『あの日、欲望の大地で』をめぐって | |
「映画通信」:(ケイケイさん) 「チネチッタ高知」:(お茶屋さん) ヤマ(管理人) |
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2010年 1月26日(火)22時14分「ケイケイの映画日記」掲示板より
ヤマ(管理人) ケイケイさん、こんにちは。 拙日誌を綴ったので、楽しみにしていたケイケイさんの映画日記を読みました。 (ケイケイさん) ヤマさん、おはようございます。お読みくださって、ありがとうございまーす ヤマ(管理人) 僕のmixi日記へのコメントに、この作品の残念だった点を述べておいでたことの意図するところがよく解り、とても面白く、また感銘を受けました。 (ケイケイさん) 私も感慨深く、また色々考えさせられた作品だったので、通常の倍くらい書いてますね(笑)。お陰さまで今読み返しても、当時の記憶が鮮明です。 ヤマ(管理人) 時制を錯綜させている分、鑑賞後に再構成を迫ってくるところがあるから、自ずと反芻を促されて、記憶として定着しやすいんでしょうね。僕もかなり長くなりました。mixiにメモったものの倍くらいはありそうです(たは)。 (ケイケイさん) まさにヤマさんのため的作品ですもんね(^−^)。 ヤマ(管理人) “欲望の大地”やから?(笑) -------母娘 ジーナとシルヴィア(マリアーナ)------- ヤマ(管理人) 「母ジーナは、淫蕩だったから不倫したんでしょうか?」以下の段がとりわけ読み応えありで、共鳴するところ、気付きをいただけるところ、諸々あって、読んでてとても嬉しくなりました。 不倫の理由が淫蕩というのは、もちろん否ですよねー。それは僕も同じです。 (ケイケイさん) そうですね。 ヤマ(管理人) ジーナについての観方は、ほぼ完全一致でした。なのに、そのことによってダメージを受けたシルヴィアへの目の向け方が微妙に違うところがたいへん面白かったです。キーワードは、“子捨て”だったのですねー。なるほど、なるほど。そう来なければ、ケイケイさんじゃありませんよね、実に納得しました。 (ケイケイさん) そうですか(笑)。 ヤマ(管理人) 男親は、生まれ出た後の赤ん坊との関わりのなかで少しづつ父親になっていくものですが、女親は、生まれ出る前に一年近く、関わるどころか一体となっているのだから、たとえ生後二日であろうと、もう充分以上に母親になっているんでしょうね。あのとき、生まれたのが娘ではなく、息子だったら、もしかすると彼女は出奔しなかったのではないか、とかは思いませんでしたか? (ケイケイさん) ジーナのあの“女性と母を揺れ動く感情”は、キムの好演も相まって、とても納得も共感も同情も出来ました。 ヤマ(管理人) そのあたり、ケイケイさんは、とても上手く言葉にしておいででしたね。 (ケイケイさん) ありがとうございます。私はこの作品で一番好きだし理解出来るのはジーナですね。でも、登場人物みな愛しいかな? ヤマ(管理人) 僕が一番好もしく思ったのは、やはりサンティアゴでしたねぇ。 (ケイケイさん) ジーナの件は、年齢もありますよね。これが50に入っていたら、不倫はなかったんじゃないかなぁ。でも、欧米は生涯現役だから、年齢は関係ないかしら? ヤマ(管理人) 欧米に限らないんじゃないですか? 女性としてのアイデンティティの問題は。『魂萌え』を想起するまでもなく。 (ケイケイさん) 確かに。煩悩に年齢は関係ないかもなぁ(笑)。 ヤマ(管理人) でひょ(笑)。 (ケイケイさん) 母親になるのに必要な期間ということでは、妊娠中で充分でもないですけどね。でも、男親より早く親には近づけるとは思います。 ヤマ(管理人) そりゃもう、格段に違いますって。 (ケイケイさん) 生まれたのが息子だったら、というのは、思いもつきませんでした。確かに男の子なら出奔しなかったかも。うん、そうですね。女三代というの確かにキーワードですね。 ヤマ(管理人) 女性の同性に対する意識の持ちようの強度は、男の同性に対する意識の持ちように比べて、ずっと高く、また複雑な気がします。加えて、そこに親子関係の加わった母娘ってのは、格別ですし、マリアーナの場合、さらに特別な因縁が刻印されているわけですからね。 (ケイケイさん) 母と娘と言うのは、気持ち悪いくらい仲が良いか、すごく距離を置くかどちらかが多いと思いますね。マリアーナの場合は前者だったように思います。だからショックも大きかったんだと思います。 ヤマ(管理人) ニックとの関係が生じるまでは、きっと仲が良かったんでしょうね。 で、ケイケイさんの場合は、後者だったんでしたっけ? (ケイケイさん) うちは複雑ですよ(笑)。仲は良かったと思います。でも、躾けと称して有無も言わせなかったり、かと思えばお涙ちょうだい的自分の境遇を娘に訴えて、どこにも行けないように縛りつけたりと、大変な人でした。離れたくても離れられなくするんですね。 ヤマ(管理人) もちろん程度に差があり、その程度の差こそが重要なんですが、「有無を言わせなかったり、縛りつけたり」ってのは、普遍的に子が親に対して感じることで「離れたくても離れられなくする」というのもありがちなことですよね。 (ケイケイさん) こちらは息苦しいのに、母は満足。距離を置かせてくれたら、もっと良い親子関係になれたと思います。 ヤマ(管理人) 距離ということになると、やっぱり程度の差の問題なんですよねー。人間関係の難しさと妙味の所以がここにありますよね。親子問題に限らず。 (ケイケイさん) その距離の取り方が絶妙だったんですよ、フィリップ・クローデル監督・脚本の『ずっとあなたを愛してる』。時には感情もぶつけあっても、最終的には本人の意思を尊重するという感じ。こういう作品を観ると、フランスは大人の国だなぁと思います。 うちの母の場合、他には「可哀想な人だ」と子供に思われようとしていました。反語的な意味合いの事を言いながらですから、あれは高等技術でしたね(笑)。女の子には母親の呪縛は多大ですから、すごい刷り込みですよ。私は息子から「可哀想な母親」と思われたくないんでね、せっせと映画観てます(笑)。 ジーナは、逢瀬の場所のトレーラーにお花を飾り、潤いを持たせるような女性ですが、それは自宅もそうだったですよね? ヤマ(管理人) 出直しのスタートに庭先ピクニックを企画するあたりからして、そうですよね。 (ケイケイさん) ジーナは乳房にキスしたニックを、その奥の彼女の心にキスしたんだと感じたと思うんですよ。乳房に惑わされず、彼女の豊な女性性を認めてくれた男性として、ジーナがのめり込んだのは、無理からぬことだと感じました。 ヤマ(管理人) まさしくそのとおりだったように僕も思っています。 (ケイケイさん) 子宮と乳房なら、喪失感は乳房の方が大きいと思いますね。両方女性の象徴ですけど、乳房は女性美に直結しますから。 ヤマ(管理人) 目に映るってことのインパクトは大きいですからね。それで言えば、マリアーナが母の騎乗位を目の当たりにしたことも、さぞや強烈だったことでしょうね。 (ケイケイさん) あの年頃の少女に、あれはショックだったと思いますね。それなのに、自分も同じ背徳的な恋に身を焦がして、そういう時に母親の血を感じたのかもしれませんね。 ヤマ(管理人) これは、ケイケイさんも映画日記に「誰にでも身を任せる彼女の様子は快楽とは程遠く、自分を痛めつけているだけです。…決してふしだらではなく、心の自傷行為に思えます。」と書いているように、“背徳的な恋”とは別物だと思いますよ。 (ケイケイさん) いえいえ、私が背徳的と書いたのは、マリアーナ時代のサンティアゴとの「ロミオとジュリエット」的恋愛のことで、シルヴィアの頃ではありません。 ヤマ(管理人) そうでしたか。「ロミオとジュリエット」的恋愛っていうのは、僕などは“純愛”の代名詞のように使われているように感じていたのですが、確かに、家の者にとっては“背徳”に他なりませんね(笑)。 (ケイケイさん) いや〜、あれは、だって親族からみれば、充分背徳的ですよ(笑)。 ヤマ(管理人) でも、一般的には二人をそのようには、あまり見ないでしょ? 家同士のしがらみに囚われない純粋な恋心の発露って感じの観方が大勢だと思ってました。 (ケイケイさん) ヤマさんが一番好もしく思ったというサンティアゴは、だから私もいい子だと思いますが、私はやっぱりサンティアゴの母の立場も理解出来るのでね、この息子には腹の立つ部分もあります(笑)。 ヤマ(管理人) ってことは、ロミオとジュリエットに対しても? (ケイケイさん) これは母親目線と他人目線では違いますね。 ヤマ(管理人) ですよねー、やっぱ普通は背徳とは違う目線で観ますよね。で、それは違うとなるなら、その違いはどこから来るんでしょうね。人の命が失われているということで言っても仇敵同士のキャピュレット家とモンタギュー家の間に流れた血や失われた命のほうがきっと多いはずなんですが、彼らの恋には背徳<純愛のイメージが宿り、サンティアゴとマリアーナの恋には背徳の影が強く差すのは何故なんでしょう? (ケイケイさん) やっぱり不倫=背徳という、身近にあるテーマだからじゃないですか? 誰しもが自分に置き換えられるものですし。 ヤマ(管理人) 失われる命よりも重いのが“不倫”なんだ!(笑) (ケイケイさん) いやいや、命の方が重いですが(笑)。 ヤマ(管理人) それに、マリアーナとサンティアゴは、婚外恋愛じゃありませんよね。親の“背徳”がその娘息子にも負わされるのは、理不尽にも思われます。 もっともそうは言っても、人の心はロジックで出来上がってはいませんから、ニックの妻やジーナの夫が憤り、子供にまで裏切られた気になるのも判りますよね。 (ケイケイさん) でしょう? 理不尽でも人の道っていうのもありますしね。 ヤマ(管理人) というか、人の道って概ね理不尽なものですよ。理で説けないから、人で説こうとしているようなもんです(笑)。 -------悲劇の発端は何か------- ヤマ(管理人) 母親の不倫現場を目撃した時点の十代のマリアーナは、両親の閨房での出来事までは知らないでしょうから、母が父親以外の男にのめり込んだ理由にまでは思いが及びませんものね。悲劇の発端は、そのことにありましたね。 (ケイケイさん) う〜ん、そのことをたとえ知っていても、母を淫蕩に感じたんじゃないですかね? この年齢の子が、夫婦のセックスレスの寂寥感を実感するのは無理だと思いますよ。 ヤマ(管理人) それはそうですね、確かに。 (ケイケイさん) 娘からは、男と女じゃ無くて、父母としてしか観られないんじゃないかと思います。 ヤマ(管理人) 寂寥感の実感は、とてもじゃないけど、無理でしょうが、父母としてしか観られないってことはないと思いますよ。嫌悪感は強いかもしれませんが、強く反応するということは、それだけ男と女として捉えざるを得ないからこそで、そういう点では、やはりハイティーンの娘は、息子以上に強い感受力を持っていると僕は思います。 (ケイケイさん) 確かに女の子のほうが、早く成熟しますからね。でもそこまではあの年齢では難しいと思います。 ヤマ(管理人) 寂寥感に留まらず、“男と女”の部分を感受することが無理なんですか、ハイティーンくらいでは! いやぁ、いくらハイティーン娘経験者の女性からの言葉とはいえ、俄かに鵜呑みにはできませんな〜(笑)。 (ケイケイさん) せいぜい結婚前の母の女性としての心境を理解出来るくらいで、妻としての気持ちは理解し難いと思いますよ。 ましてや彼女の父親は夫婦生活以外は、夫としても父としても、良人に描かれていましたし。 ヤマ(管理人) 僕が拙日誌でジョンについて使った“良人”という言葉は、読みどおりに夫の意味でしか使ってなかったのですが、文字どおり良き人としてニックもジョンも人物造形がされていたところが、この作品の値打ちのあるところでしたよね。 (ケイケイさん) そうでしたね。あれで「夫婦」というものの本質的な大切さが、充分浮き上がったと思います。 ヤマ(管理人) えぇえぇ、ですから、もちろん妻ってことについてじゃありません。ケイケイさんがおっしゃった「男と女じゃ無くて、父母としてしか観られないんじゃないか」ってことの話ですもん。 (ケイケイさん) 女性としても幸せに観えたと思いますよ。事実そうでしょう? セックス一点以外は。 ヤマ(管理人) セックス一点以外は、ジーナが女性としても幸せに見えたというのは、どのへんからお感じなりました? (ケイケイさん) そういえば、思い浮かびませんね(笑)。家庭の空気がそうだったかな? でもそれでは家族ですね。何故良い夫に見えたのかしら? ヤマ(管理人) 良い夫に見えたのは、拙日誌にも綴ったように、「季節外れの庭先ピクニックを始めて家族団欒による出直しを企図したときにも、長じた子供たちとは違って、きちんと付き合う」姿から窺えましたから、妻として幸せってのは分かるんですよ。 (ケイケイさん) うんうん、このシーンは善き夫でした、確かに。 ヤマ(管理人) でも、女性としても幸せってのは思い当たらず、ジーナの不幸は、妻としては幸せながら、女性としては満たされないがゆえのものと受け止めていたので、伺ってみたくなったのでした。 (ケイケイさん) この辺は、だから脚本が上手かったですね。ジーナの不倫へののめり込みがただのセックスレスからなら、あんなに彼女に共感出来ませんから。 ヤマ(管理人) それには同感ですねー。拙日誌にも「母ジーナ(キム・ベイジンガー)の不倫の始まりが、もし、乳癌手術による乳房切除と共に訪れた夫の不能であり、そのことからくる性的渇望であったとするならば」と綴りましたが、そのように偲ばせる部分が込められてましたよね。極端な話、先にセックスレスの家庭内離婚があっての乳房喪失→不倫だと、随分と違ってきちゃいますよね、たぶん。 (ケイケイさん) 私も子宮筋腫を患ったからわかるのですが、ジーナは乳房を失うことで、もうじき引退だと思っていた女性としての自分と、図らずも対峙することになったわけですね。乳房喪失が無ければ、例え夫とセックスレスになろうが、ジーナはあのまま自然に老いていったと思います。 ヤマ(管理人) 拙日誌に「ジーナの心身を捉えたサンティアゴの父もまた、その乳房を失った手術跡に優しく唇を寄せ、彼女を“最高の女”として見てくれる眼差しゆえに、ジーナにとってはそのような男だったのだろう」と綴ったような感興には至らなかったでしょうね、少なくとも。 -------十代の女性の抱く思いとは------- (ケイケイさん) マリアーナにとっては、父親は家庭的で良き夫に観えていたし、事実そうだったから「たかがセックス」のことで、母が他の男に溺れるのに嫌悪し、自分に流れる血を忌まわしいと思ったんじゃないですかね? ヤマ(管理人) 「たかがセックス」などと言えるのは、それこそケイケイさんが、もう年季も経験も重ね、人間としての幅も広げておいでだからこその言葉であって、それこそ「でもそこまではあの年齢では難しいと思います」よ(笑)。それは男の子においては、間違いありません。そして、おそらくは女の子においても。 (ケイケイさん) いや〜、あの時点でマリアーナは未経験でしょう? セックスのなんたるかどころか、経験もないのなら、愛情があるならセックスが無くても大丈夫だと思うんじゃないですかね? 私にしても『愛の嵐』をバージンの時観てたら、決して理解出来なかったと思いますよ。 むしろ年季を重ねた今や私は、夫婦において「たかがセックス」などとは、口が裂けても申せませんよ(笑)。 ヤマ(管理人) 一口に「たかがセックス」と言っても、何を以って、また、どこまでを以って“セックス”と言うかには、根源的で難しい問題が潜んではいますが、少なくとも「綿密で濃厚なつきあい」を果たすうえでセックスは看過できないものですもんねー。 母親の不倫性交を目撃した時点でのマリアーナがバージンだったか否かについては、彼女の口から「前の彼」ってな話、出てきてませんでしたっけ? 僕は、未経験だったというふうには観てなかったような気がします。 (ケイケイさん) 彼氏の話は出てきましたが、経験ありと言ってましたっけ? ヤマ(管理人) いえ、かくべつ明言してはなかったように思います。あくまで僕の受け止めです。いまどきのアメリカン・ハイティーンですし、ね。それから「愛情があるならセックスが無くても大丈夫だと思う」というのは、経験の有無以上に「う〜ん、これも人によるかな?」のほうが大きい気がしますね。 (ケイケイさん) 確かにね。 ヤマ(管理人) それに、未経験のほうが妄想過多気味だから、むしろ却ってそうは思えない気もしますし、特に女性の場合は、浅い経験を実際に持っている場合のほうが「愛情があるならセックスが無くても大丈夫」とかって思いやすいんじゃないですか?(笑) それでも「たかがセックス」は、流石に難しそうな気が…(たは)。 (ケイケイさん) 経験ないなら、女子が妄想をふくらます可能性は低いと思いますけどねぇ。浅いのはわかりませんが。 ヤマ(管理人) え? そーなんですか? 未経験のうちは余り妄想を膨らまさないものなんですか?(驚) いやぁ僕は、女子も妄想力は未経験のときのほうが優ってると思ってました。それが経験してみると、なんだこんなもんかと拍子抜けしつつ、それでも嗜むうちに得た触発から、今度は未経験時の妄想とは異なる趣の妄想を抱くようになるものだろうと思ってましたが、そうでもないんですね。 (ケイケイさん) 私は拍子抜けしませんでしたよ(笑)。 ヤマ(管理人) 未経験時に妄想を逞しくしてなかったおかげなんでしょうかね(笑)。ともあれ、拍子抜けしなくて何より(祝)。 (ケイケイさん) その後のことはどうですかねー。うふふ。 ヤマ(管理人) うふふは、嗜むうちに得た触発のほうかな、それとも妄想のほうのことかな?(笑) (ケイケイさん) 御想像にお任せします(笑)。でも、未経験のときの妄想というのも人によるでしょうけど、私の周りにはキスさえいやだと言う子も、結構いましたよ。それに女性は最初から男性みたいに感じるわけじゃないし(笑)。まずは怖いと言う感覚のほうが強いんじゃないかなぁ…まぁこれも人によりけりでしょうが。 ヤマ(管理人) ですね。 (ケイケイさん) 『愛の嵐』の理解は、未経験は無論でしょうが、体験済み程度なら、やっぱ難しいかも。私は30過ぎまで意識して観ませんでした。 ヤマ(管理人) よい頃合でしたね(笑)。 (ケイケイさん) そうしようと思わすくらいの内容だったし、ランプリングのポスターでした。彼女の美しさにすごく惹きつけられましてね、一時すごく憧れたんです。多分彼女の代表作になるだろうし、なら、わかるまで我慢しようと思ってました。 ヤマ(管理人) 見上げた心掛けです(感心)。ケイケイさんは、時宜に適ったタイミングで御覧になったんですね。 僕が観たのは、二十歳前後だったように思いますが、少々早すぎました。でも、わかろうが、わかるまいが、あのポスター観て、観られる機会があって、まだ早かろうから見送ろうなどという殊勝な心掛けは男の子にはとうてい無理ですね(笑)。別にわかんなくたっていいんですもん、妖しい世界を覗き観ることができれば(あは)。わかるわからんは、後から付いてくるものだくらいにしか思ってませんねぇ。だから、結果として、少々早すぎたわけですが(笑)。 (ケイケイさん) この魅惑的なポスターじゃ、血気盛んな男子には抗し難いですね。これより過激バージョンもあったしね。 でもほら、待てるんですから、思春期は女子の方が性に関しては清らかなんですって(笑)。 ヤマ(管理人) まぁ、一般論かどうかはともかく、思春期のケイケイさんが清らか〜な方だったことは、よーく分かりました(笑)。少なくとも待てなかった僕よりはね(あは)。 (ケイケイさん) 御理解いただき、ありがとうございます(^−^) -------「あの日」とは、いつのことだったのか------- ヤマ(管理人) アリアーナが母親の性交場面を目撃したことについてばかり話し合ってきましたが、彼女にとっては、その騎乗位目撃のショックを上回るのが、爆発炎上のショックだったでしょうね。 (ケイケイさん) それはそうですよね。お灸をすえてやろうと思っていただけなのに、母を失い、相手の家庭から夫を奪うことになるとは思っていなかったでしょうから。 ヤマ(管理人) 驚かせて慌てさせ、中断させてやろうと思っただけって言っても通用しないはずの大それた所業ではあるのですが、マリアーナの心境がそれに他ならないことをジェニファー・ローレンスが表情だけで見事に演じてましたよね。 (ケイケイさん) ローレンスはホントに良かったですね。少女期のきらめきは封印しなけりゃいけない役ですから、難しかったと思いますよ。美人だし、将来の大器ですね。 ヤマ(管理人) ところで、拙日誌の最後の段で言及した邦題の「あの日」についてですが、ケイケイさんは、“マリアーナの心の封印の起点日”をいつとして御覧になりましたか? (ケイケイさん) 娘を捨てた時ですかね? ヤマ(管理人) おぉ、そこんとこは、同じ線ですねー(喜)。 -------女性の三態における“妻”------- ヤマ(管理人) ケイケイさんの映画日記では、もう一つ「怒りに任せて、夫の葬儀にも出席しないニックの妻に対して、ジーナの夫はニックの家族への憎悪を募らせても、一度も妻への怒りは言葉にしません。」の着眼にも感心しました。なるほど〜、確かに対照させてたんだなーとの気づきをいただきました。 (ケイケイさん) ありがとうございまーす。 ヤマ(管理人) ニックがジーナに魅せられ、トレーラー借り上げとかシャワー設備とか、あんなにまでして深入りして向かって行ったのが何故なのかは、ニックの妻の描き出し方で納得していたのですが、そこにご指摘のような対照までは察知していませんでした。ありがとうございました。 (ケイケイさん) ヤマさんはニックの妻の描き方はどうご覧になりました? 私はすごく普通の平凡な奥さんだったと思いました。 ヤマ(管理人) 同感です。 (ケイケイさん) 多分ニックは妻にはもう女性を感じていなかったんでしょうね、主婦としては満足していても。妻もその事に不満は持っていなかった。ニックは真面目そうな男性に見えましたし、彼も男性としてそういう夫婦関係に寂しさがあったのかとは思いました。 ヤマ(管理人) ニックに寂しさがあったというのは、同感ですが、その原因が、夫が妻に女性を感じなくなっていたからだとは限らない気がしますよ。 (ケイケイさん) ヤマさんはどういう風にご覧になりましたか? 男性のご意見が聞いてみたいです。 ヤマ(管理人) この手の原因というのは、鶏が先か卵が先かのようなもので、夫が女性として見なくなったから、妻が女性を感じさせなくなるのか、妻が女性よりも母なり妻なりに向かうから、夫が女性を感じなくなるのか、一概には言えないような気がするっていうことです。 (ケイケイさん) なるほど。確かにこの作品のニックの妻は、「主婦」としての自分に満足していたように思います。 ヤマ(管理人) でひょ。女性側の三態からすれば、自分が妻モードの時には相手に夫モードであって欲しく、女性モードの時には男モードであって欲しいわけですよね。でもまぁ、この二態であれば、いずれにしても男女として、多少ずれててもOKだと思います、双方とも。 (ケイケイさん) それは人それぞれだと思いますよ。女性モードも妻モードも、もうどうでもいいと思っている人も、私は知ってますから(笑)。 ヤマ(管理人) ってことは、母オンリー? あるいは、女性とも妻とも異なる独自のキャラとしての“おばさん”モードかな?(笑) でも、自分が母モードのときに、夫から妻や女性を求められると、それを許容しにくいのが女性だったりしませんか? (ケイケイさん) ここで気がつけばいいわけですね。 ヤマ(管理人) それはそうなんですが、双方ともに、言うは易く行なうは難し(笑)。ときに、そのずれが諍いの種になったりしがちのようにも思います。それが重なると、夫は妻に対して“女性”を求めること自体を諦め、ずれによるトラブル回避のために、女性を感じなくなっていくのだろうと思うんですよ。 (ケイケイさん) これは男性だけじゃなく、妻側にもあてはまりますね。 ヤマ(管理人) もちろんです。その場合、三態を持つ女性側が原因なのか、あるいは、三態に対する見誤りを重ねる男の観察力ないし感受力の乏しさが原因なのか、一概には言えないということです。 (ケイケイさん) 夫婦により時差があるんじゃないですかね? 相手に異性を感じないと思いだすには。 ヤマ(管理人) ほぅ。どちらが先だと思われますか? それによって、鶏と卵のどっちが先かが判明するのですが。 (ケイケイさん) う〜ん、これも人によるかな? まずは子供が生まれた時、その次が子供が幼い時、それから中年ですかね? これくらいの間隔で、それぞれ気持ちがすれ違うんじゃないかと。私は子供が幼い時までは、ずっと夫を追いかけてましたが、今は向こうが追いかけてますよ(笑)。 ヤマ(管理人) それがオーソドックスなパターンなんでしょうか(笑)。 (ケイケイさん) 多分(笑)。 ヤマ(管理人) 鍵を握るのは“子供”ってことになりますね。 (ケイケイさん) うん、私はそう思ってます。子供がいる場合はね。 ヤマ(管理人) 子はかすがいならぬ火種っちゅうわけですな(笑)。 (ケイケイさん) 火種というか、ここで父母だけになってしまうか、男女としても保てるか、分岐点にはなるのでしょうね。 ヤマ(管理人) されば、子供に恵まれない夫婦には、配偶者に異性を求める求めないのすれ違いが起こりにくいのかなぁ。 (ケイケイさん) それは違いますね。却っていつでも真剣に男と女な部分が多いから、もっと大変かもですね。 ヤマ(管理人) どちらに転ぶかは、夫婦次第、親次第ってことでしょうか。確かに緩衝帯がないと、けっこう疲れるのが人間ですもんね。別の意味でのタフさが要求されるように思いますね。 (ケイケイさん) それはそれとして、両方兼ね備えている、ツワモノもいますよ(笑)。 この前、近所の82歳の素敵なお婆ちゃんと話をしてたら、「今年のお正月が(ご主人)3回忌明けだったのよ。それで御屠蘇を解禁したのだければ、胸が苦しくなるほど寂しさがこみ上げてね、『君のような頼りない人を置いては死ねないよ』って、ずっと言ってたじゃないのー!って言いながら、ペチペチ主人の写真を叩いてやったのよぉ」と仰るんです。ご主人ひと回り上なんですよ。それは無理ってもんでしょう?(笑) でもいいお話でしょ? 幾つになっても夫と妻、男と女の感覚があって。 ヤマ(管理人) そうですねー。お二人は、生前から率直に交換し合ってたんでしょうかねぇ。 (ケイケイさん) そこまでは聞いてないですが、老年期穏やかにお暮らしになったのは確かです。 品がよくて童女のような可愛いお婆ちゃんで、今はメリー・ウィドゥ生活を楽しんでいらっしゃいます。 -------男の性のビミョーさ------- ヤマ(管理人) さて、先ほど拙日誌を引用し、「乳癌手術による乳房切除と共に訪れた夫の不能」に言及しましたが、本作が極端な話、先にセックスレスの家庭内離婚があっての乳房喪失→不倫だと、随分と違ってきちゃいますよね、たぶん。 でもって「ジーナの心身を捉えたサンティアゴの父もまた、その乳房を失った手術跡に優しく唇を寄せ、彼女を“最高の女”として見てくれる眼差しゆえに、ジーナにとってはそのような男だったのだろう」と拙日誌に綴ったような感興には至らなかったろうとも言いましたが、ここの後先がどっちかで、違ってきますよね。 (ケイケイさん) だいぶ違いますね。夫にとっても重大な話ですよ。 俳優の村井邦夫の奥さんは音無美樹子ですが、彼女も乳がんで乳房を切除してるんです。村井邦夫のインタビュー形式の手記で、「乳房を失った妻を愛せる自信はあったけど、正直そう出来た時はほっとした。」みたいな記述があり、感慨深く読んだ記憶があります。筋腫のサイトもたくさん読み漁りましたが、開腹手術の傷跡を観ると、妻の子宮が無いことに思いが及び、夫が出来なくなったと書いている人がいてね、もう本当に大変なことですよ。 ヤマ(管理人) 過日読んだ亀山早苗著『マリッジ・セックス』に「人間は複雑だ。ことセックスに関しては、肉体的には女性のほうがストレートだ。割り切れれば何でもできる。ところが男性はそうはいかない。(P148)」「人間はやはり“脳で感じる”動物なのだろう。特に男性は。だから、即物的なセックスをするより、むしろ脳で矛盾や葛藤と戦っていくことで、セックスについてもより複雑で深い快感を抱くようになる。(P159)」とありましたが、ストレートな女性と違って、男は、ビミョーなんですよ(あは)。 (ケイケイさん) 「ことセックスに関しては、肉体的には女性のほうがストレートだ。割り切れれば何でもできる。ところが男性はそうはいかない。」というのは、当たっていると思いますね。で、割り切れれば何でも出来るけど、女性もそう即物的ではないと思いますよ。 男性は即物的なAVみたいなのを好むでしょう? 矛盾ではないですけど、これも脳で感じる証明ですか? ヤマ(管理人) もちろん! AVこそ、その証の極みのようなものですよ。だって、ノン触感なんですよ。まさに頼りは目と脳のみでしょ。 (ケイケイさん) そうですか。想像力豊かなんだか貧困なんだか、イマイチ私には解りにくいですが(笑)。 それはともかく、村井邦夫、良い御主人なんですよ。浮気は度々あったみたいですが、妻の宗教スキャンダルの時も自分が矢面に立ったし、鬱病の妻に「生きているだけでいいから」と言い続けて見守り続けたり。「妻を愛していても、夫は浮気する」というのは、村井邦夫のためにある言葉かも?(笑)。 ヤマ(管理人) 女性は、おそらくそのことを知ってはいるのだろうと思いますね。でも、認めたくないんですよ、きっと(笑)。 (ケイケイさん) それはあるかもなぁ。 ヤマ(管理人) 妻たる自分を愛しているか否かの問題よりも、とにかく浮気が腹立たしいんでしょうな。たぶん夫の側は、妻と浮気相手を同じ土俵に置いてはいないんでしょうが、要は両者とも異性ということでの同じ土俵に置いて受止めずにいられない女性にとっては、自分が貶められたように感じるから、腹立たしいんでしょうね。 (ケイケイさん) 浮気なら同じ土俵じゃないですが、本気なら大変ですよ。もちろん知れば腹立たしいし、貶められたというより、汚らわしいと感じると思いますね。 ヤマ(管理人) 今日観た四半世紀前の映画『土佐の一本釣り』に、主人公 純平から「儂ぁ商売女は、なんぼでも買うけんど、素人は八千代一人と決めちゅう」と言われて自分の誘惑を断られたと同じ町の漁師の女房(山口美也子)から教えられ、二人の仲を誤解していた八千代が喜び安堵する場面があったのですが、こういうの、今でも通用するんでしょうかねぇ(笑)。 (ケイケイさん) 精神的な愛ですねぇ。商売女というのは今では風俗嬢ですが、私くらいの年齢ならともかく、若い人には難しいかな? ヤマ(管理人) 去年『鬼龍院花子の生涯』を四半世紀ぶりに再見したんですが、惚れて所帯を持った政五郎(仲代達矢)の恋女房の歌(岩下志麻)が、いつしか寝所から遠ざけられるようになっていて尚、姉御として囲いの女性たちに、親分の寝間に誘われないことを以って揶揄し、挑発している場面がありました。強がりでもあるのかもしれませんが、環境に適応するために“割り切れれば何でもできる”のが女性だということなんでしょうね。 (ケイケイさん) 将軍の御台所や身分の高い昔の女性が、世継ぎが産めなくて夫に側室をあてがったりしたでしょう? そしてその女たちの姑のような存在になる。 ヤマ(管理人) 御家大事が何よりも優先されていたからですよね。 (ケイケイさん) 身分安泰やそうしてまでその男性の傍にいたいからと感じて。「“割り切れれば何でもできる”のが女性」では言い切れない、哀しさを感じますけどね。 ヤマ(管理人) たぶん我が身の安泰や離縁を恐れて、ということではなくて、家の存続が、先祖子孫に対し、いま生ある者の性別を超えた最大の務めという意識だったからでしょうね。 (ケイケイさん) 家に対しての概念が今とは違いますからね。でも、安泰もあったと思うなぁ。昔は離縁される女性は、本当に行き場がなかったでしょう? そういう計算も働いたと思いますよ。 ところで、男性だって前立腺やその他諸々、男性機能が低下する病気はあると思いますが、それで女性がどうのこうのというのは、あまり聞いたことがないですね。やっぱり女性が性を渇望しては、はしたないという観点からでしょうか? ヤマ(管理人) はしたないと我慢しているのではなく、上述した「環境に適応するために“割り切れれば何でもできる”のが女性」ということに尽きるように僕は感じてますね。何でもできるの究極が、なくたって構わないってことになってるのでしょうね。 (ケイケイさん) それはそうでしょうね。なくても構いませんよ(笑)。男性はなくては困りますか? ヤマ(管理人) いまどきの草食系男子ならともかく、そりゃやっぱ、少々不都合には思いますねぇ。 (ケイケイさん) じゃあ最近の男子なら大丈夫な確率は高いと(笑)。 ヤマ(管理人) 女性化しているそうですから、そうなんじゃないでしょうか(笑)。他方で、女性のほうには“割り切れれば何でもできる”が「なくたって構わない」には向かわずに、不能の夫との性交渉は諦めて外での渉猟に耽るという形になる場合もあるように思います。 (ケイケイさん) 最近流行りの肉食女性ですね(笑)。人にもよるでしょうけど、私は、女性には少ない気がしますね。 ヤマ(管理人) 多い少ないは、僕にはさっぱり見当が付きませんが、いるのは間違いなく、また、それが顕在化してきているということはありそうですね。 いずれにしましても、少なくとも、できない相手に対して囚われたまま渇望するなどという“環境不適応”は、あまり女性的ではないような気がしますね。 (ケイケイさん) でも、男性は責められている気にはなりませんか? 妻が貞淑なら貞淑であるほど。 ヤマ(管理人) どうなんだろう?(苦笑) 責められている気になるよりも、自分を情けなく思うのが先なんじゃないのかなぁ。 (ケイケイさん) 情けない!なるほどねぇ。男性とはかくもデリケートなんですね(笑)。 -------重要なのは、行為そのものよりも“証”------- (ケイケイさん) ヤマさんが日誌に綴っておいでる「(ニック)もまた、その乳房を失った手術跡に優しく唇を寄せ、彼女を“最高の女”として見てくれる眼差しゆえに、ジーナにとっては(機微の勘所を理屈ではなく勘として体得している)男だったのだろう」という感興について言えば、乳房を失ってから関係を持ったというのがポイントかもですね。乳房があってもなくても、自分は女だという証になりますから。 ヤマ(管理人) 同感です。アイデンティティが脅かされたときって、男女問わず人間には最大の危機ですからね。村井夫妻のようにほっとできなかったジョン・ジーナ夫妻の場合は、ジーナに勝るとも劣らず、ジョンが傷ついていたであろうことが想像に難くありません。 (ケイケイさん) でしょうね。夫も傷ついたというのはわかります。 ヤマ(管理人) そこでジョンは、ジーナと同じくジョンも他所で試したはずだ思われますか? それとも、事態に打ちのめされて、他所で試すどころか、セックス自体から逃げるようになっていったはずだと御覧になりますか? (ケイケイさん) 後者ですね。出来ない場面で、今日もダメだったみたいな描写、なかったですか? ヤマ(管理人) なるほど。そう言えば、あったような気がします。でも、もしそれが、他で試して自信回復を得たからこその再挑戦で、そのうえで再度敗れ去っていたのであったりすると、更に情けなくなるでしょうね。 (ケイケイさん) ジョンは、復活するなら妻でと思っていた気がします。妻は女に拘ったけど、夫は「夫」に拘ったんじゃないかなぁ。 ヤマ(管理人) なるほど。 『花と蛇2』を御覧になって、エースの錠にいたく感激しておいでたケイケイさんですものねー。 (ケイケイさん) あのときのエースの錠は加齢ですから(笑)。でも、可哀想でしたよ、金髪のカツラに赤のルージュですもの〜。おまけにバイアグラで死んじゃうし(笑)。これがお笑いにならずに、滑稽で哀しいストーリー展開になっていたら、もっと女性にもお勧め出来たんですけどね。残念。 2010/01/26(Tue) 22:46 「チネチッタ高知」掲示板 No.1398より ヤマ(管理人) お茶屋さん、こんにちは。 拙サイトの次回更新でアップする日誌を綴ったんで、うろうろしてたら、タイミングよくこちらにも!(喜) お茶屋さんも「罪と罰」に足場を置いて受け止めたんですねー。今回、ほぼ同じような観方をしておいでで思わずニンマリ。さっき回ったTAOさんなんかは、「愛と死と再生の二重奏」だそうで、それも、成る程〜だよね。ケイケイさんのキーワードは“子捨て”だったし、やっぱりあちこち読んで回るのは楽しい(ふふ)。 (お茶屋さん) ヤマちゃん、いらっしゃいませ。 ヤマちゃんも「罪と罰」でしたねー(^_^)。「なんか、詳しい〜」と思いながら読ませていただきました。 ヤマ(管理人) で、拙日誌では言及してないんだけど、実は僕も『ロミオとジュリエット』というのは、頭を掠めたことだったので、あ、来た来た!と(笑)。 (お茶屋さん) わはは。『ロミオとジュリエット』と思った人は、きっといると思っていました〜(笑)。 ヤマ(管理人) 「現代の『ロミオとジュリエット』はオリジナルより複雑で、ハッピーエンディング」なんていうフレーズが浮かんでたら、僕も記してたのになぁと感心してまーす。 (お茶屋さん) 私は、未成年者の犯罪という視点で観ておりまして、心に傷を持つシルヴィアが子どものときのままの心で、母のことも自分のことも勘違いしたままだということを書いておけばよかったと、早々にアップしたことを悔いております。って、そんな大げさな(笑)。 週末にはケイケイさん(再読)、TAOさんの感想も巡回しまーす。パンフレット買うのを忘れたので、ガビーさんに頼んであります。よい映画でしたね。 ヤマ(管理人) 先ほどHPにアップした拙日誌は、mixi日記でも「なんか、詳しい〜」だとか「なんか、クドイー」と笑われてしまうのかも(たは)。 それはそれとして、シルヴィアの「子どものときのままの心」ってとこ、も少し詳しく教えてくださいませんか? (お茶屋さん) ヤマちゃんの日誌でチラシに「あの日、私は心を封印した」ってあったらしいことを知ったんだけど、それに似てるかな。日誌にあった「あの日」は、私はハウス炎上の日だとは思っているのですが、その前の母の行為現場を見たときも相当ショックだろうとは思っていて、母が乳房のことでどういう思いでいるかや大人の事情は彼女に知るよしもなく、これで母を淫らだと思い込んだと思うんです。 それで子捨ての理由を娘当人に話すときも“淫らな血という意識”があったようなので、三十路となっても十代のときの母への思いを引きずったままで、心の成長ができてないのだと思いました。傷ついたレコードが傷のところで繰り返すみたいに、痛々しいセックスを繰り返すだけでは、大人にはなれないよねと。人との接し方は娘の方がずっと大人だ(^_^;。そういうようなことです。 ヤマ(管理人) ありがとう、よく解りました。「十代で傷ついたときのまま」ってことだったんですね。そのへんを確認したかったんです。 「あの日」をトレーラー炎上の日と観るのは、最も素直な観方ですねー。いつもながら、素直さにブレがないってとこが立派だなぁ(感心)。 (お茶屋さん) ありがとう(^_^)。単純だとよく言われます(笑)。 ヤマ(管理人) 心、封印したわりにサンティアゴと駆け落ち?って気がしなくもないけど、封印たって、何もかも一切合財封印すると言うことではなくて、母に対する想いへの葛藤とか罪の意識とかって部分についてのものだって場合もありますものね。 「人との接し方は娘の方がずっと大人だ」というのは、確かにそうですね。負った傷の痛みを荒淫という別の痛みで掻き消そうとしてしまうことなぞ、アンナの歳では埒外な分、大人になる道に迷わず進めたのかも(笑)。ま、アンナの場合、おそらくは父親サンティアゴの存在が大きかったろうと思うんですけどね。 (お茶屋さん) ですよねー。サンティアゴ、素晴らしい! ハウス炎上の日に「心、封印したわりにサンティアゴと駆け落ち?」と言われれば、そうですよねー。これについては、重い秘密を抱えると『ある愛の風景』の人みたいになると思っているんですが、一方で救いを求めていたとしたら、それでズバリ救い主に会えちゃったら、あんなになるのかなーと思ってみたりでした。 |
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by ヤマ(編集採録) | |
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