『恋人たち』
監督 橋口亮輔

 この三組の関係に何故『恋人たち』というタイトルを冠したのだろう。普通に考えれば、三年前に愛妻を通り魔に殺された篠塚(篠原篤)と亡妻の関係にしても、極端に自己肯定感の脆弱なパート勤めの中年主婦、高橋瞳子(成嶋瞳子)とシャブ中の詐欺男、藤田(光石研)との関係にしても、極端に自己肯定感の過剰なゲイの青年弁護士、四ノ宮(池田良)と古くからの友人でノンケの聡(山中聡)との関係にしても、いずれも“恋人”というものではない気がするのに、観終えて妙に納得感があったことに感心した。

 それぞれの関係それ自体は、通常は恋愛関係と呼ばれるようなものではないのだが、篠塚、瞳子、四ノ宮がそれぞれ相手から得ていたものは、まさに“恋愛関係から得るもののエッセンス”のようなものだった気がする。そして、その三人が通常に言う“失恋”とは異なる形で、深くて強い喪失感に見舞われて涙している三つの場面の対照が味わい深かった。

 位牌を前にして失意と悔しさにまみれた苦衷を述べる長い独白と共に篠塚が流していた涙。夢みた男の真の姿を目の当たりにして独白に近い形で自身の来し方を語っていた瞳子の涙。依頼人の女子アナ(内田慈)の台詞がなければ気づかないほどに細やかな涙を四ノ宮が見せていたのは、卓上で手を伸ばした先にあった万年筆が聡から贈られた思い出の品だったからなのだろう。

 失意や惨めさに囚われがちな人々の抱える問題として“自己肯定感の希薄さ”が語られることが余りに多いような気がするだけに、激しい喪失感に囚われ、なす術がなくなることと、普段の自己肯定感の強弱とはあまり関係していないことが浮き彫りにされているような三人の人物造形が目を惹いた。なかでも、高橋瞳子は観ていて苛立つほどに実在感があったように思う。

 駆け落ちの夢から覚めた瞳子に折よく「子供ができたっていいじゃないか、夫婦なんだから」と何だか取って付けたように夫が言い出す収め方や、篠塚が見舞われる不快の釣瓶打ちの入念ぶり、瞳子の愚鈍の過剰さなど、少々作り込み感が出過ぎているきらいもあったが、場面演出の巧みさが描き出す感情のリアリティには見事なものがあって、実に鮮やかだったように思う。

 それにしても、人の心に湧き起こる惨めさや情けなさを描き出して類い稀なものがあった。監督・脚本・原作を担う橋口亮輔の実感に根ざしたもののような気がしてならなかった。そして、そのとき、現実世界で橋口監督は、“喪失”をまさに体現していた隻腕の黒田大輔(黒田大輔)のような寛容と慈愛に満ちた人物と出会うことができたのだろうかと、ふと思った。

 言葉数の少ない朴訥とした黒田の語りと優しげな眼差しは、かつて爆弾テロに身を投じた人物だとはとても思えないものだったが、いま世界の各地で爆弾テロに携わっている人々のなかにも何かを契機に黒田のような人物になり得る者がいるに違いないという作り手の人間観が窺えるような気がした。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20160220
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1948130946&owner_id=3700229
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/16050106/

by ヤマ

'16. 4.18. あたご劇場



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