『ある画家の数奇な運命』(Werk Ohne Autor)['18]
監督・脚本 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク

 三十年前に僕も開館業務に携わった高知県立美術館にも収蔵作品のある現代美術界の巨匠ゲルハルト・リヒターの半生を素材にした三時間を超える大作だった。

 その美術館で四半世紀前に「芸術の危機-ヒトラーと退廃美術-」と題して企画展を開催したこともあるジョージ・グロスやモンドリアン、カンディンスキーらの作品を映し出した“1937年の退廃美術展”から始まり、最近はカラーチャートに関心があると語る三十代半ばで終える物語だったから、作品的にはフォトペインティングで脚光を浴びるまでの姿が描かれていたことになる。名前からしてクルト・バーナート(トム・シリング)に変えてあるのだから、ゲルハルト・リヒターの伝記映画というわけではないものの、一人の作家の誕生を巡る“数奇な運命”を描いたドラマとして、非常に観応えがあった。また、画家の半生を描くに相応しい画面と色合いの美しさにも大いに惹かれた。

 原題は、どうやら字幕でも映し出された作者なき作品ということのようだが、名も無き素人の撮った写真や新聞に掲載された報道写真をカンバスに模写するという、画家としての作家性を敢えて捨てたようなところで作品化するスタイルというのは、東独の美術学校時代の教授がイッヒ(我)、イッヒ(我)、イッヒ(我)!と嘆息するほどに我執の強かったクルトからすれば、画期的とも言うべきブレイクスルーだったということなのだろう。

 ただ単に存在するランダムな6つの数字それ自体に意味はなくても、それがロトの当たり番号なら意味を持つとクルトが言っていたように、単に存在しているだけではさしたる意味を持っていない写真が、クルトの手によってカンバスに転写されると、ロトの当選番号ほどに意味を持つ作品になっていたことに驚いた。とりわけ幼時のクルトと叔母エリザベト(ザスキア・ローゼンダール)を偲ばせる絵に惹かれた。そして、幼いクルトの指さす先にクルトの義父にして、ナチスの優性思想に加担した産科医カール・ゼーバント教授(セバスチャン・コッホ)が映し出されるショットのイメージ喚起力に唸らされた。ある意味、怪物的なまでにタフなゼーバント教授が眩暈を起こすほどに、絵画には力が宿り得るというわけだ。

 また、写真は絵画と違って真実を写すと語っていたクルトの真実は全て美しいとの言葉に相応しく、階段に立つ妻エリザベト(パウラ・ベーア)の裸身の美しさには格別のものがあり、下半身の淡い茂みに透けていた縦に割れた筋目にも無粋な暈しを掛けていなかった画面に感じ入るものがあった。映倫も大人になったものだ。

 監督・脚本のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは、十四年前に観た善き人のためのソナタにも感銘を受けたが、本作もなかなかのものだと思った。十年前に観た前作『ツーリスト』は、あまり冴えない映画だったような気がするが、次作が少し楽しみになった。
by ヤマ

'21.10.27. 美術館ホール



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