『夢』
監督 黒澤 明


 オムニバスを観る楽しみは、各エピソードを繋ぐ全体としての構成と配列に対する作り手の意図を読み取るところにあるが、第1話『日照り雨』、第2話『桃畑』と観て、老いた巨匠が夢という題材を借りて過去の郷愁をイメージ世界で再現していくのかと思っていると、第3話『雪あらし』にきてちょっと戸惑ってしまった。これは何なのだろうと思いつつ観ているうちに“辛苦”だと思った。

 そうか、これは人が人生のなかで出会う重要な事々を夢に託して並べて見せるのだなと思った途端、第1話は“神秘”第2話は“喪失感”だと気づいた。後は恐怖とか憧憬とか安らぎ、あるいは勇気とかが出てくるぞと思ったら、案の定、第4話『トンネル』で冒頭に不気味な犬が現われて、したりと思ったが、この話のポイントは恐怖ではなく“不安”であった。

 敗戦・抑留体験のなかで己が拠って立っていた拠所を根刮ぎ奪われ、かつ生き長らえている。過去は後ろめたく、未来に展望がない。この生の不安が亡霊を招くのであるし、また彼らに対し過剰なまでの弁明をさせずにはおかない。怪獣のような吠え声の犬はそういう意味で恐怖の対象としてよりも不安の象徴として現われてきているように思う。

 第5話『』はまさしく“憧憬”だ。ゴッホへの憧れをこれほど素直にかつ高い視覚的効果をもって描いたのは流石だ。第6話『赤富士』、ここに「恐怖」が登場する。示されてみれば成程、現代で恐怖を語るには核が最も相応しい題材といえる。しかし、タルコフスキーがノスタルジアの後でサクリファイスを撮った蛇足と同じように、黒沢もつい第7話『鬼哭』で同じ罠に陥る。

 第6話では恐怖を描く題材としての核と言えても、第7話では何かの題材としてのありようはなく、核そのものが主題となる“警告”としか言えない。これでは人が人生のなかで出会う重要な事々を夢に託して並べて見せる構成が破綻してしまう。しかもこれまで各エピソードの主人公を務めていた私が目撃者ないしは証人の位置に変ってしまっている。この第7話での変容のために“安らぎ”となるべき第8話『水車のある村』が“説教”になってしまった。

 こうなってくると、前半の部分まで含めて全体がやたら説教臭くなり、重たい印象が残る。第7話抜きに第8話を、それも説教を聞くのではなく私が主体となった安らぎ、あるいは希望の表現で締め括れたら、第6話で既に警告に満ちていた恐怖のメッセージももっと有効に印象深く刻み込まれたのではなかろうか。

 僕の気に入ったエピソードは、『桃畑』と『鴉』。山村の段々畑を雛段に見立てたアイデアとゴッホの数々の名作のなかに実際に入り込んでいく私やゴッホの絵をセットと実写で再現した映像には感心した。しかし、気に入ったからか、完全主義者黒沢と言われる彼らしくない粗さもこの二つで感じた。それは、桃の精がもう一度見せてやろうと言って段々畑に咲かせた桃の花の映像が、例の雛段に見立てた段々畑とは明らかに違う場所の桃の花だったことと『はね橋』の絵に入り込んだ私が、村の女と話す時はきちんとフランス語だったのに、ゴッホとは英語で話をすることだ。ともに重要な場面だっただけにせっかく乗っていた興に少し水を差された気がした。そうは言っても、この作品が全編通じて、観せることの手堅さで観ることの楽しみを充分に与えてくれたという点で文句はない。今の邦画の状況では、これだけでも立派なことなのだ。

by ヤマ

'90. 6.19. 東映パレス



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>