『あの日、欲望の大地で』(The Burning Plain)
監督 ギジェルモ・アリアガ


 高校中退と思しき形で身籠り出産した娘マリアが長じて十二歳ということなら、シルヴィア[マリアーナ](シャーリーズ・セロン)は三十歳前後となるわけだから、シャーリーズ・セロンの貫禄からして、ちょっと無理があるような気がしたけれども、彼女の出演当時の実年齢は、三十三歳ぐらいだったようだ。大した貫禄、そして、キャリアだと改めて驚いた。さらには、役者としての格が現段階にまで至っていても、濃厚な絡みまではないものの出し惜しみすることなく裸像を晒してくれるわけで、その心意気が実に天晴れだと思う。そして、それだけ力が入っていたのは、やはり、帰船母港たり得る“ホーム”を持てない心の傷を抱えた女性を演じることに対する彼女の個人的な思い入れの深さゆえなのだろうとも感じた。そして、十代のマリアーナを演じていたジェニファー・ローレンスが、垢抜ける前のシルヴィアとして、十二年後の彼女との連続性を確かに窺わせる見事な演技をしていて印象に残った。

 シルヴィアがレストランのマネージャーとして、てきぱきとした仕事ぶりを見せる一方で、ゆきずりの男との性遍歴を重ねる姿が描かれる序盤に登場したベッドシーンがなかなか重要で、美しくも官能色や淫蕩感が露とも感じられない味気なさが効いていたように思う。無防備な投げ出し感どころか、積極的に危うさを求めている感すらあって、セックスを楽しんでいる様子は全く窺えず、事後に漂わせていた寂寥感と孤独の風情が、ベッドを抜け出て全裸で窓辺に立っていた姿ともども印象深い。加えて、勤務中に煙草休憩を告げて外出した海辺の岩に腰掛けて自身の内腿を石片で擦り切ったり、自殺の名所にもなりうるような絶壁の断崖に立って強い海風に煽られている姿が映し出され、彼女にいったい何があったのだろうかと思わせるような苦しく厳しい心象が巧みに描出されていたように思う。

 既婚者同士の不倫関係にあった中高年男女がそれぞれの婚姻相手との間でもうけていた息子と娘の恋愛タブーというのは、近親相姦までには強くないが故に、却って露に家族から責立てられ、およそ理解と許容が得られにくいとしたものなのだろうが、シルヴィア[マリアーナ]の自傷癖がどこから来ていたのかが偲ばれるようになってくるにつれ、その負っているものの重さに気が滅入ってくる。そして、その発端となった母ジーナ(キム・ベイジンガー)の不倫の始まりが、もし、乳癌手術による乳房切除と共に訪れた夫の不能であり、そのことからくる性的渇望であったとするならば、彼女の夫ジョンは、娘の不審を買ったことで限界を感じた彼女が不倫相手のニックに別れを告げた後、何か取ってつけたかのように季節外れの庭先ピクニックを始めて家族団欒による出直しを企図したときにも、長じた子供たちとは違って、きちんと付き合うような良人だったのだから、これもまた痛々しい話ではある。

 だが、ジーナと身体を合わせたままベッドで焼死した不倫相手ニックの息子サンティアゴ(ダニー・ピノ)は、なかなか大した男で、去っていったマリアーナの写真を今なお壁に貼り、パパっ子娘マリアとの父子家庭を質実に営んでいたから、サンティアゴの同僚カルロスとマリアに導かれるようにして、十三年前にサンティアゴと駆け落ちしたメキシコに戻り得るに至ったマリアーナは、遂に“ホーム”を見い出すことができるようになるのかもしれない。

 サンティアゴがメキシコに留まり続けていたのは、おそらくは、家を出たマリアーナに彼ら親子の居場所が判らなくなるのを避けてのことなのだろうが、あの暮らしのなかで、どうやって改名もしているシルヴィアの居場所を見つけたのかはさて置いて、不慮の事故によって入院したことで、自分は残ってカルロスに娘を連れて会いに行くよう求めたのがなかなか天晴れだと思う。夫子を捨てて家出した妻が十二年ぶりの邂逅を素直に受け入れられるとは思えないなかであればこそ、やむなき事情を加えて会いに行かせることができる機会を逃す手はないわけで、果たしてマリアーナは帰還を遂げた。あれがマリアを連れたサンティアゴ自らの訪問だったら、彼女は戻れなかったのではないかという気がしてならない。そのような機微の勘所を理屈ではなく勘として体得しているのがサンティアゴであり、ジーナの心身を捉えたサンティアゴの父もまた、その乳房を失った手術跡に優しく唇を寄せ、彼女を“最高の女”として見てくれる眼差しゆえに、ジーナにとってはそのような男だったのだろう。

 もとより、過失では済まない未必の故意を問われても止む無い重大な過ちをマリアーナが犯すに至った顛末への責は、彼女にあるものではないけれども、犯した過ちによって受けた咎は、その過ちの重大さに見合った過酷なもので、自罰というよりも、まるで刑期十二年の“神罰”を受けていたように、僕の目には映った。そして、人間社会が法によって下す刑罰の形式性に比して、神罰というものの内実の重みをひしひしと感じた。本当の意味での罰を下せるのは、やはり法ではないのだろうと改めて思う。それからすれば、厳罰化などというものは、罰ではなく腹いせでしかない気がしてならない。彼女が負っていた厳しい孤独と苦しみは、法定刑罰に服することで負うものとは根本的に違うような気がする。そういう意味において、カルロスがマリアを連れて彼女に会いに行く役を担うことになった顛末を単にサンティアゴとの友情だけでは済まさずに、墜落事故にあった飛行機への搭乗を替わってもらった負い目を添えて描いていたことが効いていたように思う。負い目や罪、不幸などというものが、決して“自業自得”や“自己責任”などという言葉で片付けられるものではないことを示すうえで、ジーナとニックの不倫の果ての無残な焼死やマリアーナの自傷癖、荒淫と併置して、カルロスの負い目を窺わせることに作り手側からの深い意味が込められているような気がした。

 また、いつになく邦題が気に入った。
 画面にても強く印象づけられた“Burning”を“欲望”に解題し、“Plain”に対しては、よりスケール感を与えるとともに「基盤」のイメージを付与する“大地”に換言したうえで、ことの発端というものに目を向けさせる“あの日、”を加えたところに妙味があるように思った。チラシに記されていた「あの日、私は心を封印した」と呼応させて“あの日、欲望の大地で、私は心を封印した”とした場合の“あの日”という限定は、原題に沿って「トレーラーの燃え上がった日」が相応しいのか、それともその日に先立つ、燃えさかる欲望に身を委ねて「全裸で男に跨る母の伸びた背筋と尻を覗き観た日」が相応しいのか、或いは、生まれ出たのが娘だったことで、誕生後まもなく「夫子を捨て出奔した日」と受け止めるのがいいのか、マリアーナの心の封印の起点日というものについて想いを巡らせる触発を与えてくれたように思われる。それで言えば、彼女の起点日は夫子を捨て家を出た日だったように僕は感じるのだが、もしマリアーナとサンティエゴの間に生まれたのが娘ではなく息子だったら、彼女は家を出ていなかったような気がしてならない。



参照テクスト:ケイケイさんの「映画通信」掲示板
         お茶屋さんの「チネチッタ高知」掲示板 過去ログ編集採録


推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/1001_4.html
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20091001
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1301734189&owner_id=3700229
by ヤマ

'10. 1.22. 美術館ホール



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