『すれ違いのダイアリーズ』(The Teacher's Diary)
監督 ニティワット・タラトーン

 いかにも原作コミックがありそうな軽みとファンタジックな風味を漂わせていたが、二つの実話を元にした作品だとチラシに書かれていたから、相当に脚色しているのだろう。でも、男女間であれ、師弟間であれ、心の通いとはこういうことだよなと改めて心和ませてくれる気持ち良さが随処にあって、愉しかった。

 あざといまでに漫画的な運びながら、シラケて来ないのは画面の魅力のなせる業なのだろう。とりわけ一年の時を隔てたエーン先生(チャーマーン・ブンヤサック)とソーン先生(スクリット・ウィセートケーオ)の水上学校での日々を同時に収めた画面構成が見事で、ソーンがエーン先生の残した日記を読むことで、手首のタトゥー以外は顔も形も知らない女性教師に惹かれ、心に響く言葉に魅せられていく感じをとてもよく伝えていたように思う。上下左右に移動し、寄ったり引いたりすることのできるカメラの動きの特質を活かした映画ならではの描出だという気がする。もうひとつの君の名は。だったような気もしたが、僕はこちらのほうが仰々しくなくていい。

 そのようにメモしたまま、映画日誌にもしていなかったのだが、市民映画会で上映された『太陽のめざめ』と『ロイヤル・ナイト』の地元紙での紹介稿に「今回は、映画という表現における虚実の妙味を対照的な形で楽しめる作品が並んだ」と記して、“明らかに劇映画なのだが記録映画と見紛うような生々しい作品”と“明らかに史実に基づきながらもファンタジー作品と見紛うようなフィクショナルな映画”の併映の面白さに触れてみたら、何だか本作も日誌にしておきたくなってきた。湯を沸かすほどの熱い愛を観たことも作用しているかもしれない。

 映画においてリアリティというのは非常に重要な要素ではあるが、僕を含めて多くの人々が映画に求めているものは、日常的な現実そのものではなく、非日常としての映画世界のなかで感じ共振できるリアリティなのだと思う。そういう意味では荒唐無稽の絵空事のなかにもリアリティは必要なものだ。だから、リアリティとアクチュアリティとは異なるわけだが、ドキュメンタリーというのは、ジョン・グリアスンが1926年にフラハティの『モアナ』に対して使った造語であり、当時、このジャンルは「現実のアクチュアリティをクリエイティヴにドラマ化する映画」のことを意味していたと十五年前に聴いたレクチャーで西嶋憲生が語っていた“アクチュアリティ”の問題について、“シネ・ヌーヴォ”開館20周年記念パーティの二次会で『サード』における面会室での喫煙場面の取扱いについて東陽一監督との間でも話が盛り上がった。シグロの山上プロデューサーは、最近の映画はそうとも言えない気がするけれども、アクチュアリティに係る調査をスタッフワークとして徹底的にやるのが映画制作の現場ですよと話していた。そのうえでアクチュアルな演出にするかフィクショナルな演出にするか、いずれがリアリティの発現に効果的かを選択するのは監督の役割なのだろう。

 そのような観点からの映画表現を考えるとき、本作などは格好のテキストになるのではないかという気がする。史実に材を得た作品ながら、紹介稿にとても史実とは思えないことを御都合主義と指摘するのも気が引けるほどに当然のごとく展開させるので、思わず「そんなバカな」と笑わされてしまうと記した『ロイヤル・ナイト』以上に、本作は実話を基にした部分から自由に羽ばたくことで、まさにファンタジックなリアリティを得ているように思う。




推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dfn2005/Review/2016/kn2016_06.htm#03
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1952849936&owner_id=3700229
 
by ヤマ

'16.12.16. 美術館ホール



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