| |||||
『小さな巨人』(Little Big Man)['70] 『ソルジャー・ブルー』(Soldier Blue)['70] | |||||
監督 アーサー・ペン 監督 ラルフ・ネルソン | |||||
先に観たのは、『小さな巨人』。名のみぞ知る長年の宿題映画だったのだが、思っていた以上に面白かった。ジャコ・ヴァン・ドルマルの『ミスター・ノーバディ』['09]を想起したが、先立つこと三十九年。実に大したものだと大いに感心した。 軽く“ジェノサイド”という言葉を使って、白人と先住民の歴史への知ったかぶりをしつつ、自分が関心があるのは当時の先住民の暮らしだなどと賢しらぶったインタビュアーの口を遮り、「(レコーダーの)スイッチを入れろ(=黙って儂の話を聴け)」と話し始め、111年前にインディアンの襲撃を受けて十歳で孤児になったと語る男(ダスティン・ホフマン)の名乗った、ジャック・クラブとの名前からして、語りのなかで印象深い人物像を残して登場するワイルド・ビル・ヒコック(ジェフ・コーリイ)の愛好していたカードゲームのクラブのジャックから取っているのではないかという気がしてくる物語だった。養父として育ててくれたというシャイアン族の族長“テントの皮”(チーフ・ダン・ジョージ)が付けてくれた“小さな巨人”との名も、もしかするとリトル・ビッグホーンの戦いから取ったのかもしれないとすら思うほどに、虚々実々の波乱万丈で奇想天外な物語がまことしやかに語られていた。 老いた男がそこで語りたかったことというのは、ジェノサイドに限らず、歴史や人の営みというものは、一言で括ることのできない、とても一筋縄ではいかない様々な相貌を持ったものだということなのだろう。加えて、自分が最も教えを受け、変転する己が人生の節々において常に立ち返る拠り所だった養父の言葉を残したかったということのような気がした。 男の語るジャックの人生は、インタビュアーの話に反して、いきなりインディアン側の皆殺し劇から始まり、ポーニー族は野蛮だが、シャイアン族は違うと前置きをする。先住民もインディアンで一括りにはできないというわけだ。そして、牧師の妻ペンドレイク夫人(フェイ・ダナウェイ)の見掛けと違う淫蕩ぶりが語られ、ペテン師稼業の男(マーチン・バルサム)との旅が語られる。 インディアンだけが“にんげん”であって、白人や黒い白人は異なる生き物だと語る養父に対して、信に足る憧れの立派な白人としてカスター将軍(リチャード・マリガン)の名を挙げていたジャックが、かのリトル・ビッグホーンの戦いでは、将軍の依怙地で思い込みの強い気質を知悉したうえで、第七騎兵隊全滅に繋がる致命的な作戦誤りを強行させる一助を意図的に担う話になっていた。その変心には、カスターから、自身の決定を覆して処刑するに足るほどの命ではないとの扱いを受けてジャックがひどく傷む場面が効いているわけだが、そこには、序盤のシャイアン族に育てられた少年時代に“生涯の宿敵”となったと零す“若い熊”が感じてきた恥辱が重なる形になっていたように思う。そして、“小さな巨人”と“若い熊”がそうだったように、観ようによっては互いに窮地を救い合っているようにも映る関係の裏にある一筋縄ではいかない感情のもつれや敵意と利用の仄めかしているものに深みを覚えた。人ひとりの人物像でも二人の人間関係においてすらそうなのだ。ましてや史実たるものや証言なるものの捉え難さは、生半可なものではないということだ。 また、半世紀前の西部劇において、異色ものとはいえ、シャイアン族のLGBTをジャックの幼馴染として重要な位置づけで配してあったことも目を惹いた。名うてのガンマンで、かつて再会した姉キャロライン(キャロル・アンドロスキー)がジャックの射撃センスのよさに引いた、ワイルド・ビル・ヒコックの今わの際の言葉が「妻にはルルのことを黙っていてくれ」だったりすることも、娼婦ルルがペンドレイク夫人の成れの果てであること以上に、一筋縄ではいかない人の営みということが投影されていた気がしてならない。 そしてまた、このジャックを名乗る男の証言なるものの事実性そのものが、ほとんど検証の余地のないものばかりで成り立っていて、なおかつ迫真性だけはあるといった如何にもなものになっているところに唸らされた。リトル・ビッグホーンの戦いに限った話であろうはずがないということだ。背後に豊かで大きな知性を感じさせる壮大なドラマになっていたように思う。 三日後に観た『ソルジャー・ブルー』は、公開時に観て以来の半世紀ぶりの再見になる。西部劇を愛好していたのに、劇場で観る機会がほとんど得られなくなっていたときに勇んで観に行って、ひどく衝撃を受けた記憶のある作品だ。小学六年の時分だと思っていたが、日本公開時からすると中学一年の終わりか中二の春だったようだ。 1968年の大学紛争で無抵抗の学生たちに対する警官隊突入による暴力的な排除を描いていた同年作品の『いちご白書』で主題歌の♪サークル・ゲーム♪を歌っていたネイティヴ・アメリカンのシンガーソングライター、バフィ・セント・メリーが「…This is my countory…」と歌うオープニングを観ながら、幾度となく聴いているこの歌は、この光景とともに聴くのが一番だと改めて思った。 ちょうど『小さな巨人』でダスティン・ホフマンの演じた男と同じように、白人と先住民の両方の世界と生活を知る人物が本作では女性だったわけだが、キャンディス・バーゲンの演じたクレスタ・リーがこれほど異彩を放っているとは思い掛けなかった。小綺麗な衣装に身を包みながらも野趣を漂わせた登場もさることながら、あっけらかんと先住民シャイアンの族長まだら狼(ジョージ・リベロ)の妻だったと、白人の婚約者の元に旅する道中にて初心で純朴な青年騎兵隊員ホーナス(ピーター・ストラウス)に話し、嗜みとして身に付ける窮屈な下着を自ら脱ぎ捨て、彼の眼前でゲップをして呆れられたり、野宿の夜の寒さを凌ぐために身を寄せ合って眠ることを厭わない自然で合理的な先住民のライフスタイルのみならず精神をも理解し身に付け、白人社会のジェンダーなど軽やかに超越している一方で、性的対象としてしか見ない白人男の女性への向い方に敏感な女性意識にも目覚めている“生きる力に富んだ逞しい女性”だった。赤い布地をざっくり裂いて仕立てた、野趣に似合った緩く小綺麗な軽装に身を包んだ変身に一言も触れないホーナスに対して「女の扱い方をまるで知らない」と呆れていたクレスタ・リーの台詞は、彼女が女性性を拒んでいるのではないことを明確に示すとともに、ホーナスのゲップとの呆れの対照が効いていて、なかなかいい場面だったし、その赤い衣装のまま後ろ手に縛られた者同士で結び目を解くべく歯噛みする場面が可笑しく、艶やかだった。 それなのに、半世紀前の十代前半での観賞時に彼女がさして強い印象を残していなかったのは、当時の僕の歳からして已む無い面もあろうが、それ以上に、最後の騎兵隊による大砲の連発から始まる先住民集落の襲撃場面が強烈だったからなのだろう。まだら狼が白旗とともに掲げてきた大きな星条旗を投げ捨てずにはいられない問答無用の攻撃を仕掛けたアイバーソン大佐(ジョン・アンダーソン)率いる大部隊が、その星条旗を踏みつけて襲いかかるカットが効いていたのだが、半世紀ぶりに再見して思いのほか短時間の場面だったことに驚いた。もっと延々と虐殺場面が繰り広げられていたような印象がある。砲撃を止めて集落に乗り込んだ先陣が真っ先に少女の首を疾走する馬上から刎ね飛ばした場面から暴虐が始まった覚えはあったのだが、集団強姦しながら先住民女性の乳房を切り取った場面は、僕の記憶のなかでは、その断面さえも画面に映し出していたけれども、今回の再見では乳房の下に刃を当て切り取り始めて、血が流れだすところまでだった。 あまりの惨状に「やめろ、やめろ」と訴えながら集落を彷徨っているホーナスを観て、「狂ったな」と評していたアイバーソン大佐の台詞が痛烈だった。正気と狂気の線引きは集団のなかでは多数派か否かによって決められることは人の集団に付きまとうもので、小集団での正気や正義が、より大きな集団で狂気や悪になったり、その逆が起こったりするのは古今東西、尽きない話だ。白人・先住民それぞれの正義や正気の双方に身を以て触れて来たクレスタ・リーや、彼女とともに生死を彷徨う道行きを重ねるなかで相対した自然と彼女を通じてその感覚を知ったホーナスが多勢無勢ではない真理に辿り着いている姿が、その無力さとともに、とても印象深かった。 また、半世紀前に観たときの記憶では只管、騎兵隊側の問答無用の非道を描いていた印象だったのだが、再見してみると、シャイアン族のほうも無為無策だったわけではなく、武器調達資金を入手するために自分たちの生活には必要のないカネを奪う目的で騎兵隊給与の輸送馬車を襲撃したり、先住民が何故カネを持っているかには目を瞑って商売欲を満たすために彼らに大量の銃を売る武器商人カンバー(ドナルド・プレザンス)の姿も描き出されていたことが目を惹いた。現代のテロを思うまでもなく、武器なるものが存在するから惨劇が繰り広げられるのであり、威力ある武器ほど始末が悪いのに、それでもって儲けることを産業として称揚することに強い抵抗感がある僕は、映画などでさえ武器商人を真正面から取り上げた作品がほとんどなくて、直ちに思い浮かぶ映画が十五年ほど前に観た『ロード・オブ・ウォー』くらいだったりすることが不満で仕方がないので、本作に武器商人が描かれ、ホーナスの手によって炎上させられる場面があることに大いに快哉を挙げた。 それでも、映画作品としての厚みは『小さな巨人』のほうが上回っているように感じたのは、同作には『許されざる者』['93]の映画日誌に記したような「何が真実なのかは容易には判らない」一筋縄ではいかない現実の測り難さへの気づきの促しが込められていたからだろう。史実に基づくと触れこまれた本作でも、元となった1864年のサンドクリークの虐殺から後となる1876年のリトル・ビッグホーンの戦いでのカスター将軍の話を映画の序盤に持ち出していたように思うから、明らかに意図的な騙りが施されているわけだが、よもやそれを以て気付きへの促しが込められているとは見做しにくいような気がする。 ただ、観ようによっては、まだら狼が示した白旗と星条旗は、資金強奪には成功したものの肝心の武器調達にはしくじったからのものであって、彼が口にしていたような平和主義によるものではなく、他方でアイバーソン大佐が語っていたように、給与強奪に際して21人もの騎兵隊士の命が奪われている経過が抜かりなく施されてもいたわけで、そのことを気づきへの促しとみるか、騎兵隊による先住民の殺戮を映画にするうえでのイクスキューズと観るかもまた、なかなか測り難いところのように感じた。奴隷解放を掲げて戦った北軍兵士が同じソルジャー・ブルーの軍服を着たまま先住民虐殺に耽るなかでの南北戦争における奴隷解放とは何だったのか、ということでもあるのだろう。ともあれ、実に味わい深い組み合わせの二作だったように思う。 参照テクスト:手塚治虫 著『シュマリ』(上・中・下)を読んで *『ソルジャー・ブルー』 推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4041664779266408/ | |||||
by ヤマ '21.11. 8. DVD観賞 '21.11.11. DVD観賞 | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|