが初年兵の頃にはなぁ…」だ。軍紀を作るのは、決して軍規ではなく“悪貨が良貨を駆逐する悪しき伝統”に他ならない。

 まさに旧態然とした体育会系の温存している体質を如実に描き出しているようで、いささかゾッとした。このような悪しき伝統が醸成しているものなれば、教育現場における体罰及びスポーツ指導におけるシゴキや威嚇を、軍規ならぬルールで縛っても、その運用が軍隊並みなら幾度でも繰り返すのは自明のことだ。

 梶のような人物が指導係に就いて新兵を古参兵から引き離す方策を取ったり、その後ろ盾に影山少尉が士官として就いていても、組織そのものの改革にはまるで繋がらないのが軍隊組織というものだということを痛烈に描いていたように思う。

 そんな第三部・第四部で僕が最も好きなシーンは、梶が「おかげで素晴らしい夜だった。…こんな惨めで美しい夜は二度と来ないように、な…」と口にした場面だ。遠路はるばる面会に来た梶の妻の殊勝さに対し、翌朝の点呼時までの個室所の使用と休養が特別の計らいとして許可された夜、一つの毛布にくるまって梶がこの台詞を発した後、ひとつ我儘を許してくれと「寒くてすまないけどもね、裸になってあの窓のところへ立ってくれないか…観ておきたいんだ、君の体。この目に焼き付けておきたいんだ…」と頼み込む。

 学生時分にミッドナイト・エクスプレス['78]を観て、トルコの刑務所にまで面会に来てくれた恋人に対して、胸を開いて乳房を見せてくれと哀願し、ガラス越しにビリーが自慰に耽る場面に感動したことを思い出した。



 完結篇となった第五部・第六部は、胸が悪くなるような迫力だった。死の脱出篇、曠野の彷徨篇との副題が付いている完結篇は、これまでのリアリズム色よりも象徴性を濃くした形で展開していく。個々の場面における具体描写のリアリズムは踏襲しつつ、物語の展開としての敗残兵の脱出と彷徨に“魂の彷徨い”的な面が非常に濃厚になっているような気がした。

 さまざまな形で出会う人々の多くが非戦闘民で、しかも女性を含む場合が多かったのが印象的だ。本来守られるべき弱者の象徴として登場するとともに、戦時において最も虐げられる存在として登場していたように思う。そうすることで、古今東西において共通する「軍隊は軍隊のために戦うのであって、決して自国民を守ったりしない」ということが、本作でも痛烈に描かれていたような気がする。

 また、プロレタリア革命への共感をとうてい投影できないソ連軍の在り様への作り手の苛立ちと、かといって見捨てきれない期待というものが、如実に現れているような気がした。'60年前後の作品らしい時代性を感じる。そして、妻の名を呼びながら、彷徨を続ける梶の姿にコールド・マウンテン['04]のインマン(ジュード・ロウ)を思い出した。南北戦争の敗残兵インマンは妻エイダ(ニコール・キッドマン)に再会できたけれども、梶には寒々とした現実しか待っていなかったのが何とも苦しかった。




推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/ningen-jouken.html
by ヤマ

'13. 1.26.~ 2. 9. DVD観賞



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