『何者』
監督 三浦大輔

 会社訪問とかスーツとかが嫌でろくに就活をしなかった四十年近く前の自分の就職時のお粗末で不遜な身の処し方を思い出すだに、今の時代に巡り合わなくてよかったと思う。なかなかスリリングな作品で、ストレスフルな状況の描出と人物造形の巧妙さに唸らされた。

 それにしても、今どきの若者の就活は、本当に大変だなと嘆息した。いまの僕が、気に沿わぬ同調圧力に抵抗して続けている携帯不所持といった“贅沢”なぞ、とうてい許容されない状況を生きているわけだ。翻って我が身は、ほとんど行き当たりばったりの成り行き任せで生きてきて、さしたる苦にも行き当たらず、ろくに難儀な思いもせぬままに還暦を迎えつつある。そのようななか、こういう作品を観ると、改めて若い時になど金輪際戻りたくないものだと思ったりするのは、大人の見る繪本 生れてはみたけれど』['32]の映画日誌にも綴ってあるところだ。

 このような作品の常道として、観客の誰しもが登場人物の誰かに対して最も自分に近い存在として受け止めつつ、他の人物たちの見せる諸要素に対して、自分のなかにも同じようなものがあることに思い当たるような人物造形を試みるとしたものだが、そのあたりが非常によくできている気がした。

 僕自身が最も近いのは、チラシに冷静分析系と記された二宮拓人(佐藤健)だという気がする。天真爛漫系と記されていた神谷光太郎(菅田将暉)の楽天性や地道素直系の田名部瑞月(有村架純)的な現実の引き受けにも思い当たるところがある。だが、意識高い系と記された小早川理香(二階堂ふみ)のような技巧性とか鳥丸ギンジのような熱情をストレートに表現する生き方とは遠く、空想クリエイター系と記された宮本隆良(岡田将生)的な驕りには身につまされるものがあるといった感じだった。僕が最も近いと感じた拓人が主人公としてのポジションを与えられているのは、こういうキャラクターが最も標準的だからだろう。自分を振り返ると、己が驕りを反省して就活への処し方を改めることを拓人に宣言していた隆良になることはあっても、ギンジやサワ先輩(山田孝之)のような生き方は、もし若い時に戻ることができたとしても僕にはできそうにないし、本気でそうしたいとは思っていないようなところがある。

 おりしも職場のほうで義務付けられているストレスチェックをしてみたところ、週課のバドミントンの練習で身体の節々が痛かった部分をそのまま答えたことが影響したのか、「あなたのストレス反応の状態は普通より少し高めでした。」とのコメントがついていた。ご丁寧にも「しかし、仕事上でのストレスの原因となる因子については問題は見られませんでした。」と添えられていたのが可笑しく、しかも念入りに「あなたの仕事でのストレスの原因となりうる因子では、仕事の量的負担、質的負担、対人関係上のストレス、仕事のコントロール度、全てに問題はありませんでした。」とまで書かれていて失笑した。そのうえで「あなたの場合、活気が乏しいようです。」と書かれていて苦笑したのだが、あと一年少しで定年というなかで活気に満ちているのも却ってストレスのような気がしている。

 ともあれ、誰に内定が出て誰に出ないのか、また、内定の出る順番においても、非常に納得感のあるよく出来た作劇だったような気がする。そして、いかにも今時の若者らしい感じのフランクというか自己開示のスタイルとか、対人関係の取り方としてのジェントルというものの描出にも感心した。妙に納得感があったのだ。

 題名の「何者」がとても効いていて、SCOOP!の都城静が「何者かになりたかったけど、何者にもなれなかった」と言うような意味合いでの何者と、拓人が「何者」という別名のアカウントで書いていたような「何様」としての何者が両義的に作品の核心となっていた気がする。就活における何様の最たるものは企業側のような気がするが、就職戦線異状なしの頃は、同作に描かれていたように、間違いなく学生の側だった。自分自身が直接的に経験していなくても、その両者を垣間見て来た者の眼からすると、どちらの何者にも振り回されたくない気がする。

 最後に1分間では語れないと中途で止めた拓人の面接結果は、本作では描かれていなかったが、その後、拓人がどうしたかについては、僕は「何者」かになるための演劇ではない演劇人としての再スタートを始めたのではないかという気がしている。拓人に就活への処し方を改めることを宣言していた隆良とちょうど対照的になるという映画作品としての据わりの良さもあるし、何よりも本作中に登場していた劇中劇としての演劇シーンの辿ったベクトルがそちらを指していたような気がするからだ。

 本作の最後で明かされた「就活タッグ四人組が実は五年生だった」という事実が触発してくれたものが、とても強く響いてきたのだ。「そうか、そうだったのか」とそれまでに意味ありげに提示されていたものが一気に繋がってきてワクワクした。拓人にとっての大学四年生の重要ポイントは、言わばギンジへの裏切りだったのに、ギンジが拓人を待ち続けていたところにあるわけだ。

 演劇部に入った頃から、拓人はギンジと一緒にやってきて「将来は二人で劇団を立ち上げるんだ」と言っていたのに、冷静分析系の彼は、自分たちの力を冷静に分析して大学四年になる前に、演劇を捨てたのだろう。しかしギンジは、拓人に内定が出なかったから、自分の劇団を独立させながらも留年に付き合って待っていたような気がする。ところが、さっぱり戻ってこないばかりか、ツイッターだかラインで「頑張ってる実況なんか、サムイからやめろ」などという正にサムイことを言ってくる拓人にとうとう愛想をつかして、「大学も辞める、劇団プラネットも辞める」と言ってきたのではなかったのか。サワ先輩は、そういうギンジの事情を知っているから、拓人に公演を観に行けと言ったり、ギンジと隆良は全然違うぞと言ったりするばかりか、ギンジと似ているのはむしろ拓人お前だとまで言っていたのかと恐れ入った。

 劇中、拓人が就活のなかで体験した出来事を舞台化したものが何度か出てくるが、“頭のなかにあるうちはすべて傑作”と隆良に言う拓人の頭のなかにあったもので、ギンジと一緒に劇団プラネットで行った公演ではないし、ギンジが毒とビスケットで行った公演でもないはずだ。いくつか出てくるが、就活タッグ四人組のあれこれを舞台化していた時分は、いわば演劇部にいた名残りのようなものなのだろう。だが、ステージで涙しながら自己を語る演劇あたりから様相が変わってきていたことに、拓人たちが留年組だと知らされて気づいたのだった。しかも、その演劇は、オープニング場面とエンディングのハイライト場面で印象づけられていた1分間スピーチと呼応していて、ラストのスピーチ場面の直前あたりでも再度登場していた。そのうえで、拓人の就活面接での1分間スピーチとなるのだから、彼はもう一度、どうしようもない恥ずかしい出来栄えのギンジの芝居の世界に向かうことにしたのではないかと思わずにはいられなかった。

 拓人の裏アカウント名が本作のタイトルになっていることが暗示しているように、本作の裏主人公は、キャストにも名前の出なかった烏丸ギンジのような気がする。言うなれば、桐島、部活やめるってよの桐島のようなものだ。同じ朝井リョウ原作作品なればこその意匠だろう。なかなか上手くできている。



参照テクスト:掲示板談義編集再録


推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1956329097&owner_id=1095496
推薦テクスト:「ライ麦畑でぴ~ひゃらら」より
http://satumaimo-satoimo.blog.jp/archives/12320377.html

by ヤマ

'16.10.20. TOHOシネマズ6



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