『スポットライト 世紀のスクープ』(Spotlight)
監督 トム・マッカーシー

 決して全く埋もれている事実ではなくても、それこそ“スポットライト”を当てなければ、事実に応じた反応が関係者たちから得られないのは、放射線を浴びた[X年後]で取り上げられていた問題に限らず古今東西の世の常なのだが、さればこそ市民社会において非常に重要な位置を占める調査報道の現状は、当時から15年を経たアメリカでは、どのようになっているのだろうかなどと、ふと思った。

 それというのも、調査報道という観点からすると世界規模で今最もホットな対象となっている「パナマ文書」にアメリカのジャーナリズムは非常に反応が鈍いなどと仄聞したことが作用しているのかもしれない。また、「朝日新聞記者 依光隆明さん講演会 “福島の今は~プロメテウスの罠取材で知った福島の人々~”で、講師の依光記者が調査報道の重要さを強調しながら、新聞の購読者数が激減してきているなかで手間暇も金もかかる調査報道が脅かされてきていることへの危機感を訴え、権力者からの圧力などよりも遥かに危機を呼んでいるのが“ジャーナリズム側での自主規制”と“読者離れ”だと語っていたことを思い出したせいかもしれない。

 加えて本作において、「9.11 対米テロ」によって“スポットライト”の調査報道が後回しにされ、カトリック攻撃と受け取られかねない報道への懸念が生じてくる過程が描かれるのを観て、チョムスキー 9.11 Power and Terror』の日誌にも引いた“対米テロ直後の米国マスコミのテロ報道の異常さや批判的主張を自己規制した米言論界”のことを想起した影響もあるのかもしれない。

 さらに、ボストン教区での告発を黙殺し隠蔽したロウ枢機卿(レン・キャリオー)について、デスクのロビー(マイケル・キートン)に「肚の座った人物だ」と言わせ、9.11 対米テロのときに発した高い見識を示す演説を添える配慮に怠りない作品構成に触発された部分もあったようにも思う。

 ともあれ、最後の字幕で示された249(279?)人という“ボストン教区での児童虐待を行なった神父の数”に驚いた。2002年のスポットライトの記事で脚光を浴びたことにより、同年に明らかになったものとしてクレジットされていたように思うが、本作中にあった30年来この問題を調査研究してきたという心理学者による推定比率6%に教区の神父数1500人を乗じて推計した予測数90人にほぼ匹敵する87人の名簿を調査によってリストアップしたうえで臨んだ報道の後に発覚した数だということだ。比率換算すれば、6%が20%近くに跳ね上がることになる。5~6人に1人という高率だ。その研究者によれば、妻帯を禁じ独身者を強いて性欲を抑圧することが、ある意味、女犯姦淫以上に罪深い幼女男児への性的虐待となってくる“現象”として現れるという説明だったように思う。まさしく新任のマーティ・バロン編集局長(リーヴ・シュレイバー)が調査報道チームに求めた“教会のシステムに関わる根本的な問題”だ。

 事案によっては、作中において加害者側で登場した唯一の証言者たる気弱そうな神父が漏らしていたようなものもあったには違いない。彼が行なったのは、彼自身がかつて被ったらしいレイプとは比較にならないくらいの“悪戯”程度だったとのことだ。だが、重要なのは加害者が行なったことの程度のほうではなく、被害者の受けた傷の深さのほうなのだ。長い歳月を経た後に女性記者サーシャ・ファイファー(レイチェル・マクアダムス)が辿り着いたということは、それに足るだけの被害を児童が受けていたことに他ならない。児童の感受性の高さのことを思うと、それなら生臭女犯坊のほうが余程ましだ思わずにいられなかった。

 日本の仏教でも破戒僧となる宗派もあれば、古くは親鸞のように妻帯を認めた宗派があるように、キリスト教でも神父や牧師に妻帯を認める宗派もあるわけだが、性欲の克服というのは常人ではとてもなし得ない根源的な煩悩の一つなので、偉業として実に判りやすい尊敬・崇拝の対象、自己犠牲の象徴になるということでの“不自然だからこそ、意味を持つ戒律”なのだろう。かねがね思っていることだが、安易な“判りやすさ”を求めると、必ずそこに無理や欺瞞が生じ、真実から遠ざかるというのが“複雑極まりない人間及び人間社会の本質”なのだ。わかりにくいことをわかろうとするところからしか人間の知性は育まれない気がしてならない。それなのに、わかりにくさを過剰に悪いことのように宣伝してきたメディアによって、人間にまつわるあらゆる領域において急激な質的低下が引き起こされ、衆愚に向かっているように感じる。

 それに加えて先ごろルーム['15]を観たばかりだからだろうが、大反響スクープの後にボストン・グローブ紙で600件の記事を打っていった過程やその後の字幕部分を映画に描かなくてどうする、という思いが生じなくもなかったが、そこは“良くも悪くも非常にオーソドックスなハリウッドスタイルの作品”なのだから、これでいいのかもしれない。キャストアウェイ['00]や『ルーム』は、スタイル的にはあくまで異端なのだ。だからこそ、最後の字幕クレジットの部分が非常に重要で、これこそが調査報道の大切さや、研究者が電話で述べていた核心問題の甦りを観る側に促す役割を担っているわけだ。

 ハリウッド映画的なところの良さとしては、調査報道チームを率いるロビーと教会側の弁護士として隠蔽工作に加担して来たジム・サリヴァン(ジェイミー・シェリダン)やら、ボストン校の広報部長との、いわゆる学友関係の描き方が理想的に好もしく描かれていた点が印象に残った。互いの負っている職業的立ち位置と良心の自由というものに対して相互に敬意を払ったうえで親交を保っているように感じられた。自分の高校大学時分の旧友が、東京電力や防衛省、検察庁、厚労省、NHKなどで幹部やトップ、役員などを現に務めていたり過去に就いていたりして、それぞれ難しい職責を担っているなかでの付き合いを思うにつけ、響いてくるものがあった。

 その点では、被害者側の弁護士ミッチェル・ギャラベディアン(スタンリー・トゥッチ)が20年前だったかにボストン・グローブ紙に送ったという20人の加害者神父のリストを受けて、小さな囲み記事で報じることで済ませた記者が若き日のロビーであったことをきちんと描いているフェアネスが、組織的に抱える問題を個人の問題に矮小化することを戒める作り手の立ち位置を明確に示しているようで好もしかった。ロビーだから小さな記事にしたわけでも、ロビーが率いたから優れた調査報道が展開されたわけでもないということだ。

 他方でもし、20年前の編集局長が今回のバロンと同じような方針を打ち出したとすれば、ロビーや彼の前任者だったと思しきベン・ブラッドリー現報道部長(ジョン・スラッテリー)の当時の取組は全く違ったものになっていて、マイク・レゼンデス記者(マーク・ラファロ)に優るとも劣らない熱意を発揮したような気がしてならない。組織において指導的立場にいる者の負っているものは、どうこう言っても、やはり相当に重いものだと改めて思わずにはいられなかった。僕自身も言われたことがないわけではない“~イズム”というようなものを感じてもらえるくらいのものは、やはり持っていてほしいものだ。


参照テクスト:「朝日新聞記者 依光隆明さん講演会」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2016/12-1.htm




推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1952073665&owner_id=1095496
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1952297744&owner_id=3700229
by ヤマ

'16. 4.23. TOHOシネマズ4



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