『宮廷画家ゴヤは見た』(Goya's Ghosts)
監督 ミロス・フォアマン


 二百年前の世紀末から新世紀にかけて、市民革命と共に湧き起こった自由主義と王政のせめぎ合いに揺れた激動のナポレオン時代のスペインを舞台にした作品だ。新旧の思想および社会体制に翻弄された人々の強さ・弱さ・愚かさ・逞しさを、不器量な王妃の肖像をそのまま描くリアリズムと社会の暗部に目を向けドラマティックに描き出す物語性を備えたフランシスコ・デ・ゴヤの絵画さながらに、ある種の重厚さと生々しさで紡ぎ出したスケール感のある堂々たる作品だった。

 さすがはアマデウス('84)、『カッコーの巣の上で』('75)のミロス・フォアマン監督作品だ。作品タイトルにゴヤの名を冠したことが遜色にならず、納得感に繋がる画面作りを果たし、映画の品格を上げることに効果をもたらしていたが、なかなかこうは撮れないものだ。それなのに、高知では、『アマデウス』以降、『恋の掟』『ラリー・フリント』『マン・オン・ザ・ムーン』も公開されずに、この作品で四半世紀ぶりのお目見えとなったわけだが、これらの三作品も観る機会を得たいものだと改めて思った。(友人からの指摘により『マン・オン・ザ・ムーン』は公開時に当地でも劇場上映されていたことが判明。訂正事項として追記しておきます。['08.11.9])


 スペインの異端審問における拷問による尋問を18世紀末の1792年になって半世紀ぶりに復活させていたロレンソ神父(ハビエル・バルデム)が、単に教会の権威や力の誇示のためにそうしているのではなく、真実であれば、神が本当に降りてきて拷問に屈しない力を信仰者に与えるのだと、本気で信じていたらしい設定が効いていたように思う。ゴヤ(ステラン・スカルスガルド)に対して、金さえ購われれば、誰の依頼であっても応えて絵筆を執る無定見を責め、自分は確かに変節したかもしれないが、その時々には常に信念を持って臨んでいたと、悪びれ臆することなく語っていたのが印象的だった。イネス(ナタリー・ポートマン)の父トマス・ビルバトゥア(ホセ・ルイス・ゴメス)から受けた拷問によって、神にそのような力はないことを身を以って知らされ、目を開かれたから、彼には感謝しているのだと語り、神に依拠しない新時代の自由主義思想に転向し、その先頭に立っていたことが、時流に乗った処世としてばかりではなく、本気の信念に基づくものであるように描かれていた気がする。そして、そのことに嘘がなかったからこそ、再度の政変で復権を果たした異端審問所長たるスペインのカソリック教会権力のトップに位置する司教(ミシェル・ロンズデール)から再度の翻意と教会への帰依を求められながらも、それを拒み、己が命や先に難を逃れてフランスに帰った家族を守るために生きながらえようとはしなかったのだろう。

 良くも悪くもという言い方をすれば、良いことはほとんどしなかったロレンソだったが、彼の弁どおり、信念の人ではあったということだ。そして、なまじ信念の強さがあればこそ、教会でもナポレオン軍でも、それなりのポジションを占めるに至るわけだが、思想を形にして社会を作るうえでの必然悪として、そういう先導役に権力が付与されてしまうのは、旧思想でも新思想でも同じ人間社会の最弱点の一つだとつくづく思った。彼のすることは、カトリック神父時代もナポレオン軍司令官時代も一貫して、人民にとっての厄災以外の何物でもないところが痛烈だった。

 その犠牲となった人民の象徴とも言うべき存在がイネスであったが、異端審問という宗教権力者の信念の具現化のための犠牲を彼女に強いるに至らせた張本人が彼であることを知らされぬままに、まるで現代の選挙制度における選挙公約さながらに、窮地においての場当たり的な甘言を吐きつつ、剥き出しの臀部を撫で擦る彼の言葉を信じるとも疑うともなく、分別の働かせようのない状況で身を任せ、深い関係を結ぶ定めにあった。イネスに向けられた彼の言葉に悪意の自覚も虚偽の意思も込められていなかったのが秀逸で、僕が選挙公約を想起する所以でもある。そして、権力によって幽閉され、その救出にはロレンソの手さえ届かない牢獄に放置されて見捨てられ、心身ともに衰弱し変調をきたしながらも、奇跡的に生き延びたにもかかわらず、解放された後も、彼を追い縋るほかに生きる術を持たないイネスの姿が描かれていたわけだが、それを愚かと言うも憚られる哀れさで描き出されていたのが印象深い。

 ロレンソの個人的なパーソナリティが悪だったわけではない。彼は“強い信念を持った弱い人間”に過ぎないわけで、カトリック神父時代もナポレオン軍司令官時代も、就いていた職務に忠実であろうとすることを一番に、積極的な生き方を重ねていたに過ぎない。信念を持って実現しようとしていた価値の権威と威厳を守ることに拘ることが同時に社会的な成功とも言える権力的な職に就いている自身の保身と繋がるなかでの弱い人間としての醜態を露呈させていたに過ぎない。イネスの美しさに心奪われ、肉欲を御しきれない聖職者だったことや彼女に憐憫の情を抱きながらも救いはできない無責任さにしても、神から解放されて自由主義に転向してから構えた家族への向かい方にしても、些か呆れるばかりの屈託のない素直さで以って時代を生きていたに過ぎないように、僕の目には映った。ロレンソがその素直さを捨て去ったのは、教会権力から再度の転向を迫られながらも、応えないままに処刑に向かう意思を示した彼の最期の場面のみだったように思う。だからこそ、そこに、神に縛られるにしても神から自由になるにしても、いずれなりとも人が生を依拠するに足る思想はないことへの絶望に観念した様子が窺えたわけで、そこのところに、この映画の真骨頂があり、作品的な深みが宿っていたように思う。そして、それこそが、稀代の観察者たる天才画家ゴヤの見届けた激動の時代の人間の姿だったということなのだろう。また同時にそれは、ロレンソから信念のなさを咎められたゴヤの“見者としての面目”でもあったように感じる。

 十二年前に井上ひさしの『きらめく星座』の舞台公演を観た際の備忘録に十年位前にTVで観たときにも思ったが、真のリベラリストとは、どういう生き方をしている人なのかを教えてくれるような気がした。憲兵、軍国主義を信奉する者、優れた認識力で時代と社会を見抜くことのできるインテリ、自己主張が殆どできない若者。通常であれば、それら相互に何の接点もないはずの種類の人たちを総て等しく、人であることに対して払う敬意でもって友人とすることのできる大らかさと明るさが心にしみる。それを育てていたのは、何が大事で何が好きで何が美しいのかといったことに対する自分の感性への素直さであったように思う。揺るぎない信念や正義を標榜するよりも、無抵抗ながらもしなやかな強さを窺わせる感性が遥かに美しいが、いかんせん世の中を動かすだけの力は持ち得ない。と綴ったことがあるが、僕は、どうも信念というものが気に入らなくて仕方がない。そのせいか、信念を持って社会的に積極的な自己実現を図って生きたロレンソの末路が処刑台だったこと、そして、それが必ずしも彼の悪行ゆえというのではない形でもたらされたものになっていることを描いたこの作品に、強く心動かされたような気がしている。


 それにしても、ウェリントン卿の率いるイギリス軍によってナポレオン軍撃退を果たし、歓喜の声で迎えつつ、異端審問所長だった司教の復権を支持するスペイン民衆というのは、どうなんだろう。思えば、イタリア人王妃を迎えていたスペイン国王はフランス人で、カソリックとの政教一体王政のあと、フランス軍人によってイネスのような犠牲者の解放を得たことを歓迎しつつも、旧体制派に扇動され、元々フランス人国王を戴いていたくせに、フランス軍支配に対する反乱としての人民ゲリラ戦の蜂起を起こして、僕が二十八歳のときに観て日誌も綴った自由の幻想(ルイス・ブニュエル監督)で決定的に印象付けられたゴヤの傑作『マドリード、1808年5月3日』にも描かれた市民虐殺に晒され、今度はイギリス軍の侵攻を歓迎するわけだ。イネスのように「それを愚かと言うも憚られる哀れさで描き出されていた」わけではないがゆえに、愚かさのほうが表に立つ感じだったのだが、それもまた、稀代の観察者たる天才画家ゴヤの見届けた激動の時代の人間の姿だったということなのだろう。原題を凌ぐ巧みな邦題がまさに相応しい作品だったように思う。ロレンソの“強い信念を持った弱い人間”との人物造形を鮮やかに果たしたハビエル・バルデムに感心し、イネスの可憐と哀れに併せ、イネスの娘アリシアの逞しさを二役で見事に体現したナタリー・ポートマンの生々しい演技に圧倒された。大したものだ。



参照テクスト:掲示板談義編集採録


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0810_2.html
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20081013
by ヤマ

'08.10.11. TOHOシネマズ3



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