『クロニクル』(Chronicle)
『いちご白書』(The Strawberry Statement)['70]
監督 ジョシュ・トランク
監督 スチュアート・ハグマン


 いかにも素人っぽく揺れる手持ちカメラの画面に『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』['99](未見)とか『パラノーマル・アクティヴィティ』['07~'12](どれか観た気も)のようなチープさを覚悟しつつ観始めたからか、『クロニクル』は思いのほか面白くて、大いに感心した。

 未熟な者が破格の力を手にすると碌なことにならないのは、人類レベルでも個人レベルでも同じで始末に困るのだが、マット(アレックス・ラッセル)が今後の贖罪も含め、何とか始末をつけようとしている真っ当な姿に映画としての収まりの良さがあったように思う。

 何と言っても、バカに鋏そのもののようなアンドリュー(デイン・デハーン)の幼稚で未熟なるが故の悪質ぶりが生々しく、現実感があって見事だ。スティーヴ(マイケル・B・ジョーダン)の事故がなければ、アンドリューもあそこまで壊れなかったろうにと思うだに、分不相応な力を手にすることの危険性というか諸刃の剣ぶりが際立つ。

 超能力を身につけたことに気づいた三人が集まってサイコキネシスの練習や悪戯に耽る過程や、自らを対象にすることによる舞空術の習熟のなかで見せていた“ドラゴンボールZを想起させるような画面展開”などに、意外なほど現実感があって、大いに気に入った。おっかなびっくりのはしゃぎようが実に愉快だ。

 そして、いかにも低予算を感じさせる画面には似合わない特撮場面への力の入れように、何だか嬉しくなるような熱意を感じさせてもらって大満足だったのだが、年代記というタイトルの示すものについて考えると、ふとクリプトン星人ならぬ地球人のスーパーマンとしてのマットの年代記の始まりを意味するものなのかもしれないなどと思った。

 だが、本作以上に“クロニクル”を強く感じたのは、一週間程して観た『いちご白書』['70]のほうだった。その名は知れど観る機会に出会わなかった作品で、今回、初めて観たのだが、もう随分前に読んだ『アメリカ「60年代」への旅』(越智道雄:朝日選書350)でも取り上げられていたコロンビア大学紛争を捉えたアメリカン・クロニクルのようだと思った。

 物語を綴るのではなく、時代の気分を掬い取ろうとした作品なのだろう。学生運動に参画していった者の皆人がポリティカルで意志的であったわけでは決してないことを的確に描きつつ、それでも最後の警官隊突入場面では全員が一糸乱れず円陣になって蹲り、非暴力の抵抗としてジョン・レノンの『平和を我等に』を歌っていた。その姿はなかなか劇的だったのだが、そんな奇跡的な出来事が、1968年の実際のコロンビア大学紛争でも起こったのだろうか。

 まさしく「規律正しさ」というものを絵にしたようなボート漕ぎの映像に続いて、それとは対照的な「規律からのはみ出し」のような乱雑さを感じさせるシャワー室になり、その後もしばらく規律性と非規律性の対照イメージが続く洒落たセンスにちょっと感心していたら、どんどんダラけていったのが残念だった。

 それはともかく「ロバート・ケネディって本当に人気があったんだなぁ」とか、「シャロン・テート事件は、この年だったのか」とか、体制派ではなく、あくまで反・反体制派というべき学生群の姿とか、まだ10歳で当時の時代の空気そのものを肌で知るとは言えない小僧だった僕には、知ってるようで知らない、知らないようで知っているような変な感じの気分を催してくる、妙に落ち着きの悪い作品だった。少なくとも“『いちご白書』をもう一度”見たくなるような同時代感は湧いて来なかったのだが、本作中でも言及される「いちご」というのが、甘っちょろい共産主義というニュアンスだったことに初めて思いが至り、なかなか上手いタイトルだと感心した。

 バフィ・セント・メリーの歌う主題歌サークル・ゲームは前から知っていたのだが、字幕で“回転木馬”と訳されていて唖然とした。そういうイメージでは全く聴いていなかったので、少し混乱してしまった。




*『クロニクル』
推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-d3c0.html
推薦テクスト:「雲の上を真夜中が通る」より
http://mina821.hatenablog.com/entry/2013/10/24/184825
by ヤマ

'13.10.14. TOHOシネマズ8
'13.10.20. D V D 観 賞



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>