『上意討ち 拝領妻始末』['67]
『武士道残酷物語』['63]
監督 小林正樹
監督 今井正

 高校時分の映画部の部長が主宰する合評会の課題作になったので、両作とも久しぶりに再見した。九年ぶりに観た『上意討ち 拝領妻始末』は、前に観たときの日誌と、思うところに殆ど違いはないのだけれども、森友事件での赤木ファイル以前と以後では、一段と違ってくるように感じられた。

 僕が子どもの時分には普通に流通していた「すまじきものは宮仕え」という言葉をバブル期以降、バブル崩壊後の平成不況の時代も通じて、さっぱり聞くことがなくなっていたような気がする。ところが、前首相政権下の森友事件以降、国家公務員上級職受験者が激減したり、若手官僚の中途退職が目立ち始めるなかで官界において顕著になり、改めて甦ってきているように感じる。

 十九歳で五十路の藩主(松村達雄)の側室に上がり、御世継第二位の男子を産みながら二年で拝領妻に下され、二年を経て女児とみを産んだばかりだったから、市は二十三歳ということになるわけだが、その割には貫禄があるというか薹が立っているように感じて、司葉子の生年を確認してみたら、'34年生まれとのこと。三十三歳だったのなら納得だと言ったら、選者の映友から何故に司葉子、これだけが疑問だった。栗原小巻か酒井和歌子ならそう見えたのでは、と感じた。との反応があった。酒井和歌子だと当時、十代だから、さすがに少々若過ぎだし、市のキャラクターではないようにも思ったが、当時、二十二歳の栗原小巻だったら、嵌り役になったかもしれない。

 また、メンバーの映友女性からは最後の三船さんの派手な立ち回りは、あんなにも大袈裟に必要なの? 時代劇だから、見せなきゃいけないのかなぁ、と思った。との意見をもらったが、これについては、興行的にも作品的にも欠くことのできない重要な部分だと僕は思っている。

 やはり笹原家に土足で踏み込んだ外記(神山繫)と馬廻組の組頭(山形勲)の二人には、死んでもらわないと話の仕舞がつかないと返事をすると、差し向けた藩主と家老(三島雅夫)が生き延びては「悪い奴ほどよく眠る…ぬくぬく…ヤだなぁ。」とのことだった。だが、藩主と家老は笹原の屋敷に足を踏み入れていない、換言すれば、屋敷【心】に入ってきて土足で踏みにじる言辞を弄した当事者ではない。悪計悪行の黒幕ではあっても、面前で嬲ったのは外記と組頭の二人だった。物語的にも、悪計悪行の本丸を成敗してしまうと、安直に観る側にカタルシスを与えてしまって、尾を引かなくなるところが不味いような気がする。死んでいった三人と同じは無理でも、やはり無念を引き摺って家路につかせないといけない話だ。

 そこからすれば、人としての筋目も政道としての筋目もわきまえない恣意と保身のための忖度しか露わにしない反知性主義の藩主や重臣たちと違って、役目と筋目を己がアイデンティティとしていた伊三郎(三船敏郎)と帯刀(仲代達矢)が、それ故に心ならずも剣を交えて戦うことになるというだけでは仕舞がつかない。屋敷では、外記しか斬っていないというか、刺し抜いておらず、馬廻組の組頭を仕留めたのは、鬼神ケ原だった。

 だが、そのこと以上に重要なのは、会津藩の不始末を江戸で知らしめる伊三郎の執念は無念に終わっても、彼が上意討ちを企図した拝領妻始末がきちんと伝わり残っていることだと思う。この作品は「それは乳母(市原悦子)から伊三郎の孫娘とみに継がれたからであろう」となってこその物語だという気がする。覚悟を決めた伊三郎がなにもかもを最後に成し遂げるのではなく、あれだけ思いの詰まった一念は、一見潰えて破れたように見えても、しっかりと後世まで伝わっていることが大事なのだ。それが、「与五郎と市の想いも加わっての三人掛かりで来られたら太刀打ちの仕様がない」と帯刀のぼやいていた笹原親子の一念ということではなかろうか。たとえ伊三郎を撃ち殺しても、その一念までは葬ることが出来なかったという“拝領妻始末”だったと僕は思っている。だから最後の三船さんの派手な立ち回りは、あんなにも大袈裟に必要なのだということになる。

 それにしても、本当によく出来た脚本だった。伊三郎、与五郎(加藤剛)、市、それぞれがもうここで引こうとした時がありながら、それぞれズレていて、けっきょく互いに牽制効果をもたらして、とことん行き切ってしまうことになり、散っていったわけだが、あながちそれが悲劇とばかりも言えないような裏腹構造に、伊三郎の言う「それぞれの生き方」のようなものがあって、なかなか深みのある作品だと思った。


 十三年ぶりの再見となった『武士道残酷物語』も『上意討ち 拝領妻始末』同様に僕の受け止めは当時と殆ど変わらなかったが、同じように今のほうが、よりアクチュアルに感じられる映画だった。十三年前当時の映画日誌強き上の者を憚り懼れて隷属し、弱き下の者を虐げて怯むところのない、醜悪を以て美学とする倒錯と記した部分が当時よりも遥かに現実的な形で顕著になって、当時、武士道にかこつけて愛国心称揚に励んでいた勢力の思う壺のような世の中になってきていることが、今の官僚たちの姿に現れているように感じられてならないからだろう。少し前までは復古的に礼讃する輩は概ね…エスタブリッシュメント層だったのだが、近頃は…被虐の系譜を受け継いでいる仕える側にも、顕著な復古的傾向が窺えるようになってきている気がする。とかつて記したことの帰結が今の有様なのだと思わずにいられない。

 自殺未遂にまで至った杏子(三田佳子)にほだされて、戦後高度成長期の進(中村錦之助)が会社上司の部長(西村晃)の意向に逆らった結婚の決意を固める場面で終わっていたが、その程度のことで、この負の連鎖を断てるとも思えず、天明期の修蔵(中村錦之助)が腹に据えかねて藩主掘安高(江原真二郎)に諫言に出向いたことと大差ないような気がしてならなかった。飯倉修蔵が、却って最悪とも言うべき酷い目に遭ったような顚末を、被虐の系譜の末裔たる進は味わうことになるとの予見を払拭できるような終わり方ではなかったような気がする。

 なにせ赤木ファイルを遺した職員が自殺に追いやられたのは、特攻隊に散った兄修(中村錦之助)や進の生きた昭和も過ぎた平成の末期であり、その“上意討ち”ファイルに係る事の始末は、拝領妻の件と違って、令和になってもまだ露わにされていないのが、“武士道”とやらを称揚する輩が威勢のいい我が国の現状なのだから、六十年前の進の時点で転換できているわけがない。もはや堀家が主君ではなくなった明治期の日清戦争で後に戦死したとの進吾(中村錦之助)にあって、衰弱した老高啓(加藤嘉)の求めを断れずに、将来を約した恋人ふじ(丘さとみ)に夜伽に上がるよう頼み込み、「あなたという人は…」と絶句される始末だったことを思わずにいられなかった。加藤嘉の老醜演技がなかなかのものだった。
by ヤマ

'21. 9.12. DVD観賞
'21. 9.14. DVD観賞



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