『君の名は。』
『言の葉の庭』['13]
監督 新海誠

 大ヒットのシン・ゴジラを凌駕する勢いでヒット中の『君の名は。』を観たときに、一応、都会暮らしも田舎暮らしも経験している僕としては、その両方ともの風景・事物を実に美しく捉えた画面には観惚れたものの、ふだん見かけないほど客足の伸びている劇場の様子に対して、本作のどこにそれだけの訴求力があったのだろうと少々訝しく感じた。

 これなら、十年前に観て、その年のマイベストテンの邦画1位に選出した秒速5センチメートル['07]のほうが数段いいように感じたのだ。『星を追う子ども』['11]を観たときにも感じたことだが、どうも僕は不思議系の話が少々苦手なのかもしれない。とはいえ、『星を追う子ども』は、ファンタジー系苦手な僕としては、思いのほか楽しめた覚えがある。いずれの作とも、ある種の想いの強さというものの美を掬い取っていたわけだが、本作は『秒速5センチメートル』から十年近くの時を隔てて、作劇がえらく仰々しくなって興を削いでいる部分があるように感じた。

 それにしても、瀧(声:神木隆之介)と三葉(声:上白石萌音)の因縁は、どこから生まれたのだろう。今ひとつ釈然としなかった。奥寺先輩(声:長澤まさみ)のキャラはなかなか魅力的だったのだが、物語の焦点はそこにはないのだから仕方がない。

 そんななか、映画の好きな友人から教えてもらって、未見だった言の葉の庭['13]をネットで観ることができた。画面を拡げて観たのだが、これはいい。『君の名は。』で興を削がれたような仰々しさはどこにもなく、非常に抑制の利いた行間の豊かな作品だった。

 緑色の好きな僕は、オープニングカットから目を奪われたのだが、高校一年生の秋月孝雄(声:入野自由)の独白が始まるとともに映し出された池の水面の上に揺れる木の緑の撓みがとても強く印象づけられた。本編でも幾度か現われ、エンドロール後の冬を迎えた最後の場面でも全ての葉を落とし雪のなかで佇むこの木が意味ありげに映し出されていたから、作り手においても重要なイメージだったのだろう。

 丸々ひと回り歳の離れた雪野由香里(声:花澤香菜)と孝雄の二人のなかで、間で、揺れる想いを実に丁寧に美しく掬い取った味わい深い作品だった。友人から聞くところによると、『君の名は。』で黄昏どきの薄明りを古語では、誰ぞ彼(たそがれ)、彼は誰(かわたれ)と言うのだと教えていた古文の先生が本作の雪野先生なのだそうだ。僕が習った古文の先生は、かわたれは朝の薄明で、たそがれが夕の薄明だと教えてくれたが、僕においても、古文の授業は、言の葉の美しさというものへの関心を促してくれた教科だった。僕が高校生になって、中学時分に三年間続けたバスケを止め、文芸部なんぞに入ったのは、中学時分の漢文の先生と高校になってからの古文の先生の影響があるように感じている。

 本作で、雪野先生が口にした「鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」と返歌の「鳴る神の 少し響みて 降らずとも 我(わ)は留まらむ 妹(いも)し留めば」についても教わったような記憶がおぼろげながらにある。達筆だった亡父から、母親には言うなと釘を刺されつつ、若い頃にモミジ葉に「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」という崇徳院の歌を綴って渡したことがあるというような話を聞いたのも高校の時分だった。

 また、新宿御苑という公園は、僕にとっても大学時分の特別な思い出の残っている場所で、その時分に出していた同人誌には掲載しなかった詩を綴った覚えもある。

 そして、「今まで生きてきて…今が一番幸せかもしれない」と二人のなかでシンクロして想いの湧いた瞬間を捉えた場面のリアリティに痺れた。遠い日に僕の心を最も捉え揺らせた女性は12歳ではなく7歳の年上だったが、雪野先生のような不倫関係を終えたばかりの不登校教師ではなかった。だけど、内側に苦しいものを抱えている女性であった点は同じだった。

 高三の誰かの彼氏が雪野先生に心を移したことで逆恨みを買って、あることないこと吹聴されて仕事に出られなくなったらしい雪野先生だったが、もしかすると吹聴された根も葉もない噂の一部に、未だ露見してはいなかった事実が潜んでいたことが、実は最も雪野先生を苛んだのではなかろうかと思った。「関係ないよ、あんな淫乱ババァ」と口汚く罵っていた女生徒の悪口とベランダに出て煙草を吸いながら雪野先生と携帯で話をしているカーテン越しに妻女と思しき女性の姿がよぎっていた夜の場面に、そんなことを想像せずにはいられなかった。

 何もかも誇張した強い言葉を使うのが習い性になっている商業メディアで見聞きするたびに苦々しく思っている「号泣」に、これこそが他ならないと感じられる雪野先生の“まさに堰を切ったように溢れ出る叫び”に心打たれた。おそらくは、学校中の人々が自分を蔑んでいるに違いないとの強迫に苦しめられていた雪野先生にとって、そんな噂などに頓着しないでいられる自分の世界を持っている孝雄は、とても眩しく勇気づけられる救いの存在だったに違いないことが、そして、人の言の葉にとことん傷ついた自分が不用意にその場凌ぎに発した言葉が、その救いの存在をこれまでに聞いたことのない強い言葉で憤らせるほどに傷つけてしまったことによって、彼女もまた初めて本当の心の叫びというものを表に出すことができたのだろう。彼女が再び教壇に立つことができるようになったのも、この表出体験を抜きには考えられない。雨が、涙が、実に美しい映画だった。

 雪野先生が選りによって何故、鳴る神の歌を最初に呟いたのかは結局のところ不明ながら、僕も習った覚えのあるくらいの歌だから、さして深い意味はなかったのかもしれない。だが、彼女のことが気になり始めた孝雄がその歌を調べて相聞の意味を知ったなら、そこに啓示のようなものを感じ取るであろうことも道理のように思える。実に巧みな使い方だった。言葉の“言の端”に宿っているものの人にとっての意味と力を鮮やかに掬い取った作品でもあった気がする。

 孝雄にとっての靴作りは、実際に靴職人にその後なり得たかどうかはともかく、雪野先生との思い出によって、きっと生涯に渡る嗜みになっていくのだろう。若い頃に感受したものの影響力というのは侮れないものだ。久しぶりに百人一首とか万葉集とかを読み返してみたくなったりした。
by ヤマ

'16. 9. 7. TOHOシネマズ7
'16. 9.10. GYAO!無料配信動画



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