『エミリー・ローズ』(The Exorcism Of Emily Rose)
監督 スコット・デリクソン


 民主主義などというと、絶対権力者の専制にはよらず数多くの民が意思決定に参加し、多数決の原理で決議することだという制度的なルールのことを意味すると考えている人が多いような気がするが、その背後にあるのは、人によって考え方も感じ方も多様に異なる人間という存在が構成する社会において、民という大勢を主とする以上、必然的に多様な価値観を許容し認め合わなければならないことを了解しようとする精神に他ならない。ところが、人間の多様な価値観の全てを許容し肯定すると、社会の秩序や安定を損ないかねないのが、あまりにも多様な価値観を有する人間の現実でもあるわけで、それに対処するためのやむなきルールとして法があるのだろうと僕は思っている。
 そういう意味で、僕にとってこの作品は、法治のなかでまさしく民主主義の精神が問われていた法廷劇として観応えのある映画だった。情報誌ぴあに載っていた紹介コメントに「70年代のドイツで起こった実話に基づき、悪魔祓いの最中に少女が謎の死を遂げた事件をめぐる裁判の行方を描いたサスペンス・ホラー」とあったが、舞台はアメリカになっていたから、実際の事件を大幅に脚色しているのだろう。その点で、僕が最も気になったのは、十九歳の女子大生に六人の悪魔が憑依したことや決定的な証言をしようとした医師が突然の事故死を遂げたことが事実だったのか否かではなくて、実際の陪審員による評決と量刑案があのように“叡智と民主主義の精神に満ちた判断”だったのかどうか、ということであった。

 信仰者を自認するトマス検事(キャンベル・スコット)が神も悪魔も信じていないどころか、他者の信心に対する“真偽を見つめる眼差し”をも失っている法曹だと映るのは、有能な検事に必要なものが“真実を見抜く目”ではなく、勝訴に向かう状況判断と戦略構想、そして表現力だからなのだろう。弁護士という職業においてもそれは同様で、不可知論者を自認するエリン・ブルナー(ローラ・リニー)は、そういう意味での職業的忠実さと野心によって成功を収めつつ、彼女自身が有罪と認めながら法廷では無罪を勝ち取って凶悪犯を解放した自身の技量に満足感を覚えていたように見える。しかし、凶悪犯が累犯を重ねたことに心を痛める点で、法廷を闘争の場と見なす“法曹”としては、未熟だったのかもしれない。そういう意味では、未だ起こってはいない犯罪の反復に責を負ったり予見したくはない職にあるからこそ、彼女が超常的な現象を信じない不可知論者を標榜していたふしも窺えないではなかった。
 だが、職を全うし、自らの野心たる成功を収めるためのやむなきルールとして、既に起こった証明できる事実のほかには関知しようとしない不可知論者を自らに課してはいたものの、彼女の精神自体は“信じる力”に富んでいたように思う。所属する弁護士事務所のボスと依頼主たる教会との間の約束だった「ムーア神父(トム・ウィルキンソン)には法廷で証言をさせない」という条件を独断で破るのは、勝訴の可能性追求以外に優先すべき何ものもないことを貫くことのできる有能な法曹闘士として、状況的には圧倒的に不利なこの裁判での逆転には神父の証言が必要だと判断したからだろうが、依頼人でもない神父の望む被告人証言について、エリンがその核心内容を明かされないままに認めた理由というのが、ムーアという人物の体現している“謙虚さ”と“信頼性”を彼女が信じたことにあるところがいい。その体現をトム・ウィルキンソンがよく果たしていて納得感があった。判決で採られた量刑が、情状といった事情が酌量されたというよりも、被告の人格が認められて酌量されたものであることに見合う人物像だったように思う。
 それにしても、神と悪魔の存在を信じるべきか否かというモラルが法廷で問われた際に、この陪審員たちのように“叡智と民主主義の精神に満ちた判断”が下せるのは相当に凄いことだ。法治という、事実要件によって制度的な敷衍性を前提に構成する結論として、あれを無罪とすれば、事実要件をないがしろにして人の内心のみに基づいて裁くことになり、当人にとってよかれと思ってしたことだとの弁によって全てが免罪され、その法において守ろうとしている価値のほぼ全てを断念しなければならなくなる可能性を孕んだ判例にもなりかねないわけで弊害が大きく、やはりguiltyが相当だという気がする。他方で、信仰心に基づくものであろうとなかろうと、本人の自己決定が、他者を害する行為でなくても許容されなくなる法治というのは、民主主義の精神に反する。ムーア神父が、聖人に名を連ねるに相応しいと讃えたエミリー(ジェニファー・カーペンター)の“受苦”には、パッションを想起させるような敬虔さが確かに窺えたように思う。農場の有刺鉄線を握った傷でしかないとも見える傷痕をスティグマだと信じることは、僕自身は叶わないけれども、ムーア神父やエミリーの自己決定を促した信仰心は尊重されるべきものだと思った。だからこそ、陪審員たちの評決に感心したわけで、この物語が実話に基づいているのならば、何よりも実話での評決内容が気になった次第だ。

 我が国で2009年5月までに導入されるという裁判員制度において、このような“叡智と民主主義の精神に満ちた判断”が下され得るようには到底思われない。ましてや先の新聞報道で目にした東京都教育委員会による職員会議での採決禁止通知における議決により校長の意思決定権を拘束する運営は認められないとの方針による『挙手』『裁決』などの方法を用いて、職員の意向を確認するような運営は不適切であり、行わないという指示が、それこそ、学校経営に係る運営方法についての校長の意思決定権を拘束する形で教育現場におろされる状況下では、“民主主義の精神”が涵養されようはずもない。方針で示した議決運営の禁止が意向確認さえも否定する運用に直結してしまう発想やその運用を行動規制としての禁止通知で拘束して徹底させようとする発想のなかには“民主主義の精神”など微塵も窺えないどころか、撲滅を企てているようにしか思えない。教育現場は、恐ろしいところに向かいつつあるようだ。


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20060318
by ヤマ

'06. 4.12. TOHOシネマズ1



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