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『海辺の映画館―キネマの玉手箱』 | |||||
監督 大林宣彦
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オープニング・クレジットには、ラビリンスともあったように、玉手箱と言うよりも迷宮といった按配の「日本の戦争映画大特集」絵巻だった。成海璃子が中野竹子を演じていた会津の娘子隊の件を除き、本作の絵巻に描かれた戦争の悲劇は概ね既知のものばかりであったが、悲劇では済まない非道に踏み込んで描いていた沖縄戦にまつわる部分が印象深かった。『証言 沖縄スパイ戦史』(三上智恵 著)にあった以上の“日本軍による住民虐殺の悪辣”を劇的に挿入していて驚いた。 沖縄から出征してきた伊良波承栄(細山田隆人)が「僕には殺せない」と言って逃げ出す、磔にした中国人を生きたまま銃剣で突き刺す訓練の場面には、小林正樹監督の『人間の條件』['59-'61]を想起させるものがあったように思う。また、ヒロシマで原爆に見舞われた移動演劇劇団「桜隊」をフィーチャーしていたことも目を惹いた。新藤兼人監督による『さくら隊散る』['88]を僕が観たのは、12年前のことだが、ドキュメンタリーとしての証言の言葉とともに再現ドラマとして描かれるから、何とも生々しくて迫ってくるものがあった覚えがある。 作中に「純文学」とのクレジットもあり、中原中也の詩が頻繁に引用されていたが、スタイル的には如何にもな大林調であって、“純文学的香気”とは程遠いキッチュな画面が繰り広げられる。遺作となった本作には、フィルモグラフィの最初にクレジットされる『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』['66]以上に“映画に捧げるオマージュ”が溢れ、商業映画デビュー作の『HOUSE ハウス』['77]に刻んだベヒシュタインのピアノやら金魚やらが、お約束どおりに画面を彩る。そういう意味では、大林監督の真骨頂を貫いていると言える一方で、五社英雄監督とともに“脱がせ屋”の異名を取った往年の作品群からすれば、肌色の全身タイツを着せていたり、バストトップにぼかしをかけて映し出しているのは少々見苦しく、そのような映し方をするくらいなら画面に出さない撮り方を工夫するほうがいいのではないかと思えるほどの取って付けた感をもたらしているように感じた。 全体的には、果たして3時間の長尺が必要だったのかと思えるような凝った構成を以て、玉手箱だとかラビリンスだとかいうふうな愉しみ方をするには至らなかったものの、からくも戦時を体験している世代として、戦争を知らない後世代の日本人に、戦争という絶対悪の引き起こす出来事を伝え残したい思いが溢れていて、なおかつそれを面白く観られるものとして提示したい意欲が満々で、やはり流石だなと思った。しかも、戦争の悲惨を描くこと以上に、その前触れとしての国家主義の台頭への注意喚起を中也の引用によって企図しているところが非常に重要だという気がする。 晩年の黒澤明監督が昭和を終えた時代に『夢』['90]や『八月の狂詩曲』['91]において込めていた遺言的警世や第2次安倍政権がまだ始まる前の新藤兼人監督の遺作『一枚のハガキ』['11]などとは、およそ次元の違う危機感に彩られていたような気がしてならない。 推薦テクスト:「チネチッタ高知」より https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/20091001/ | |||||
by ヤマ '20. 9. 6. TOHOシネマズ8 | |||||
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