『HOUSE ハウス』['77]
『エスパイ』['74]
監督 大林宣彦
監督 福田純

 一週間程前に大林宣彦監督の転校生['82]を観た余波で、未見だった監督デビュー作『HOUSE ハウス』を観賞した。思いのほか面白かった。カラフルでキッチュな画面が活き活きしていて、いま観ても、とても瑞々しく感じた。イメージ先行で能書きのない遊び心と趣味性に走った伸びやかさが取り柄だと思う。筋立てはホラーでも何だかホラーらしくない、キラキラした“ブリリアント・ホラー”だ。

 のっけから、女子高生の娘をお姫様だっこするような父親(笹沢佐保)がいるものかと思うような非現実感に包まれて始まった物語は、東京駅の「故郷方面乗り場」などというオカシナ乗車口から、オシャレ(池上季実子)の伯母(南田洋子)の住む田舎の屋敷に着いて、まさに留まるところを知らない奇天烈ワールド に突入していく。

 自主映画的な趣味性を前面に押し出した画面作りにニマニマしながら観ていたら、かなり唐突に池上季実子が、まだ後年ほどに熟していない乳房を覗かせる入浴場面になり、大林監督の本領が窺えた感じがして可笑しかった。それでいて着物姿になったときは、けっこう大人びた風情を漂わせていて、ファンタ(大場久美子)を抱きかかえた態勢で乳房を覗かせていたときには、いくぶん母性すら漂わせていて感心した。

 それにしても、バブル期のディスコにあったような透明ガラスのお立ち台で踊っている女の子を台の下からスカートの内を覗く形で撮ったようなカットや、カラー処理を施しつつも、ガリ(松原愛)に水中でのフルヌードに映るアクションをさせたり、クンフー(神保美喜)の美脚を存分に愛でたり、もうやりたい放題という感じだったが、能書きがちらつく作品群より断然いい。

 ベヒシュタインのピアノやら、金魚やら、後の作品においても繰り返された気のするシンボリックな小物もいろいろ登場して、大林映画の原点に相応しい作品だ。思えば、劇場第1作から赤紙やら出征の場面もあったというわけだ。

 四十三年前の映画だから、当然ながら皆、若い。オシャレたちが汽車に乗り込む場面で、出入り口のドアのところでグズグズしていた男女のうちの男は大林監督だと思われるが、まだ、細身で若々しく、見慣れている姿とまるで違っていた。ファンタを演じていた大場久美子は、このとき幾つだったのだろう。檀ふみも三浦友和も、まだ二十代前半だったのではなかろうか。そして、三十路に入ったばかりと思しき鰐淵晴子が、実に美しかった。

 また、助監督に小栗康平の名をエンドロールで見つけて意外に思った。全然タイプが違うので、大林側の要請だったのか、東宝側のオファーだったのか、興味深いところだが、なんとなく僕は、東宝サイドに社内から宛がう助監督がいなくて、外部調達して大林に宛がったような気がしている。ところが、ネットの映友から、彼の助監督歴に山本迪夫監督の『血を吸う薔薇』['74]という作品があると教わった。日本版『サスペリア』みたいな感じで面白く、田中邦衛や伊藤雄之助など、ゲストも豪華だとのことだ。ネットで探して予告編を観たら、確かに面白そうだが、薔薇ではなく「血を吸う森」じゃないかと可笑しかった。


 大林監督の『HOUSE ハウス』で池上季実子を観ていたら、何年か前に先輩映友から託されていた『エスパイ』のことを思い出し、今頃になってDVD観賞してみた。噂のマリア(由美かおる)の踊りの場面は、確かに悩ましく、大いに魅せられた。一世を風靡した同棲時代 今日子と次郎['73]の翌年の作品だから、『HOUSE ハウス』の当時18歳だった池上季実子とは違い、見事な美乳でもあった。

 しかし、強力な催淫麻酔とは何だったのだろう。作中では名前も告げられていたが、馴染みがなく覚えていない。興奮と麻痺というアンビバレントな作用を強力に発揮することのできるクスリが本当にあるとは思えない気がするが、本作自体がエスパーとスパイを配合した“エスパイ”の話なのだから、何でもアリとしたものだろう。

 テレパシーを遠感と記し、サイコキネシスを念動力と言い、テレポートではなくテレポテイションと呼んでいる時代の超能力ものなのだが、超能力の件はさておいても、ストーリー展開、演出、音楽の余りにものチープさに頭を抱えてしまった。エスパイのエース格とされているのに全くの役立たずの田村(藤岡弘)やら、法条支部長(加山雄三)の悠然とした盆暗ぶりと「え、なんでそれ知ってるの?」に、呆れるやら笑うやら…。

 巨悪エスパーたるウルロフ(若山富三郎)の思惑の訳の分からなさに唖然とし、超能力者が最後に頼りにしているのが警察犬と運だったりしていることに、これはもう突っ込まれを狙って作っているとしか思えなくなっていた。囚われの身となって辱められたトラウマに打ちひしがれているマリアを慰める田村の「お互い、明日を考えようじゃないか」とか、同じく田村の「シーザー(犬)が真っ直ぐ走っていく姿を観ているうちに初めてわかった。 愛だ!それがあらゆる超能力の源なんだ!」など、笑うなと言うほうが無理だと思う。ご丁寧にも炎に包まれたウルロフの断末魔の呻きまで「愛か!愛ゆえの超能力か」だった。

 役者については、もちろん由美かおるは言うまでもなく、藤岡弘も草刈正雄も、なかなかいい顔見せていたのだが、映画作品としては、おバカ映画のはしりとも言えそうな造りだったように思う。原作小説をめちゃくちゃにした脚本だと謗られたりもしているらしいのだが、仄聞するところによると、未読の小松左京の原作小説では、かのマリアの踊る場面は、異国の怪しげなクラブでのダンスなどではなく、ストリップ小屋での生板本番ショーで、田村のサイコキネシスでちぎられたのも、マリアの口に差し込まれた舌ではなく、下の口に挿し込まれた男性器なのだそうだ。原作どおりでは、とても由美かおるにオファーできそうにない。あの時代に剛腕でならした五社英雄でも、おだてて乗せるのが巧みだったらしい大林監督でも、さすがにできなかったに違いない。
by ヤマ

'20. 6.12. DVD観賞
'20. 6.15. DVD観賞


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