『沈黙-サイレンスー』(Silence)
監督 マーティン・スコセッシ

 僕の部屋の書棚には遠藤周作の本が14,5冊あるのだが、『沈黙』を取ってみたら '84.6.8.に読んでいた。二十六歳のときだ。その年の秋に生まれた次男がまだ妻のお腹のなかにいた頃だ。ずっしりと重いものを読んだ気持ちになった覚えがある。

 映画を観終えて気になった“キチジロー(窪塚洋介)が首から提げていた小袋の聖画の件”を確認したら、やはり原作小説にはなかった。映画を観ていて少し違和感を覚えたところだったのだが、作り手は、何を思って加えたのだろう。

 そして、最期を迎えたロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)の手の中にあったものは、確かめるまでもなく映画化作品で加えたものだろうと思ったが、やはりそうだった。ふと八年前に綴った日誌過日アカデミー賞外国語映画賞を受賞したこの映画(おくりびと)で、大悟の亡くなった父親が石文を握り締めていたことに難癖をつけている人たちがいたことを思い出した。彼らは、この『王将』を観ても、小春が王将の駒を握り締めて亡くなっていた場面に文句をつけるのだろうか。と記したことを思い出した。

 いずれも、映画という視覚芸術の表現として人物の心象を画面に映し出した場面なのだが、ロドリゴやキチジローに対しての作り手の解釈は、無理やり力づくで棄てさせられても、そして、自ら失くしたと思い込んだとしても、人間の心の奥深くに住み着いたものの存在は、それが神であろうが人であろうが、内心から消え去ることはないということなのだろうと思った。そして、肉体を痛めつけられること以上に、心を引き裂かれ苛まれることのほうが遥かに辛いと零すロドリゴの言葉に、心という信仰の領域に自身のアイデンティティを置いた者の苦衷を垣間見るとともに、日本国憲法第十九条に保証されている“良心の自由”という価値の掛け替えのなさを改めて思った。

 また、このような作品を観るとつくづく人間という存在の得体の知れなさ、魔の性とも言うべき測り難さを思わずにいられない。個体としての生存本能、種としての保存本能のみを生体原理としている動物であれば、明らかに原理と矛盾するような異常行動にかられるのが人間の人間たる所以なのだろうと思う。信仰や良心のために命を捨ててまで取る行動にしても、たとえ保身も含めた防衛心からだとしても許容しがたい極めて残虐な悪魔的所業にしても、動物には真似のできない“魔の性”の為せることであるがゆえに、実は最も人間的であるという苦しさがある。そして、生体原理とは矛盾する人間的所業を生み出すものこそが、イエスの説いた“愛”であり、愛とセットのようにして語られることの多い“憎しみ”であることを思うとき、つくづく人というものは業の深い生き物だと思わずにはいられなくなる。

 それにしても、言葉の通じない異国人の説いた神への信仰に命を賭した人々が現に存在したことに圧倒される。為政者たちが恐れたのも尤もなことだ。明治期に民権運動を弾圧したとき以上に、戦前、治安警察が“アカ”と称して共産主義者を怖れ、弾圧したのも同じような恐怖からくる憎悪によるもののような気がする。そのように観ると、ことさら長崎奉行井上筑後守(イッセー尾形)の人物造形に感心した。

 三十年前に原作小説を読んだとき、切支丹弾圧の時代の“転び伴天連”と戦前戦中の共産主義者の転向について想起した何かを記しているのか、昔の日記を紐解いてみたら、内容については何も書いていなかった。だが、『沈黙』が上梓されたのは“政治の季節”とも呼ばれる'60年代だから、コミュニズムに限らず戦後の親米反米も含めた“政治的転向”についての問題意識は、作者の遠藤には当然にしてあったはずだ。僕が原作小説を読んだとき、最も興味深い人物は、ユダから想を得て造形されたに違いないキチジローだったように思うが、スコセッシによる映画化作品では、断然、イノウエ様だった。





参照テクスト:ケイケイさん掲示板での談義編集採録


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/17012202/
 
by ヤマ

'17. 1.28. TOHOシネマズ9



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