『宮廷画家ゴヤは見た』をめぐって
ミノさん
ケイケイさん
ヤマ(管理人)


  ◎掲示板 No.7909から(2008/10/12 20:03)

-------前振りは『エミリー・ローズ』-------

(ミノさん)
 確かここの掲示板だったと思うんですが、『エミリー・ローズ』でいろんな議論がされていて、見てなかったんで残念に思ってました。で、昨夜見ました。ヤマさんのように民主主義まで壮大に思い及びませんでしたが、あっぱれな裁きですよね。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、ミノさん、ありがとうございます。
 そういうことをご記憶いただいていて、念がけてもらえるのは、管理人冥利に尽きる話です。
 おっしゃってくださったのは、No.7770あたりからの件でしょうか?

(ミノさん)
 私が何が怖くなったかと言うと己の信仰心のないことです。

ヤマ(管理人)
 僕は特定宗教に帰依する部分はないけれども、神と呼ぶかどうかはともかく、なんとなく人間を超える存在というものに対しての思いというのは、ありますね。

(ミノさん)
 宗教性を捨てて生きる個人の足元は危ういなあ、と。

ヤマ(管理人)
 そうそう、そういったとこに通じる感覚です、僕のも。

(ミノさん)
 それでもひとは、試練の中でも自分の物語をみつけていくものではあると思うのですが。ヤマさん書かれているように“信じる力”はポイントですよね。

ヤマ(管理人)
 このへん、昨日観たばかりの『宮廷画家ゴヤは見た』にも通じてくるところのある主題ですよ。

(ケイケイさん)
 ヤマさん、ミノさん、こんにちは。
 私もエミリー・ローズ宮廷画家ゴヤは見た両方を観て、真逆のような描き方なのに、両方納得している自分が不思議です(笑)。きちんとキリスト教を勉強している方には、何の不思議もないんでしょうね。

ヤマ(管理人)
 僕もきちんと勉強したりしてませんので、そのへんは、よく分からないんですが、篤い信仰ゆえにエミリーに宿った力が常に約束されているわけではないのに、エミリー・ケースを前提にしているのが異端審問というわけですよね。そのことでもたらされる惨劇の有様は、イネスに限らない話で、惨劇ではないにしても、ロレンソの人生も変えてしまうわけですからね。

(ケイケイさん)
 私は『宮廷画家ゴヤは見た』での登場人物では、エミリーに一番近かったのは、ロレンソ神父でもなく審問所長でもなく、イネスだったかと感じています。

ヤマ(管理人)
 ほほぅ、そうご覧になりましたか。そう言えば、二人とも、選ばれし人としての受難を全うしたのかもしれませんね。そういう観方もあるかもしれませんが、僕には、信仰がイネスを支えていたようには思えず、むしろ『宮廷画家ゴヤは見た』のほうでは、神の不在のほうが主題になっている気がしています。

(ケイケイさん)
 エミリーに一番近かったのがイネスだったあたりに、二つの作品を解くカギがあるような、ないような(笑)。

ヤマ(管理人)
 あぁ、それはそうかもしれませんねー。信仰の部分は留保して“受苦と試練”の観点からすれば。

(ケイケイさん)
 ではヤマさんの日誌、楽しみにしています。

ヤマ(管理人)
 12人の怒れる男に続いての激励をいただき、恐縮です。ひとつ、頑張ってみましょう。日誌、綴ったら、僕も拝読に伺いますねー。

(ケイケイさん)
 では、日誌がまだなので、ちょっとだけ(笑)。

ヤマ(管理人)
 お気遣いいただかなくて良いように、先に拙日誌を仮アップしちゃいました(笑)。

(ケイケイさん)
 どうも急かせてしまったようで、すみませんm(__)m
 でもこれで心おきなくお話出来ます(笑)。

ヤマ(管理人)
 嬉しいですね〜。


-------イネスの姿に何を観たのか-------

(ケイケイさん)
 信仰がイネスを支えていたようには思えず、むしろ『ゴヤ』のほうでは神の不在のほうが主題になっている気がしています。
 いえいえ、信仰心がイネスを支えていたとは思っていません。

ヤマ(管理人)
 ですよね。
 そこんとこが『エミリー・ローズ』のエミリーとの大きな違いだと思います。

(ケイケイさん)
 むしろ信仰薄い女の子でしたよね?

ヤマ(管理人)
 あの時代に、兄さんに連れられてとはいえ、売春宿兼酒場へ行くお転婆娘でしたからねー。

(ケイケイさん)
 それが牢獄に繋がれて、藁をも掴む思いで神に祈る姿が、強く印象に残っています。

ヤマ(管理人)
 裕福な商家の一人娘として思いのまま伸び伸び生きてきてたであろう彼女に、藁をも掴む思いで神に祈らなければならないような出来事は、それまで一度もなかったでしょうから、物凄い落差ですよね。しかもそれが、勧められた豚肉を食べなかったからってなことでの召喚ですからね。強烈です。

(ケイケイさん)
 拷問シーンは少しでしたが、他に繋がれている人の様子や素っ裸のイネスの様子などを観ると、自尊心がぐちゃぐちゃになるような扱いを受けているんだなぁと痛感しました。

ヤマ(管理人)
 あの拷問シーンは、力が入っていましたねー。
 なにも素っ裸にする必要はないはずなのですが、ゴヤから天使のモデルを頼まれるほどのイネスの可憐さが拷問者の嗜虐心を掻き立てたんでしょうね。他の入獄者もみな全裸にされているわけじゃありませんでしたものね。

(ケイケイさん)
 この天使のモデルというのも、私の解釈には重要でした。彼女は素行を描写していた時は、これは容姿だけを言っているのかと思ってたんです。でものちのちの展開で、キーポイントに感じるようになりました。

ヤマ(管理人)
 なるほど。それは成程のご指摘ですね。ケイケイ説に立つうえでは、非常に重要なポイントになりますね。民衆なのか、天使なのかを決めようとすることには、意味がありませんが、なぜ犠牲者の象徴(人民)と感じたのか、神に選ばれし使い(天使)と感じたのか、言葉を交し説明し合うなかで、自身においてより明瞭になってくるのは、心地よいし、相手の受け止め方に納得感が増してくるのは喜ばしいですものね。

(ケイケイさん)
 なのであの老婆のような姿も、とても重要ですね。

ヤマ(管理人)
 ここんとこ、も少し詳しくお願いします。

(ケイケイさん)
 やつれたと言う言葉では、あまりに軽く感じるほどの変わり方でしたよね。

ヤマ(管理人)
 はい。強烈でした。『Vフォー・ヴェンデッタ』でも驚きましたが、それ以上でした。
 ナタリー、凄いですよね。コールド・マウンテンが契機じゃないかと僕は思ってます。

(ケイケイさん)
 最初大ショックだったんですが、ゴヤを訪ねた時の思わぬ健啖ぶりに、すごく生命力を感じたんです。そして、ことの顛末をゴヤに話して、協力を願い出てましたよね。あの辺りから、容姿の荒みようは、私的にはあまり目に入らなかったんです。感想にも書きましたが、美しかった時のイネスにはない、清らかさと強さを感じました。

ヤマ(管理人)
 なるほどねー。

(ケイケイさん)
 何と言うか、強いジェルソミーナというか。ジェルソミーナは儚げな聖女だったけど、こちらは母性もまとっているので、百人力ですよ(笑)。

ヤマ(管理人)
 母は、強し!(笑)

(ケイケイさん)
 あの容姿はその内面を際立たせるための、アイテムのような気がしたんです。

ヤマ(管理人)
 ほぅ〜、そう御覧になったのですか(感心)。あまり適切な喩えではないかもしれませんが、「襤褸は着てても心は錦」みたいな際立ち効果ということですね。インパクト、ありますよね。

(ケイケイさん)
 で、話をイネスが拷問されていた場面に戻すと、そこへ自分に優しくしてくれるロレンソが現れたんですよね。まさに神様みたいに思えたんじゃないかなぁ。その気持ちがずっと彼女を支えたんだと思いました。

ヤマ(管理人)
 衣服とも言えない布切れでしたが、掛けて包んでくれたときには、本当にそんな気持ちになったことでしょうね。とはいえ、それがずっと支えになるほどの強さで持続していたとも思えず、むしろ、寄り付かなくなったことへの不信感に苛まれることのほうが多かったのではないかと思いますが、15年の時を経て解放され、彼が生きていることを知らされて蘇った想いのような気がしています。

(ケイケイさん)
 その意味では、彼女の気持ちを持続させた原動力は、出産直後に離れ離れになった赤ちゃんがポイントだったんだと思っています。

ヤマ(管理人)
 彼女の生命力をからくも保たせたのは、そこのところだというふうに描いていたと僕も思います(賛意)。宗教教義や社会思想といった観念的信念ではない“身体感覚に基づく力”のほうが、生身の人間に対しては、遥かに奇跡的な力を与えるという対置が示されていたと思っています。神は不在でいいわけです(笑)。

(ケイケイさん)
 イネスは良い両親、家庭に恵まれていましたでしょう? 特にお父さんは、強くて立派な人だと思いました。

ヤマ(管理人)
 同感です。トマスの行動力と果敢さには、迷いも揺るぎもないかっこよさが印象付けられていましたよね。
 ここのところも、教義や思想といった観念的信念とは違う実体性としての対置を意識していたから、あのように演出されていたのだろうと思います。

(ケイケイさん)
 それは感じました。教義に振り回される馬鹿馬鹿しさと、生身の生活者の強さを、力を込めてイネスのお父さんで表現していましたよね。
 なので父親=ロレンソという存在は、彼女の中で無条件で“価値ある存在”だったんじゃないですかね?

ヤマ(管理人)
 そーか、成程ね〜。僕には、そんなふうには繋がってきませんでしたが、イネスにとってのトマスの存在の大きさから、そっちへ連想されましたか。面白いですねー。彼の言葉を信じるとも疑うともなく、分別の働かせようのない状況で身を任せ、深い関係を結ぶと観て日誌に綴った僕と、ロレンソに父親を重ね、価値ある存在として無条件で受容したと御覧になるケイケイさんとでは、かなり違っていると思われますが、どちらに立って観ても、この作品が堂々たる佳作で、観るに足る映画であることに破綻を来たさないですね。

(ケイケイさん)
 あっ、いえいえ、この状況の時に父親と重ねていたのではなく、子供を出産した後、イネスはロレンソを自分の父親と同じく、無条件に愛を受け愛を捧げる対象として、思い続けていたということです。関係を結んだ時は、ヤマさんのおっしゃる通りだったと思います。

ヤマ(管理人)
 あ、そうでしたか。子を授かるというのは、ホントに強烈な出来事なんですね。
 僕は、男のせいか、授かり自体ではなかなかピンと来ず、育ちの関わりのなかでようやく父親実感を持てた覚えがあります。もちろん男でも、それどころか生まれる前から、その気になれる人もいるわけですけどね。無条件に愛を捧げる対象たる我が子の“父親”ゆえにロレンソも愛の対象となったわけで、つまりは、愛すべきは“男”ではなく“父”、そして、父なるものをそのような存在としてイネスに植えつけたのは、実の父、トマスだったというわけですね。
 言うなれば、僕のほうが観察的な傾向が強く社会的観点に足場があり、ケイケイさんのほうが情感的な傾向が強く人間的観点に足場があるという、互いの個性の違いが映り方の違いになっているに過ぎないだけで、それだけこの映画には、厚みと豊かさが備わっているということですよね。

(ケイケイさん)
 そうですよね。ヤマさんとお話してて、またしても情に溺れる自分を発見しています(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕にとっては、とても興味深い視点でした。
 イネスの場合、神への祈りも“支え”というほどの強度ではなく、それこそ嘗てと同じように“藁にも縋る”みたいなものながら、一家を惨殺された後において、彼女にとって最も縁深き者となれば、彼を置いて他にはありませんでしたからねぇ。

(ケイケイさん)
 でもこれも充分に納得できる解釈ですよね。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(ケイケイさん)
 イネスはロレンソが聖職から離れたとは知らないのだし。
 ヤマさんはあの時点では、イネスは正常な判断がつく状態だったと思われますか? 私はあの時点ではまだ、シャバ呆けはしていますが、正常だったと感じました。

ヤマ(管理人)
 牢獄から解放された時点で心身が衰弱し、既に精神にも変調を来たしていたと思っています。顔が引き攣るように口元をゆがめていたのは、その時点からでしたから。

(ケイケイさん)
 なるほど。あの口元は、インパクト大でしたね。人から尊厳を奪い取ったような気がしました。

ヤマ(管理人)
 同感です。まして、その前のイネスの可憐さがありますから、際立ちますよね。あの姿を観て“無惨”を想わない人はいない気がします。観客がロレンソを憎むべき存在として受け取るだけに偏りかねないリスクを負うほどに強烈でしたね。逆に言えば、作り手は、そのことでロレンソがひたすら敵役だけになってしまうことのないだけの人物造形を施している自負があればこそ、イネスの無惨をあそこまで際立たせた気もします。
 でも、判断力的な部分では、まだまだ正常と言っていい状態にあって、迷わず家に帰りましたよね、ふらつきながらも。そこで家族が惨殺され、家財が略奪され破壊されて天涯孤独に追いやられていることを突きつけられ、更なるダメージを受けるわけです。

(ケイケイさん)
 私はここでまっすぐゴヤのところへ行ったのに、注目しました。親が亡くなって誰を頼るかというと、多分幼かった時から可愛がってもらっていたろう、ゴヤですよね?

ヤマ(管理人)
 幼い時からか、モデルになったときからかはともかく、自宅の次に向かったのがゴヤの家だったのは間違いないですね。

(ケイケイさん)
 その判断に、観た目より正気を感じたんです。

ヤマ(管理人)
 同感です。ですから、僕もケイケイさんが「あの時点」と書かれた部分を少し確認したい意味もあって、牢獄・帰宅・精神病院と小分けにして少々くどく書いたのでした。
 そして、精神病院にまで送られてしまったでしょう。そこで再び、重ねて非人間的な扱いの元で幽閉されて過ごすわけで、彼女の精神の変調は、その時点で相当に進んでしまったと思っています。

(ケイケイさん)
 これは同感です。もう私はね、お腹に人形を入れてたのが、可哀想で(涙)。
 アデルもピンソンの子を妊娠したと嘘ついて、お腹にクッション入れててね、ものすごく乞い願う顔で、お腹からクッションを取りだしてね、ピンソンに投げるんです。覚えてらっしゃいます?

ヤマ(管理人)
 『アデルの恋の物語』は、なにせ三十年近く前に観たので、すっかり忘れていましたが、言われてみれば、あぁ、確かにそうだったという気がします。ケイケイさんは、ラストのイネスにアデルを観たというよりも、ここんとこでアデルが浮上してきていたから、ラストがそのように映ったんですねー。
 でもってイネスについては、僕は、その精神の変調にダメ押しをしたのが、見違える姿で再び現れたロレンソの存在だったような気がしています。

(ケイケイさん)
 ロレンソには精神病院に入る前に一度会ってますよね? 病院へはロレンソの手によって入れられたんですよね? それからロレンソと再会したのは、死刑台じゃなかったですか?

ヤマ(管理人)
 あ、そうでしたっけね(たは)。じゃあ、ダメ押しの部分は、逆の順になりますね。
 見違える姿のロレンソに再会しながら、突き放されてしまった時点で彼女の精神の変調が相当に進み、精神病院に送られたことがダメ押しになったという順番になりますね。うん、確かにそのほうが自然ですね。


-------エミリーとイネスの共通点-------

(ケイケイさん)
 私がエミリーに一番近かったのがイネスだと上に書いたのは、信仰心厚き人のほうが、屈折したり敗北したりするなか、信仰から一番遠そうなイネスを、強くて無垢な魂を持つことを体現する者に、神様が選んだと感じたからです。エミリーも神に選ばれし人だったでしょう?

ヤマ(管理人)
 確かに、あの状況を生き延びた強さと無垢なる無力さは、かなり意識的に描かれていましたねー。
 でも、拙日誌に綴ったように、僕は、イネスを権力者の犠牲になった民衆の象徴として受け止めていたので、彼女を“神に選ばれし人”としては観ていなかったのですが、先の返信に「二人とも、選ばれし人としての受難を全うしたのかもしれませんね」と書いたように、そのような観方も当然あるでしょうね。

(ケイケイさん)
 私もヤマさんの日誌を拝読して、神の不在説もなるほどと納得しています(^−^)。この辺は私が得させていただきました(笑)。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(ケイケイさん)
 だからそういう意味では、私は、神の不在を描いているとは思ってないのかな?

ヤマ(管理人)
 そうですね。伺っていると、そんな気がします。“選ばれし人”という観方からして、不在は有り得ませんよ(笑)。

(ケイケイさん)
 この辺はすごく難しいです。映画を解釈するため、ちょっとキリスト教が勉強したくなりますね(笑)。

ヤマ(管理人)
 それは、いいかも。動機がはっきりしているものは、成果もあがりやすいですよ。これも教養のうちなんていう澄ました勉学心では、なかなか身につきませんよね(笑)。

(ケイケイさん)
 映画の作り手に神の存在不在についての問題意識があったにしても、イネス自体は、無自覚に近かったんじゃないでしょうか?

ヤマ(管理人)
 ええ、エミリーのような使命感は負っていませんよね。

(ケイケイさん)
 子供は「授かりもの」っていいますし、それが故、神様から授かったのかと思いました。

ヤマ(管理人)
 イエス・キリストの誕生も、実はあのような形のものだろうとの寓意もあったのかしらね?

(ケイケイさん)
 キリストはまた別なんじゃないですかねー。

ヤマ(管理人)
 やっぱ?(笑)

(ケイケイさん)
 アリシアはマグラダのマリアになっちゃったし(笑)。
 私も監督は、神の存在は否定していたと感じてたんです。

ヤマ(管理人)
 ほほぅ。

(ケイケイさん)
 最後の姿まで、イネスの強さは母性だと思っていましたから。そのほうがわかり易いですよね。

ヤマ(管理人)
 はい。同感です。

(ケイケイさん)
 あのラストを観て、ミスリード的に作ってたんだと、私的には感じています。当たっているかどうかは不明ですよ(笑)。

ヤマ(管理人)
 あの荷車に付き従うイネスの姿に幸福感すら覚えたとのことですから、ある意味、宗教的恍惚とも言えたりしますよね。そこに宗教的なものを織り込んだとすれば、「監督は、神の存在は否定していたと感じてた」点からすれば、確かにミスリードを仕掛けられたような気がするかもしれませんね(笑)。



-------ケイケイさんの映画日記から-------

ヤマ(管理人)
 先ほど、ケイケイさんの映画日記、拝読しました。

(ケイケイさん)
 ありがとうございます。

ヤマ(管理人)
 いきなりちなみに私の一番好きな監督の作品は『ラリー・フリント』とあるのを観て思わず苦笑しちゃいましたが、かの作品は、絵的にも随分と僕の目を楽しませてくれそうで(笑)、観る機会を得ていないのが本当に残念です。

(ケイケイさん)
 目の保養も確かにありましたね(笑)。

ヤマ(管理人)
 でしょ〜〜、やっぱなー(残念)。

(ケイケイさん)
 題材が題材なので、猥褻かつ下世話な描写も多かったんですが、気骨と信念に溢れる作品でしたよ。

ヤマ(管理人)
 うーむ、ますます観たい!(笑)

(ケイケイさん)
 意外と夫婦愛の部分が、あんな過激な夫婦なのに穏やかでね、その辺も印象に残っています。

ヤマ(管理人)
 ほほぅ。キンゼイ博士夫妻っぽかったの?(笑) そっちのほうも観てないんですが(苦笑)。

(ケイケイさん)
 いや、キンゼイよりずっとわかりやすい夫婦愛でした(笑)。
 銃弾に倒れた夫の病状を説明する医師に、妻が「私はこの人の脳みそが腐ったって、生きてて欲しいのよ!」と叫んだり、車椅子生活になった夫が、エイズで末期の妻を喜んでお風呂に入れようとしたり、破天荒で下品な夫婦なんですが、スポ根を観ているような、熱くてわかり易い愛情なんですよ。それも特大の(笑)。もう一度観たくなってきました。

ヤマ(管理人)
 『宮廷画家ゴヤは見た』についても格調は落とさずに人間臭く、そしてちょっぴり下世話にも感じる悲喜劇として作ってあったとお書きでしたが、このへんは、かのアマデウスにも通じるところで、ほんとに大したものですよねー。ロレンソの尻撫での手なんぞ、実に見事で(笑)。

(ケイケイさん)
 昔ジョージ秋山の『はぐれ雲』を読んだ時、「桃膝三年、尻八年」というセリフがありました。八年かけて会得したんですね(笑)。

ヤマ(管理人)
 これは、確か吉行淳之介が銀座のホステス遊びのなかで培ったものだったと思いますが、ジョージ秋山が借りちゃってたんですねー。そういう使われ方がされるとこまで来ると、もはや格言ですな(笑)。

(ケイケイさん)
 あぁ、そうでした! 私も彼のエッセーかなんかで読んだ記憶がありますね。でも、聖職者がどうして吉行クラスの手慣れたことが出来たんですかね?(笑) なまぐさ神父だったのかしら?(笑)

ヤマ(管理人)
 上にもある「父親を重ね、価値ある存在として無条件で受容した」イネスというケイケイ説に立てば、お触りをいやらしく意識させずに撫でる巧みの技としての“手慣れ”が必要となりますが、僕は「分別の働かせようのない状況で身を任せ」と観ているので、何も吉行クラスの巧みの技である必要はなく、御し難きスケベ心の発露で何の問題もありません(笑)。

(ケイケイさん)
 フォアマンは確か御両親がアウシュビッツの毒ガス室で亡くなっているんですよね。

ヤマ(管理人)
 そうなんですか。“囚われ”は他人事じゃありませんね。思えば、『カッコーの巣の上で』も囚われと自由が主題でしたし、『アマデウス』も音楽に取り付かれ囚われた男たちの物語でした。アマデウスの冒頭シーンは、幽閉されているサリエリの姿でしたしね。

(ケイケイさん)
 彼の作品に漂う人間臭さは、そういった生い立ちから生じるある種の生臭さというか、一生枯れないライブ感みたいなのかなと思っています。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。


-------ゴヤの立ち位置-------

ヤマ(管理人)
 結局誰が政権を執ろうと、一向に人民は解放されません。その様子を冷静かつ憂いを込めて見つめるゴヤ。これが、この作品の大骨格でしたよね。的確な邦題でした。

(ケイケイさん)
 一見『家政婦は見た』をもじったのかと思ったんですが(笑)、

ヤマ(管理人)
 宮廷画家だと、見たもののスケールがちと違いましたね(笑)。死者の数が比べ物になりません(あは)。

(ケイケイさん)
 観終わると秀逸なタイトルだと思いますよね。

ヤマ(管理人)
 僕は、知人から“見者”呼ばわりされたことがあるので、なおさら、この作品でのゴヤとロレンソの対置にはやられました(たは)。

(ケイケイさん)
 いやいや、それはご謙遜ですよ。ヤマさんの感想では、いつも新しい発見がいっぱいですし、楽しませていただいています(^−^)。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(ケイケイさん)
 本当は勉強になりますと言った方が座りが良いのでしょうが、感想を書く側としたら、「楽しい」と言ってもらったほうが嬉しいですよね?(^v^)

ヤマ(管理人)
 はい。そのとおりです(礼)。

(ケイケイさん)
 彼の描いた絵の背景にも触れてあったので、勉強にもなりました。
 でもあちこち短評を読んで回ると、ゴヤの存在は不要と書いてあったり、この辺も観る方の感受性でこれだけ違うのかと思い、面白いですよね。

ヤマ(管理人)
 ホントに基本線だけの筋を追うのであれば、そういうことになるのかもしれませんが、それでは、あまりに勿体ない楽しみ方ですよね。

(ケイケイさん)
 そうなんです、勿体ないんです。お金と時間をかけているので、映画はもっと貪らねば(笑)。

ヤマ(管理人)
 特に佳作なれば、しゃぶり尽くしましょうぞ(笑)。
 映画の映像は、「絵」という呼ばれ方をすることもあるのですが、その観点から言って、この作品がまさにゴヤの画業と重なる意匠で撮られているところが醍醐味でした。

(ケイケイさん)
 私は絵画には疎いのですが、本物なんだなという迫力は感じました。絵が語りかけてくるんですよね。

ヤマ(管理人)
 拙日誌の冒頭で、不器量な王妃の肖像をそのまま描くリアリズムと社会の暗部に目を向けドラマティックに描き出す物語性を備えたフランシスコ・デ・ゴヤの絵画さながらに、ある種の重厚さと生々しさで紡ぎ出したスケール感のある堂々たる作品と綴ったのは、まさにそういうことで、例えば『宮廷画家ベラスケスは見た』とはならない映画なのは、単に時代的なズレからによるものではないってとこが本作の秀逸なとこでしたね。


-------ロレンソの人物像-------

ヤマ(管理人)
 ロレンソについての“壮大な風見鶏的人生”との用語に快哉! そうなんですよ〜、

(ケイケイさん)
 ありがとうございます!
 だって壮大でしょう? 二つの国の歴史的史実に関わっているんですものね。
 ヤマさんがお書きの「強い信念を持った弱い人」という記述も、ロレンソを端的に表しているなぁと思いました。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。そして、その奥にケイケイさんがお感じになったような、観ている側が切り捨てられない部分の残る人物造形が本当に見事だったと僕も思いました。

(ケイケイさん)
 彼がただの風見鶏で命が惜しかっただけならば、フランス軍であれほどの要職にはつけませんよね。その辺がただの小心者の悪漢に感じてしまうと、味わいは薄くなりますから、

ヤマ(管理人)
 そうです、そうです。この映画で最も重要なポイントだったと僕は思っています。

(ケイケイさん)
 ハビエルは上手だったと思いますね。

ヤマ(管理人)
 はいなー。
 ケイケイさんの映画日記を拝読して、僕が自分と最も異なるところでとても興味深く且つ感心しながら読んだのが、ロレンソの最期に「改悛」を受け止め、イネスに残酷な“愛の成就”を見て幸福感すらお感じになったとの感性でした。

(ケイケイさん)
 いや〜、裁判からこっちの展開は、私も救われて幸福でした(笑)。これがあったから、イネスが神に選ばれたんだと思ったんですもんね、私。

ヤマ(管理人)
 でしょうね。神に縛られるにしても神から自由になるにしても、いずれなりとも人が生を依拠するに足る思想はないことへの絶望という僕の受け止め方は、ある意味、イネスの存在抜きでも起こるものですが、ケイケイさんの受け止めは、イネスあってのことになるわけですから、ロレンソにそのような変化を与える役割を負わせて、神が遣わしたということになりますよね。
 これだから、他の方の感想を読むことが止められなくなるんですよね〜。
 チラシや予告でいかに“愛”を謳われようが、イネスのロレンソへの想いに、僕はついぞ“愛”を冠する気にはなれなかったのですが、荷車に付き従うあのラストシーンに、お書きのような実感を触発されたなら、やはりロレンソとイネスの愛の物語とも言えますよね。ちょっと意表を突かれた感じですが、とても刺激的です。そーか、『アデルの恋の物語』か、なるほどねーっていう部分と共に…。

(ケイケイさん)
 ロレンソの選択は信念とともに、イネスへの詫びもあったと感じたんですよ。

ヤマ(管理人)
 彼の選択について、僕は上にも書いたように、信念よりも“絶望への観念”を受け止めましたから、イネスへの詫びなど想起もしてなかったのですが、そう受け止めると、救われる感じが生まれてきますね。

(ケイケイさん)
 死刑台に立つロレンソにイネスが嬉しそうに「ロレンソ!」と何度も絶叫するでしょう?

ヤマ(管理人)
 僕には、哀れの増す場面でした。

(ケイケイさん)
 そう見えて普通だと思います(笑)。でも、それに対してロレンソが微笑んだでしょう?

ヤマ(管理人)
 そうでしたっけ? 観落としたかな(ヤバ)。

(ケイケイさん)
 私はあそこには愛があったと思うなぁ。

ヤマ(管理人)
 微笑なら、そういうことかもしれませんね。でも、僕には自嘲ないし諦観の笑いに映ったかもしれません。なにせ記憶としては、残っていないので、不確かですが。

(ケイケイさん)
 自嘲ですか、なるほど。そういう風にも見えますね。この辺はまさに「観たいように観えて」いたんでしょうね(笑)。
 で、『アデルの恋の物語』との違いですが、同じように狂女となっても、ピンソン中尉から冷たくされた記憶のままのアデルより、恋しい人からの愛をもらったイネスは、その人の肉体はなくなっても、彼女の中で生き続けるんだと思って、ちょっと涙ぐみましたよ。

ヤマ(管理人)
 うーん、やっぱ堂々たる“愛の物語”だ!

(ケイケイさん)
 この観方、馬鹿馬鹿しいと思う人もいるでしょうね(笑)。そのほうが普通ですから。

ヤマ(管理人)
 そんなことはないでしょう。感心する人はいても。

(ケイケイさん)
 でもアデルより救われるので、私は自分の解釈が気に入っています(笑)。

ヤマ(管理人)
 なかなか素敵な解釈だと思いますよ、イネスのためにも。

(ケイケイさん)
 イネスが神に選ばれたと思ったのは、見事その使命を全うしたと私が感じたから。上に理由は書いてますね(^^)。

ヤマ(管理人)
 ええ、そう受け取っていました。ロレンソを風見鶏ではない人に変えるという使命ですよね。

(ケイケイさん)
 ラストの場面で、何故彼女が天使のモデルになったと最初のほうで描かれたのか、合点が行きました。

ヤマ(管理人)
 ここんとこで符合しちゃうから、キーポイントだとお感じになるわけですよね。

(ケイケイさん)
 また、審問所長は、自分は神に選ばれし人間ではないと、牢獄に繋がれ痛感したから、ロレンソの審議の時、温情を示したのだと思いました。

ヤマ(管理人)
 これは、僕は全くそうは感じませんでした。むしろ逆ですね。温情どころか、踏みにじりのように受け止めてましたから(たは)。

(ケイケイさん)
 踏みにじりですか(笑)。それはロレンソの自尊心を傷つけようとしてですか?

ヤマ(管理人)
 転向の転向という節操のない変節を迫るのだから、そうなるわけですが、彼の自尊心を傷つけること自体が目的ではなく、教会の権威を守ることでの自身のステイタスの誇示が目的です。

(ケイケイさん)
 なるほど。これは全然頭にもありませんでした。社会通念が欠けてますね、私(笑)。

ヤマ(管理人)
 そんなこと、ありませんよ。単なる映り方の違いです。僕は、この絵というか作品の構図として、対置の関係を強く意識したからそう映っただけで、描かれた人物への感情移入を優先すれば、構図的な囚われから自由になるってことに過ぎないと思います。
 審問所長の場合、その目的のためには、ロレンソの自尊心を傷つけることなど眼中にないわけです。イネスの解放をトマスからの多額の寄付金と共に申し出たロレンソを歯牙にも掛けなかった態度と根本的に何ら変わるものはない姿だと観ました。

(ケイケイさん)
 なるほど。
 私は、神が与えし試練を乗り越えて、これからの審問所長は良き方向に生まれ変わると暗示していたと思いました。

ヤマ(管理人)
 僕は、相変わらず教会の権威が第一の性懲りなさだと思ってました。

(ケイケイさん)
 所長は、今まで自分は神の使いで選ばれし者だという、奢った選民意識があったと思います。

ヤマ(管理人)
 そのことに異論はありません。

(ケイケイさん)
 それが今度は自分が審問にかけられる立場になった時、自分には神は下りてこないのだと痛感したんだと思ったんです。拷問には耐えられない(笑)。ベラベラとロレンソにアリシアの居所を語った場面で、感じました。皮肉言いながら、命乞いしてましたよね。

ヤマ(管理人)
 ええ。ロレンソよりも遥かに見下げた俗物でしたよね。

(ケイケイさん)
 今まで自分=神の発言だと思いこんでいたものが、本当は神の衣を借りて権力を欲しいままにしていたんだと、反省したんだと思いました。

ヤマ(管理人)
 そんな、殊勝なもんですか(笑)。ロレンソよりも遥かに見下げた俗物でしたから、彼には“反省”が似合いません。“転向”に耐えるだけの気概もないでしょうね(笑)。

(ケイケイさん)
 ヤマさん、厳しい〜(笑)。

ヤマ(管理人)
 あは、そうですか?

(ケイケイさん)
 でもこの説は、私よりヤマさんの観方のほうが、合っている気がして来ました。

ヤマ(管理人)
 恐れ入ります。

(ケイケイさん)
 男性社会の厳しさは、私なんかよりヤマさんのほうが、ずっとお詳しいですしね。私の説は、やっぱ甘いかも(笑)。

ヤマ(管理人)
 わりとその厳しさから免れてきてるんですけどね(たは)。

(ケイケイさん)
 でも映画を観たときは、所長は反省したのでロレンソのように神を否定せず、原点に戻って真摯に神を信仰しようと思ったから、所長から観たら道を踏み外したロレンソに、もう一度救済の道を用意したと思いました。
 この観方って優しすぎますか?(爆)。

ヤマ(管理人)
 はい(断言)。菩薩さんのごとき優しさじゃないですか、此度のケイケイさん(笑)。

(ケイケイさん)
 リアルにわかる自分のテリトリーじゃないからでしょうね。自分に関係ないと優しいんです(笑)。
 ロレンソについては、ヤマさんがお書きのように、彼は神を否定していたので、その信念を曲げなかったと思っています。

ヤマ(管理人)
 そういう態度のロレンソへの甘言による挑発でしょ。なんのためにするかって言えば、教会の権威にしがみついているからだと僕は思いました。

(ケイケイさん)
 なるほど。厳しいですね、ヤマさん(笑)。
 でも今までと同じ人なら、国の情勢は元に戻ったんですから、ロレンソなんかは、問答無用で打ち首にしませんか?

ヤマ(管理人)
 ナポレオン軍が追い出されただけで、元に戻ったわけでもないと思いますよ。

(ケイケイさん)
 それはそうですね。

ヤマ(管理人)
 あくまでイギリス軍の傀儡として王室と共に旧体制が利用されるのであって…。しかも、政治以上に宗教は人心への細工が必要でしょうから、旧体制のままではない反省点を“慈悲”という形にして見せる必要があるわけで、それによって教会権威の復権を企図していたのだろうと思います。

(ケイケイさん)
 なるほど。この概念って、そのまま政治の世界でも通用しますよね。

ヤマ(管理人)
 勿論そうです。政治以上というのは、政治もそうであることが前提ですからね。

(ケイケイさん)
 ヤマさんとお話ししていると、勉強になります。お世辞じゃなくて(笑)。

ヤマ(管理人)
 恐縮です。

(ケイケイさん)
 女性一般に、こういう思考は出てきにくいと思うんですよ。いや、賢い人は出るかも知れませんが(^_^;)

ヤマ(管理人)
 賢い云々ではなくて、関心の向き方という方向の問題だと思いますよ。
 ところで、この異端審問所長がらみでは、彼がロレンソに再転向を求めていたとき、「我が息子よ」と呼びかけましたよね。あれは、どのようにお聴きになりましたか?

(ケイケイさん)
 すみません、今度は私が聞き逃しています(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕はね、この呼びかけを、まさに“イネスの尻を撫でながらロレンソが発してた甘言と同じもの”だと受け止めました。

(ケイケイさん)
 ヤマさんの説なら、そうなりますよね。

ヤマ(管理人)
 しかも、ロレンソのあのときの言葉には、悪意の自覚も虚偽の意思も込められていなかったのですが、所長の言葉には、目的のためには手段を選ばないタチの悪さが感じられました。いけしゃあしゃあと、よぅ言うわ、あんたってなもんです(笑)。

(ケイケイさん)
 ヤマさん、所長のこと憎んでます?(笑)。

ヤマ(管理人)
 いわゆる偉い人の俗物って、けっこう嫌いですね(笑)。憎むほどコミットしませんが。

(ケイケイさん)
 でも何かわかるなぁ。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(ケイケイさん)
 私の解釈ではなくヤマさんの解釈なら、会社にいっぱいおりそうやもん(笑)。

ヤマ(管理人)
 でしょ(笑)。
 獄に繋がれる経験を経てもなおこれかとの俗物ぶりは、ナポレオン軍の司令官として権勢を振るっていたロレンソに対して、「皮肉言いながら、命乞いしてましたよね」とケイケイさんがご指摘なさっていた場面で明確に示されていたように思ってるんですよねー。

(ケイケイさん)
 ただ修道僧たちは皆、裏切り者のはずのロレンソを心配して、死刑は食い止めたいように感じたんですよ。最後まで説得していたと感じましたから。

ヤマ(管理人)
 それは、僕もそのように感じました。小役人の官吏に近い立場の人々で、権力者そのものではなく、権力者に利用されるという点では、むしろ庶民のほうに近いくらいの人々ですから、やっぱり民衆と同様に権力者の細工に乗せられちゃってるわけですよ(笑)。“見者”としてのゴヤの眼は、そこのところも余さず捉えていたというわけです。だから、『宮廷画家ゴヤは見た』との邦題が冴えてくるんですよね、僕的には。

(ケイケイさん)
 お話していて感じたんですが、充分現代の世相とも通じるし、重なる部分がありますね。

ヤマ(管理人)
 そうです、そうです。作り手は、きっと意識してるだろうと思いますよ。いわゆる史実的な歴史ドラマではありませんもの。寓意がかなり込められているはずで、社会風刺的な観点を置くとなれば、二百年前の社会を風刺しても間が抜けちゃいますものね。

(ケイケイさん)
 私はそういう普遍的な生身の現実には、全く気付きませんでした。ありがとうございます。
 所長が救済の道を用意したと思いたかったんでしょうね、私が。なので「我が息子よ」という言葉も、文字通り受け取ったと思います。それも私が感じた所長の変化に拍車をかけたんでしょうね。

ヤマ(管理人)
 ソナタが似合う善き人なんですよ、ケイケイさんは(笑)。

(ケイケイさん)
 今回の私って、本当に優しいわ(笑)。

ヤマ(管理人)
 ホントにね〜。その優しさを死ぬまでにしたい10のことのアンに少し分けてあげれば?(笑)

(ケイケイさん)
 いーえ、私のバリバリのテリトリーの、それも同性なんでね、絶対無理(笑)。

ヤマ(管理人)
 持ち出すだけ、野暮でした(笑)。 まぁでも、所長への観方の差異など、そう大きなことではないですが、ロレンソが死を選んだことに対する受け止め方の違いは、作品の根幹部分に関わることなので、大きな違いでしたね。そこのところにイネスが大きな役割を果たしていると観るケイケイさんと“人が生を依拠するに足る思想はないことへの絶望”への観念と受け取る僕では、ソナタが似合う度合いにおいて、僕が大きく後れを取っているように思いました。

(ケイケイさん)
 う〜ん、やっぱりキリスト教勉強しなくちゃ(笑)。

ヤマ(管理人)
 こいつは、お互い様ですよ(笑)。どうもありがとうございました。
by ヤマ(編集採録)



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