『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト』をめぐって
(ケイケイさん)
(TAOさん)
(マタンゴ・ともこさん)
(シューテツさん)
ヤマ(管理人)


  ◎掲示板(No.7513 2007/06/30 16:10)から

(ケイケイさん)
 ヤマさん、こんにちは。『毛皮のエロス』『フランドル』拝読。私とは視点が違っていたので、とても興味深く読ませていただきました。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、ケイケイさん、それはよございました。思わぬ視点を貰えると得した気分になりますよね。僕もケイケイさんの映画日記から、よくいただいてますよ。

(ケイケイさん)
 私は、ディアンは毛皮には慣れ親しんだ感触はあっても、毛皮フェチには感じませんでした。露出症・死体愛好の性癖など、自身でインモラルな感性を認識しているのに抑えていた辛い日々に現れたのが、懐かしさを感じさせるライオネルだったかと感じていました。

ヤマ(管理人)
 そうなのかもしれません。なにせイマジナリー・ポートレイトですしね。まぁ、タイトルからして『FUR』でっしゃろ(笑)。僕は、それこそが露出症・フリークス・死体愛好といった世界に彼女を再び導く入り口の“鍵”になったものだったように受け止めました。

(ケイケイさん)
 それはそうでしたね。
 ライオネルの存在がなければ、ディアンなりに少々神経症気味だけど、、平穏な主婦でしばらくはいられたでしょうね。でもあのままの生活だと、きっと心が病んでいくだろうなとも感じさせました。この辺はニコールの演技が上手かったです。

ヤマ(管理人)
 同感です。平穏な主婦時代がちょっと良妻賢母過ぎる感じが、その辺を窺わせていたように思います。
 ケイケイさんの映画日記によれば、元々少女期にそのような嗜好の発現が見られていたんだそうですね。そのことは、知らずにいましたが。

(ケイケイさん)
 ライオネルとの会話で、その話が出ていました。

ヤマ(管理人)
 そうでしたっけ(たは)。忘れてる(とほ)。

(ケイケイさん)
 お風呂場の窓に向って裸を見せていたとか、死体を見た時、しばらくぶりだと興味津津な時、幼い時公園のベンチで死んでいたホームレス(?)を凝視している時、母親がディアンの目を隠すシーンが出てきていたでしょう?

ヤマ(管理人)
 そう言えば…(あは)。

(ケイケイさん)
 それでパーティの時のディアンの涙に、両親が「今度は何?」とうんざりしながら言っていたのや、ベランダから遠くの人影を見つけて、胸をはだけたシーンの意図がわかりました。

ヤマ(管理人)
 そのシーンはしっかり覚えてます。なんでこっちには見せへんのや!って思いましたし(笑)。


-------ライオネルが毛を剃った理由-------

(ケイケイさん)
 毛を剃ったのは、「この毛の下のあなたの顔はどんな顔?」とディアンに聞かれて、「もう忘れた」とライオネルは答えたでしょう? 忘れるわけないのに。そのことを覚えていたんだと思います。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。ドラマ的にも必然性はあるというわけですね。何も作り手の都合でそうなったわけではないと。
 ケイケイさんが映画日記に書いておいでのようにライオネルの“愛の告白としての行動”であるということには僕も異論ないのですが、さればこそ、ディアンは、ここでは「剃らなくていい、多毛症の貴男のままでいい」と受けるのが、向けられた愛の告白への態度であって、前に興味として「この毛の下のあなたの顔はどんな顔?」と言ったからといって、いや、むしろ、そんなことを言ったことがあればこそ、ホイホイと剃りにかかっちゃマズイんじゃないの?って感じです。

(ケイケイさん)
 なるほど。でも、私はライオネルが毛のない自分を観て欲しいと思っていたと感じたので、ディアンはそれを受け入れたんじゃないかと感じました。

ヤマ(管理人)
 むしろ、そう受け取るほうが順当としたもんなんでしょうね。僕は、彼が毛のない自分を観てほしいと言い出すこと自体に、作り手の都合からの無理というか違和感を覚えてたんですが、そこに違和感がなければ、そう受け取るほうがむしろ自然な気がします。

(ケイケイさん)
 それにあの体でエッチするの、実際問題として大変じゃないですか?(笑)。

ヤマ(管理人)
 え? どーして? あれくらい長く伸びてれば、チクチク刺すってこともないんじゃないですか?(笑)

(ケイケイさん)
 う~ん、やっぱり毛皮フェチじゃないから、いやなんですかね。でも暑苦しそうですやん、あれじゃ(笑)。

ヤマ(管理人)
 確かに(笑)。

(ケイケイさん)
 私なら毛の下のライオネルの肌に触れたいなぁ。

ヤマ(管理人)
 そりゃあ、だってケイケイさんは、毛皮フェチじゃあないでしょう?(笑)
 それはそうと、全身を剃り落とす過程のなかで「あ、そこはいいから」っていうライオネルの台詞があったのには笑えましたよね~、さすがR18や(たは)。

(ケイケイさん)
 私もそこ笑いました!横の人も笑ってはりましたよ。女性です。

ヤマ(管理人)
 ウケ、狙ってたんでしょうかね?(笑)

(ケイケイさん)
 で、本題に戻りますが、彼自身は、毛を剃らないことで強くなった自分の容姿から解放されたと思いたかったんじゃないかと。

ヤマ(管理人)
 あぁ、それはそうでしょうね。僕もそう受け止めてます。

(ケイケイさん)
 でも、心の底にこれは本当の自分じゃないんだという思いもあったんじゃないですかね?

ヤマ(管理人)
 おぉ、これには意表を突かれましたが、なるほどね、そういうこともありそうですね。勿論そうでないこともあるのでしょうけど。
 僕はですね、かつては朝の五時起きで毎日剃っていたけど、もう止めたんだとの独白を聞き、むしろ剃ることが本当の自分を隠すことだと彼が感じていたように受け止めてますので、おっしゃるように心の底なり深層心理としては、そのように思っていたのかもしれないことに大いに賛同します。

(ケイケイさん)
 何故そう思ったかというと、毛のないライオネルの瞳は、本当に優しげで気弱だったんですね。私にはそう見えました。

ヤマ(管理人)
 僕もです。明らかに対照というか意外効果を演出してましたよね。

(ケイケイさん)
 毛のある時の人を射るような眼差しじゃなかったんです。毛=鎧に思えて、多毛症であるため、彼は鎧を着て生きる選択をしたけれど、本当の自分はそんな強い人間じゃないんだよ、とディアンに伝えたかったかと感じました。

ヤマ(管理人)
 イマジナリー・ポートレイトとしては、まさしくそのとおりでしたね。

(ケイケイさん)
 この辺はダウニー・Jrの演技力で感じましたね。

ヤマ(管理人)
 異存ありません。

(ケイケイさん)
 だから本当の自分を、ディアンに観て欲しかったと思いました。だってハンサムだし(笑)。

ヤマ(管理人)
 なるほど、確かにハンサムでしたねー。それであれば、深層心理ではなく顕在化しているなかでの心の底すなわち本心ではっていうことになるわけですね。それもありなんかな(笑)。まぁ、人が“本当の自分”というものをどのように認識しているかというのは、推し量るに難題極まりないところではありますよね。我が事を振り返れば、容易に察しが付きますが、自分自身でもよく判らないくらいですもんね。


-------ディアンの夫に対するライオネルの思い遣りの存否-------

(ケイケイさん)
 これと対照的なのは、ディアンの夫に紹介してくれと言うシーン。俺はこんな奴なんだよ、だからあなたの奥さんは決して浮気はしないから、安心してください。そういう意味だったんじゃないですかね? これは一歩下がって、夫のアランへの思いやりだと思うんです。

ヤマ(管理人)
 これはもう、僕には絶対できない発想だな~。面白いです、とっても(礼)。

(ケイケイさん)
 そうですか(笑)。喜んでいただけて光栄です(笑)。

ヤマ(管理人)
 異形までいかなくても醜男なら通用するんですかね、その“安心”って(笑)。

(ケイケイさん)
 それはダメだと思います(笑)。顔の美醜は、内面によって観方が変わりますもん。

ヤマ(管理人)
 異形だと、そうはいかないんですかね、やっぱ。

(ケイケイさん)
 正直ハードルは高くなると思います。でもライオネルなら恋人になりたいわ(笑)。

ヤマ(管理人)
 暑苦しくても? あ、ケイケイさん、剃毛してあげるんですね(笑)。

(ケイケイさん)
 愛や性の対象として、異形だと先ずどう接していいのか、わかりにくいと思うんですよ、最初は。

ヤマ(管理人)
 「そーか、剃ってあげればいいんだ」って気づくまで?(笑)

(ケイケイさん)
 えーとですね、まず行き違いがあるようでして。
 以下の私のレスは、ディアンやアランのことではなく、「愛や性の対象として、まずどう接していいのか、わかりにくい」ということでの「異形の人が恋愛対象になるか?」という私の感覚です(^^)。ライオネルほど深く付き合うまでになるのが、難しそうという意味です。

ヤマ(管理人)
 僕が「剃ってあげればいいんだって気づくまで?(笑)」って返したのは、ケイケイさんの感覚に対してだったんですよ。

(ケイケイさん)
 妻がどんどん異形の友人たちに囲まれて晴れ晴れしていく姿を、夫のアランは、すごく戸惑って見ていましたよね。決して苦々しくではなく。

ヤマ(管理人)
 あげくに自分が髭を伸ばしたりしてましたね(たは)。

(ケイケイさん)
 もうー、ここは可哀想で…。誤解しているんですよね。

ヤマ(管理人)
 まぁね(苦笑)。でも、確かに、ちょい哀れっぽくはあるけれど、可哀想と言うよりも、何か笑える感じだったなー(あは)。

(ケイケイさん)
 笑えましたか(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕は、同じ男ですからねー。

(ケイケイさん)
 そうですね、滑稽なんですが、すごく切羽詰った感じがしたんですよ。アラン流の愛情表現だと取りました。

ヤマ(管理人)
 それは、そうだと思いますよ。滑稽味もそれゆえ増すわけですもの。

(ケイケイさん)
 「妻がどんどん異形の友人たちに囲まれて晴れ晴れしていく姿」に対するアランの戸惑いは、観客の戸惑いでもあると思うんです。差別はもっての他、保護する立場にならなければ、という気になるんじゃないかと。

ヤマ(管理人)
 ほぅ、感心な心がけですね。観客はともかく、夫が妻から紹介されることで、そうなれるもんでしょうかねぇ…??

(ケイケイさん)
 一種見下していると言われればそうなんですが。恋愛は平等ですよね? 平等の気持ちになるまでが、時間がかかると思うんです。

ヤマ(管理人)
 ん? アランの心境ではなく、ディアンの心境のことですか? ディアンは、戸惑うまでもなくライオネルに惹かれたんでしょう?
 僕が「ほぅ、感心な心がけですね。」と書いたのは、アランのことについてでしたが、そうでしたか、戸惑いとか差別、保護といったあの一節全てが、異形の人に対するケイケイさん御自身の感覚についてのコメントでしたか。

(ケイケイさん)
 この作品は、そこまで行けない人の戸惑い、軽々超えてしまう感受性の持ち主など、両方を誠実に理解を示して描いていたところが良かったです。

ヤマ(管理人)
 前者が夫アラン、後者が妻ディアンってことですね。でも、ディアンは、超えるというんではなく、むしろ目覚める形で惹かれたように描いていた気がしてます、僕は。

(ケイケイさん)
 あそこまでは行けない人を見下すとか、軽々と超えてしまう人を変態だとか、そういうどちらかに偏った描き方だったら、これほど品よく仕上がらなかったと思いますね。

ヤマ(管理人)
 超えたのか目覚めたのかはともかく、おっしゃるように、差別とも変態視とも異なる視線が品位を獲得していたというのは、まさしく同感です。

(ケイケイさん)
 そして、この夫婦が自分のことで諍いがおこらないようにという配慮もあったと思います。その配慮=ディアンへの愛じゃないかと。

ヤマ(管理人)
 うーむ、ちと立派すぎません?(笑) もしディアンの夫への思いやりを見せる必要があるとしたら、それは、そうすることで彼女の好感を得たいと思ったときだけでしょうが、そういう姑息さって、むしろ女性はすぐさま見破るような気がするんですけどね(あは)。
 また、異形の姿をきちんと見せれば、安心するはずだっていうのは、もしかしたら、ライオネル当人は確かにそう思っていたかもしれないにしても、アランにとっては、その思惑通りには作用しないと思いますよ。ここんとこは、男が男に向ける視線と女性からの視線での大きな隔たりなのかもね。

(ケイケイさん)
 私はライオネルがディアンとの関係を出来るだけ長続きさせたいと感じていました。破滅型の人には見えなかったんですね、彼は。

ヤマ(管理人)
 それは、僕も同感です。むしろ内省的なタイプのように見えましたね。

(ケイケイさん)
 でも確かにアランはそうは思わない、というのは男性のご意見としてすごく納得できます。

ヤマ(管理人)
 ま、そんなもんじゃなかろう?っつうわけですよ(笑)。

(ケイケイさん)
 ヤマさんが“義父からのスポンサードに対する配慮”とお書きの、ディアンの父親の援助に対してのアランの気持ち、私は逆に取っています。

ヤマ(管理人)
 ほぅ。

(ケイケイさん)
 少々鬱陶しく思っていたのじゃないかと。あんなパーティみたいなのも、アランは苦手だったと思います。パーティで「お父さんにも困ったよ」とディアンに囁くのは、私は本心だと思いました。

ヤマ(管理人)
 まんじゅう怖い、じゃあないわけですね。ちょっと格好つけてたってな観方は、根性悪いですよね(反省)。

(ケイケイさん)
 欧米の男性は妻に始終愛していると言いますからね。アメリカ人男性と結婚した女性が、何が一番良かったかという質問で、「夫が毎日帰宅したら『今日はハッピーな一日だった?』と私に聞くことです」と答えておられましたよ(^^)。

ヤマ(管理人)
 そんな真似はできそうにもありませんが(苦笑)、まぁそうですね、取り立てて格好つけてたわけでもないのかもしれませんね。でも、髭の件といい、何かちょっと間が抜けてる感じがあるんだよなー、アラン(あは)。

(ケイケイさん)
 うんうん、それはある(笑)。でもその間の抜けてさに誠実味があって良かったんですよ~、私は。

ヤマ(管理人)
 いやぁ、さすがに臈長けておいでだ(笑)。若い娘には、なかなかその味のよさが分からないものですよね。

(ケイケイさん)
 むしろアランの気持ちは、ディアンの誕生パーティでの「彼女が15歳の時からずっと愛していた。今も変わらない」という箇所だと思うんです。

ヤマ(管理人)
 おぉー、株、高いぞ~、アラン! こういう何か気障ったらしいこと言われると、癪に障って僻み目で観ちゃうんでしょうかね(反省)。

(ケイケイさん)
 義父の影を気にしていただけなら、妻へのアピールのための髭もはやさなかったろうし、ライオネルと深い関係になった妻も受け入れて、仮面夫婦もありだったと思いますが、それが出来なかったところに、妻への愛があったと感じました。

ヤマ(管理人)
 それには異論なしです、僕も。
 映画におけるアランのイメージというのは、僕の場合、ライオネルと対照しての表層性っていう感じだったんですよ。深いとこにいるライオネルと浅いとこで日の当たっているアラン。ディアンは、深~いとこに心惹かれたってことを示しているような。で、浅いとこにいるか深いとこにいるかは、愛のあるなしには関係ないですもんね。

(ケイケイさん)
 そう思います。
 本当のディアンの心情を理解出来たのはライオネルかも知れませんが、「常識的な人間はこうでなくてはならない」という括りのあるディアンの両親から、彼女を解放したのはアランとの結婚だったと思います。真の解放ではなかったけれど、人並の女性の幸せを彼女に与えたのは、アランだったと思うんですよ。そういったひと時を持ったからこそ、ディアンは本当の自分を見つけることが出来たとも思います。

ヤマ(管理人)
 おー、これまた成る程の鋭いご見解ですね~。
 確かにおっしゃるように、アランとの結婚生活を経てからでないと、あのようにして入浴を果たし、ライオネルとの交感を深められはしなかったような気がします。いきなり深いとこに嵌ると溺れちゃいますよね(笑)。先ずは浅いところを潜り抜けているのが、深みへ向かう秘訣かも。深いとこ、ちょっとリスキーではあるんですが。

(ケイケイさん)
 夫への敬意の件は、「いつも奥様にはお世話になっております」的な意味合いのバージョンアップ的感覚だと言えば、ご理解いただけるでしょうか?(笑)。

ヤマ(管理人)
 感覚的にはね。まぁ、それが常識というものでしょうし(笑)。善男善女たるもの、そうあるべきなのが筋だと思います(たは)。

(ケイケイさん)
 そうです、私は笑う門には福来たる、いつもニコニコ八方美人が座右の銘の人間ですから(笑)。

ヤマ(管理人)
 ですが、人の悪い僕なんぞ、自分のような異形に惹かれるところを奥さんが持っていることを知らないはずの夫にちょっと突きつけてやりたいってな浅ましい欲が潜んでいたようにも思うのですよ。

(ケイケイさん)
 あぁ、それはあったかもですね。

ヤマ(管理人)
 ご理解いただけますか、ありがとうございます。

(ケイケイさん)
 男としての対抗心?

ヤマ(管理人)
 対抗心っていうよりも、調子に乗った弾みで得意が表に零れ出た感じで、その底には、むしろ対抗できそうにない引け目があったように思いますね。
 奪い取りたいとか、その宣戦布告前の挨拶訪問ってな思い上がりではなくね。むしろ、そんなこと自分には到底できないと思ってるからこそ、その程度の浅ましい欲を発現することでガス抜きしてるわけで。

(ケイケイさん)
 ふむふむ、それは理解出来ますね。私も転びそう(笑)。

ヤマ(管理人)
 あ、そうですか(あは)。じゃあ、僕と強力タッグ、組みまひょか(笑)。

(ケイケイさん)
 でもどうせ夫には勝てないと思っているなんて、これも髭並みに可哀想ですよ。

ヤマ(管理人)
 男は、みんな、そんなもんですって(たは)。そんなふうに眺めてるもんだから、恋人の夫への敬意なんて発想は、埒外でした(たは)。

(ケイケイさん)
 よくわかりました。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(ケイケイさん)
 でもこれで私が善良な人間だとご理解いただけたと思います(笑)。

ヤマ(管理人)
 そりゃあ、もう(笑)。


-------異性愛と友情を分かつものは何か-------

ヤマ(管理人)
 いずれにしても、ライオネルは、何もディアンの夫に思いやりを見せる必要はないんじゃないですか?

(ケイケイさん)
 それは愛する女性の夫だから、敬意を払ってしかるべきと思ったんじゃないですか?

ヤマ(管理人)
 ふーん、そういうもんですかねぇ。

(ケイケイさん)
 そういうもんですよ~(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕は、基本的に人と人との関係は、一対一対応だと考えているので、直接関係していない相手に対して、そういうふうな形での思いを抱くことはないんですが…(たは)。例えて言うなら、僕がケイケイさんに敬意を抱いているからって、ケイケイさんの旦那さんに敬意を抱くというものではなく、敬意を抱くのは、旦那さんと直に関わりが生じてからの話なんですよ(あは)。

(ケイケイさん)
 いや、でも、あの時代は今よりもっと封建的ですから、夫は妻の保護者的意味合いも深かったと思います。

ヤマ(管理人)
 それはそうですね。

(ケイケイさん)
 安心してもらうと同時に、男女の愛ではない、友情だと認識してもらって、ディアンとの付き合いを認めて欲しい気持もあったと思いますね。

ヤマ(管理人)
 死期が近いことを知る前でしたから、それはあったかもしれませんね。でも、最初から入浴を求める彼には、異性意識は濃厚にあったと思いますよ。まぁ、異性意識に根ざした友情というのも無論ありでしょうが。

(ケイケイさん)
 私もライオネルは、最初からディアンを愛していたと思います。

ヤマ(管理人)
 異形の自分に魅力を感じてくれているらしい視線で見つめてもらえただけで、もう殆ど無条件でそういう気持ちになると思うんですよね、彼としては。

(ケイケイさん)
 人間としての自分には誇りを持っていたでしょうが、男性としては、自分の外見に引け目を持っていたんではないですかね?

ヤマ(管理人)
 ええ、そうだろうと思います。そういう心境って実によく分かりますよん(苦笑)。

(ケイケイさん)
 だから自分の気持ちを悟られないようにしていたんじゃないですか? 良い友人でいようという気持ちは、相手が既婚者なら、なおではなかったかと思います。ライオネルは良識を持つ人でしたしね(^^)。

ヤマ(管理人)
 そのわりに、いきなり入浴を求めてましたが(あは)。あれは、試したんでしょうかね?(笑)
 確かに、その後は、節度をもって接していたような気がしますから。

(ケイケイさん)
 うん、試していたと思います(笑)。あの時いっしょにバスに入っていなかったら、そこで関係は終わっていたと思いますね。

ヤマ(管理人)
 そうね、そういう流れでしたよね。じゃあ、あそこで入浴に留まらずにセックスに至っていたら、どう思われますか?

(ケイケイさん)
 セックスしても終わってたんじゃないかなぁ。

ヤマ(管理人)
 入浴しなければダメ、入浴してセックスしてもダメ。入浴のみでセックスなしの場合しか続かないってことですか。ピンポイントなんだなー(笑)。

(ケイケイさん)
 あの時点では、ディアンも良妻賢母でいなくては、という思いが強かったろうし、アランへの愛はそれこそ男性としてよりも保護者的ではあっても、愛は強かったと思うんですよ。罪悪感に苛まれて、もう会わなかったのではないかなぁ。彼女はそういうピュアな人に感じましたから。だからエッチってね、そんな早い段階にしない方がいいんです(笑)。

ヤマ(管理人)
 まぁ、早い遅いだけで事が決まるものではない気がしますが、僕自身は、決して手の早いタイプではありませんでしたね。そんな自信、皆目なかったし(あは)。
 それはともかく、入浴に留まっていれば、罪悪感はなく、やっぱセックスをしたか否かが決定的というわけですね~。
 で、その場合のセックスって何を指してるのでしょうね。挿入の有無が決め手なのでしょうか? それさえなければ、入浴と同じでOKってなもんでもなかろうと思ったりしますが、そのへん、どうなんでしょうね?

(ケイケイさん)
 エッチのない関係というのは、お互い親しく付き合うためには免罪符だったかと思うんですよ。本当は愛し合っているのに。

ヤマ(管理人)
 そういうもんですかねぇ。そこには、そんなに大きな差異があるんでしょうかねぇ。

(ケイケイさん)
 ありますよ!!! ヤマさん違うんですか?

ヤマ(管理人)
 僕は、本質的には関係ないと思ってますねぇ。

(ケイケイさん)
 そうなんですか。でもそれって少数派のような気がしますが。

ヤマ(管理人)
 理論値と現実値が違うのは、物理の実験並みかもしれませんが(苦笑)。

(ケイケイさん)
 わはははは、確かに(笑)。他の方はどうなんでしょうか?

ヤマ(管理人)
 どーでしょうねぇ。この件について、誰からも横レスが入ってきませんので、ちょっとよく判りませんが、いわゆる「常識的」ではないですよね。

(ケイケイさん)
 善き人のためのソナタの夢を再び、の強力タッグがならず、落ち込んでいます(笑)。

ヤマ(管理人)
 浅いとこより深いとこにいるほうがキラリ光るようですよ、ライオネルの如く(笑)。

(ケイケイさん)
 ほら、『恋に落ちて』['84]で、何もなかったと妻に告白したデ・ニーロは妻から「その方がもっと悪いわ」と殴られ、「好きだったの。それだけよ」と泣きながら夫に告白したストリープは、「君は夢を見ていたんだ」と、夫に肩を抱かれて許されたじゃないですか!
 あれは既婚者の恋心の男女の違いを、すごく表わしてたじゃないですかぁ~。

ヤマ(管理人)
 『恋に落ちて』は、僕も観ているのですが、実はあまりよく覚えてません。ですが、お書きのように、何もなかったのに、夫は「そのほうがもっと悪い」と殴られ、あっても赦しを求めて向かってきた妻は、赦されたわけでしょう? つまりは、あったかなかったかということよりも、今後の自分たちの関係にどう向かっているのかっていうことのほうが大きいわけですよね。

(ケイケイさん)
 いえいえ、妻も何もなかったんですよ。

ヤマ(管理人)
 あらま、そうでしたっけね(たは)。

(ケイケイさん)
 あれは赦しを求めたのではなく、罪悪感にさいなまれて告白したと取りました。デ・ニーロを愛してしまったけれど、セックスはなかった。夫にとってはセックスはないということで、妻は「夢を見ていたんだ」と少女期の恋に恋する感覚だったと、とらえたんだと思うんです。

ヤマ(管理人)
 そうすることで落としどころを得たっていうことなんでしょうね。あるなしにこだわった場合、ないことの証明って論理的には不可能ですしね。“存在”は証拠の存在によって証明できるのですが、“不存在”は不存在であるがゆえに決定的な証拠も存在しようがないとしたもので、どこまで行っても「推定」にしかならないですよね。

(ケイケイさん)
 確かに証明は不可能ですね。この時確かストリープ夫妻は上手くいってなかった記憶があるんです。だから「信じる」ということで、夫として夫婦の再生に一縷の望みを託したんじゃないのかなぁ。この辺は私は理解出来るんですが。

ヤマ(管理人)
 そういう託し方っていうのは、僕も理解できますよ。あの作品がどういうのだったかは、先にも言ったように、よく覚えてませんが(たは)。

(ケイケイさん)
 恋に恋する感覚までなら、自分の元に心も戻ってくると夫は感じたわけで、『恋に落ちて』を観たとき、身は離れてないというのは、男の人には重要なんだなぁと私は取りました。

ヤマ(管理人)
 どうでもいいことってわけじゃあ、ないですからね、そりゃ(笑)。ただ絶対的とか決定的ということではないっていうのであって。

(ケイケイさん)
 いや~、決定的な人もいるんじゃないですかねー。
 昔人妻がレイプされて、裁判を起こすドラマなんですが、レイプであっても他の男に抱かれた妻を、もう夫は抱けなくなり離婚するんですよ。アメリカのテレビムービーでした。妻は「奥さまは魔女」のサマンサ・モンゴメリーでね、当時思春期だった私は憤慨したもんです、夫にも犯人にも。今も憤慨しますが、男の生理的なものなのかなぁと、そう思える余裕はあります。

ヤマ(管理人)
 勿論そういう場合もあるでしょうが、必ずそうしたもんなんでしょうかね。

(ケイケイさん)
 それに対して、セックスがなかったことについての妻の思いは、デ・ニーロの妻の「その方がもっと悪い」となるわけですよ。それは、セックスしていない→相手は人妻→その人の家庭を壊したくない→それほど大切に思い愛した相手→女としてストリープを自分より愛していた、そう取ったんじゃないですかね?

ヤマ(管理人)
 まぁ、そういうことでしょうね。この“比較”思考って、特に女性においてとても根深いように思いますが、どうしてなんでしょうねぇ。

(ケイケイさん)
 まぁ人によりけりでしょうが、夫に献身という美しい時間を過ごした女性が多いからじゃないですか? 例えば家計を気にして、お化粧もせず、もったいないもったいないであくせくして、ひたすら家庭に献身していた中年女性が、そんな夢のない生活から逃避したい夫が浮気するとしますよね。はたから見れば女以前になった妻も悪いですが、私の献身はどうなるのだと怒る妻の気持ちもわかるんですよ。それほど昔の女性は、自分は脇に置いておいて、家庭に尽くすのが本分と思われていましたから。そう教育されていたんですよね。

ヤマ(管理人)
 まぁ、それはそうかもしれませんが、僕の言う“比較”思考って、未婚のときから女性には、とても色濃いような気がしますよ。常に何かと比べたがりません?(笑)


-------『恋に落ちて』の要点-------

(ケイケイさん)
 結婚生活が長くなると、血の繋がらない親兄弟のようになるでしょう。

ヤマ(管理人)
 僕は、流石にまだそこまでは行きませんよ、四半世紀ですが(苦笑)。

(ケイケイさん)
 うちそれに近いですよ。ほら、うちの旦那は「妻は夫の母親にようになってこそ、家庭は上手くいく」と思っている人ですから(笑)。でも連れ合いが浮気すると、一気に眠っていた男と女の感情が噴き出すと思うんですよ。おかげさまで想像ですが(笑)。

ヤマ(管理人)
 うちも修羅場経験はないですねー、幸いにも。

(ケイケイさん)
 お互いありがたい話ですね(^^)。『恋に落ちて』はこの辺に、既婚者の恋愛で、セックスがあるかないかの男女の差、浮気された方の夫や妻の微妙な感情の違いが、私はすごく上手く出ていたと思ったんです。

ヤマ(管理人)
 たぶん僕は、それほどにピンと来てなかったんでしょうね、あまりよく覚えてないっていうのは(たは)。

(ケイケイさん)
 ですから、このときはそんなに「今後の自分たちの関係にどう向かっているのか」は、考えていなかったと思いますね。

ヤマ(管理人)
 そうですね。考えて判断することじゃあないでしょうね。感覚的にキャッチするものだろうと思います。

(ケイケイさん)
 もちろん「今後のこと」もあるでしょうが、赦しより許しは乞いたい気持ちだったと思うんですよ。懺悔みたいなもんかな?

ヤマ(管理人)
 そういうのって結構、自己チューだと思いません? 自分の気の済まなさだけで顕在化させて押しつけてくるのって(笑)。

(ケイケイさん)
 そうそう、絶対自己チューです。私は浮気は男女とも家庭を壊したくなければ、墓場まで持っていくべきだと思っています。

ヤマ(管理人)
 ですよね。そもそも人間関係というのは、一対一対応なんですが、なかんずく恋愛っていうのは、そうあるべきものだろうという気がします。


-------セックスのあるなしでどう違うのか-------

(ケイケイさん)
 ライオネルが夫に紹介してくれっていったのは、ディアンの好意を得ようというより、やはり「いつまでもお友達の関係でいよう」という伝言だったんじゃないですかね。

ヤマ(管理人)
 いやぁ、僕にはちょっと分からない感覚ですから、なんとも(笑)。

(ケイケイさん)
 ここは煮詰めていきましょう(笑)。

ヤマ(管理人)
 いいですよ(笑)。
 ものすごくデリケートなテーマですから、掲示板での談義だと言葉がすれ違ってしまう危険もありますが、ケイケイさんとなら、そのへんは大丈夫だろうと見込んでますからね。

(ケイケイさん)
 ディアンと長い付き合いをするのには、愛より友情という形をとった方が、両方が傷つかずにすむと思ったんじゃないですかね。

ヤマ(管理人)
 それはそうだと思います。まぁ、無難ですよね(笑)。

(ケイケイさん)
 ストリープがデ・ニーロとベッドイン寸前に、「このままセックスして、私たちどうなるの? 結婚するわけじゃなし、後は別れが待っているだけよ」って言っていたの、すごく印象的でした。

ヤマ(管理人)
 「だけよ」と言ってしまえば、結婚しようが、子供をもうけようが、人の一生なんて…ってな話になってしまいますよね(笑)。

(ケイケイさん)
 このときのストリープの気持ちというのは、結婚しない相手とのセックスは、その後必ず別れがまっているということなんじゃないですかね? セックスがなければ、お互い恋心を抱いていても、付きあって行けるのじゃないか、そういう意味合いもあったと思います。

ヤマ(管理人)
 まぁ、そうなんでしょうね。でも、結局はセックスがなくても、気が済まなくて夫に許しを乞い、デ・ニーロとは別れちゃうんでしょう?

(ケイケイさん)
 この辺ね、私もうろ覚えなんですが、介護していた実父が亡くなったのかな? それが関係していたんじゃなかったかな?

ヤマ(管理人)
 それだと、ちょっと焦点がぼやけちゃうような気もしますね。結局は別れるのだったら、彼女の想いや見込みとは裏腹に、どっちにしたところで、別れが待っていたということでしょう。それは、セックスのあるなしによるのではなく、『恋に落ちて』のモリー(メリル・ストリープ)とフランク(ロバート・デ・ニーロ)の器によるものだと僕は思うわけです。

(ケイケイさん)
 この作品は今から20年くらい前の作品ですから、今の価値観とは違うでしょうが、私は今も同意しますね。その点でデ・ニーロの妻が怒ったと思うんです。

ヤマ(管理人)
 ん? デ・ニーロの妻は、なくても怒ったんでしょう? ケイケイさんが同意するのは、あってもなくてもダメで、ないのはあるのよりさらにダメっていうことなのか、或いは、あると早晩の別れに繋がるけれど、なければずっと付き合っていけるっていう感覚のほうなのか、どっちのことなんでしょう??

(ケイケイさん)
 いえいえ、「今も同意」というのは、男子は心の伴わない肉体だけの浮気があるけど、女性は心が伴わなければセックス出来ないという、古くからの「迷信」を支持するという意味です(笑)。

ヤマ(管理人)
 なるほど。で、デ・ニーロの妻は、そういう男の浮気ならまだしも、本気だから、よけいに悔しい、腹が立つってわけですね。

(ケイケイさん)
 でもこの「迷信」ね、昨今の性の乱れをみると、あながち男性が作り出した身勝手な論理だとは言い切れないと思うんですよ。

ヤマ(管理人)
 昨今、活発なのは、むしろ女性であるように喧伝されてますよね。事実そうなのか、煽りなのかは、よくわかりませんが。

(ケイケイさん)
 この「迷信」には、女性は孕む性だと自覚させるとともに、自分を大切にすることを教える意味合いもあったのじゃないかと。

ヤマ(管理人)
 それって、いかにも男の言い分みたいな感じなんですが(あは)、でも、教え方としては、あまり上等じゃないですよね(笑)。
 そもそも僕は、セックスという行為それ自体が絶対的に重大なことではないように思うんですよ。
 極論を言えば、肉体的に行為として全うできない関係であっても、充分以上に性愛を共有する関係だってあるし、行為としては濃厚というほかない肉体の交わりを持ってもビジネスでしかない場合もあるし、肉体的行為の介在は、絶対的なものではないと僕は思っています。セックスが介在すれば、友愛が壊れ、介在しなければ、性愛には至らないというほどに単純なものではないような気がするんですよね、人間って。

(ケイケイさん)
 ヤマさんのお書きのことは、一般的な愛とセックスの関係性としては理解は出来るのですが、既婚者が別の相手に恋するという場合には、なかなか難しいと思いますね。

ヤマ(管理人)
 関係する人間の数が増える分だけ、余計に難しくなるのは道理ですよね。独身者同士<一方が既婚者<両方が既婚者ってなるのは、当然で、数学だって2<3<4ですものね。2でも稀有のことを4で挑むのは、果敢っちゃ、果敢ですが(笑)。加えて、それぞれの1の値が数学と違って様々なわけですから、絡む人間の数が増えると推計なんてしようがなくなり、ほとんど出たとこ勝負みたいなものになっちゃうでしょうね(笑)。

(ケイケイさん)
 出たとこ勝負!まさに愛と性の真髄じゃないですか(笑)。

ヤマ(管理人)
 真髄って、それ、何が出るんですか(笑)。

(ケイケイさん)
 そういうのは結婚前に経験すべきだったですねぇ、残念(笑)。

ヤマ(管理人)
 2<3<4となるに従って出たとこ勝負になるリスクを負うわけですから、4ってのは、結婚後でないと経験できないことじゃありませんか(笑)。
 事例的には、介在すれば友愛が壊れやすく、介在しなければ性愛に至りにくいということは確かに言えるように思うのですが、それは事例的傾向であって、本質的なものではないと思うのです。

(ケイケイさん)
 そうなんですかね(笑)。

ヤマ(管理人)
 実験物理と理論物理の違いのようなもんですって(笑)。でも、凄く条件が整えば、実験でも理論値とほぼ一致した結果が出たりもするわけで、理論を机上とばかりにバカにしてはいけません(笑)。そもそも実験というのは、理論に対して信を置いているからこそ行うのですしね。
 それはともかく、セックスの介在で友愛が壊れたなら、彼らの友愛の器がその程度ものであったというに過ぎないし、セックス抜きに性愛を共有できないとすれば、彼らの性愛の器がその程度のものでしかないということです。友愛にしても性愛にしても、本質的なところで決定的なのは脳であって、性器ではない気がします。ただし、多くの人において脳が性器に影響されやすい傾向にはあるわけですが、だからといって、性器のほうが決定的だというのは後先反対だと思うわけです(あは)。
 まぁ、何もリスクを犯すことないじゃないかと思えば、無難な道を選ぶのが賢明な選択でしょうが、リスキーで困難な道の先には、通り一遍ではない格別の関係が成立し得ると思うのですが、そのためには先ず自分の器が問われますし、自分だけでは御しきれない相手の器の問題もあり、さらには、何よりも相互作用としての関係性の器の問題が生じてきますから、誰にも彼にもなし得るものではないわけで、安易な見込みで踏み込むと火傷をするでしょうけどね。例えば、肉体的に性行為のできない状態にあるカップルに対し、性愛を認めない失礼や、長らく結婚生活を続けている関係において性行為が介在しつつも性愛よりも友愛のほうが優位になっていく場合の感覚に対する欺瞞視には、おそらくケイケイさんも同意されるんじゃないかと思うのですが、

(ケイケイさん)
 はい、この辺は。

ヤマ(管理人)
 あ、よかった(喜)。で、前者における肉体的不能や後者における経年変化といった要素さえあれば、決して稀有とは言えない形で起こりうることを考えれば、そういう要素抜きにそうなることは確かに稀有ではあるけれども、あり得ないことではないと思うわけです。そういう意味では、稀有なる関係を獲得することでの掛け替えのなさというのは、通常の友愛関係や通常の性愛関係以上に特別な手応えがあるような気がしますね。

(ケイケイさん)
 でもアラン、ディアン、ライオネルの関係は、ライオネルが異形というので奇異に感じるだけで、言い方はおかしいですが、真面目な三角関係ですよね。それもセックスにおいてはみんな健康な。

ヤマ(管理人)
 浮ついた遊び心は誰にもなく、また、愛なき領有争いなどではないということでの、愛の名の下において「真面目」ということですね。それは確かにそうでした。セックスにおける健康度のほうは、一般的尺度に対する了解に今イチ自信がなく(苦笑)、何を以て健康と言えばいいのかが心許ないのですが、少なくとも死姦や依存症のようなことはありませんでしたから、不健康ではありませんでしたねー。

(ケイケイさん)
 私が「みんな健康」と言ったのは、単に臨戦状態になれるという意味です(笑)。普通に性欲があって、セックスも出来る状態ですね。

ヤマ(管理人)
 なるほど。明快だ(納得)。

(ケイケイさん)
 それなのに節度をもって付き合っていたディアンとライオネルには、好感を持ちました。
 ところでヤマさんは、奥様がディアンの様な行為をした場合、許されますか? うちは絶対許して貰えません。自信があります(笑)。

ヤマ(管理人)
 この御質問は、二重の意味で難問ですねぇ。
 ひとつには、かような事態を経験していないので、自分の器を量りかねますし、もうひとつは、僕の考え方からすれば、そもそも行為の存否では決まらないことなので、想定問題としても量りようがないことになります。したがって、どちらの場合もあり得るし、どちらとも言えないってことになりますね。

(ケイケイさん)
 うんうん、両方ありというのは、すんごくリアルに感じますね。何となくわかりますよ。

ヤマ(管理人)
 で、ケイケイさんのおっしゃる健康的なセックスという行為のことだけではなく、まさしくこの映画で描かれたディアンの全ての行為と存在に対してということなら、許すも許さないもないっていうような気がします。ちょうどアランと同じような対処の仕方をしそうに思いますねぇ。アランは、僕には許したわけでも許さなかったわけでもないように見えてました。

(ケイケイさん)
 そうでしたね。言いかえると自分の妻を消極的にですが、受け入れたいように感じました。

ヤマ(管理人)
 そうです、そうです。

(ケイケイさん)
 この消極的というところに、器が大きくなく、それでも受け入れようというところに、私はアランの善良さを感じたんですけど、いかがですか?

ヤマ(管理人)
 異存なしです。
 TAOさんによると、離婚後も気に掛け、サポートしていたらしいじゃありませんか。


-------何を以て、セックスだと感じるのか-------

ヤマ(管理人)
 このあたりを突っ込んで意見交換するうえでは、人の愛にまつわる三つのカテゴリーすなわち、性愛・友愛・敬愛について、相互の概念共有を確認しておく必要があり、また、セックスについても、何を以てセックスとイメージしているのかという点での概念共有をしておかないと、うまく意見交換ができなくなるかもしれません。
 とりあえず僕の概念イメージを簡単に述べますと、性愛は合一を志向する愛、友愛は横繋がりを志向する愛、敬愛は縦繋がりを志向する愛ということになります。

(ケイケイさん)
 はい、言葉は難しいですが、わかります(^^)。

ヤマ(管理人)
 むろん人の愛は三つのどれかを背反的に選択するものではありませんから、○と○で図示すれば、判りやすいのですが、一部重なりつつ斜めに位置する図というのも勿論ありなわけで、そのなかでどの位置図に向かっていこうとしているのかが要点になってくるというような捉え方をしています。

(ケイケイさん)
 夫婦やパートナーは全部あれば理想的ですよね。

ヤマ(管理人)
 理想的どころか、現実として、そこから始まってることのほうが多いんでは?
 ただ持続させるのが難しくて、先ず敬愛の部分が薄れていき、そして、性愛も友愛も薄れていく場合があるというふうに思います。
 セックスについては、これもまた縷々能書きはあるのですが(笑)、今日は更新日ですし、ちょっと時間がなくなってきましたので、今回保留。

(ケイケイさん)
 ではお時間のある時楽しみにしています~(笑)。

ヤマ(管理人)
 今回もちょっと時間乏しくて、申し訳ありません(たは)。あまりレスが遅れるのもなんですから、また保留して先にレスを済ませます。

(ケイケイさん)
 取りあえず私は迷信支持派ですから。愛のないセックスをするのは、私はいやです。

ヤマ(管理人)
 僕は、迷信支持派ではありませんが、愛もなくセックスを望む馬力は失せてます(笑)。若いときは好奇心も馬力も余ってますから、セックスに何らの注文もありませんでしたが(苦笑)。今や、当方に愛があっても、相手が格別セックスを望んでなければ、自分から仕掛けてまでもないって気がしています(あは)。

(ケイケイさん)
 友愛や敬愛が性愛に変化することもあるでしょうが、やっぱり別モノですよね。

ヤマ(管理人)
 むろんそれぞれ別物だと思っているから“人の愛にまつわる三つのカテゴリー”としているのですが、先にも述べたように三つのどれかを背反的に選択するものではないと思っているので、性愛のみが背反的な変化形だとは考えていませんけどね。
 何を以て、セックスだと感じるのかということに関して、一言だけ付言しておくならば、基本的には濃密なるコミュニケーションを以てすべからくセックスと見るべきだと考えているようなところがありますね。

(ケイケイさん)
 出会って日にその日にベッドインとか、風俗なんかはセックスではないということですか? それはうちの夫も言うなぁ。

ヤマ(管理人)
 時間の長短とか商売であることが決定的でもないとは思いますが、事例的には、そういう場合には、コミュニケーションとしての濃密さが乏しくなりがちですから、言うところのセックスとは言い難い、発散や好奇心、お試し興味みたいな気がしますね。

 で、先に保留した、何をもってセックスと見るかという話ですが、“人の愛にまつわる三つのカテゴリー”という話をしたなかで、僕は、性愛というのは、合一を志向する愛だと書きました。別に僕の専売特許ではなく、行為としてのセックスを指して「ひとつになる」という婉曲表現をするのは、ごく一般的なことですよね。すなわちセックスというのは、ひとつになろうとする行為なわけです。
 でもって、性愛が志向する合一というのは、僕は、肉体だけを指しているとは思っていません。もっと欲張りなもんでして、合一を求める以上、メンタルな合一、エモーショナルな合一、フィジカルな合一の三ついずれをも求めるのが、性愛の本質というものなのだろうと思うわけです。
 メンタルな合一に向けて使用されるのは、専ら言葉ですよね。エモーショナルな合一に向けては、主にハート。そして、フィジカルな合一に向けては、性器に代表される肉体となるわけですが、合一を志向する愛=性愛によって交わされるこれら三つの行為の全てに対して、それが「ひとつになる」と呼ぶに足るだけの濃密さでコミュニケートしている場合には、僕は、それをセックスだと考えているようなところがあるわけです。
 従って、前にどこかでも発言したことがあるように思うのですが、僕は“言葉のセックス”というものを信じているようなところがあります(あは)。(テレフォン・セックスのことではありません(笑)。)他方で、性器結合を果たしても、あまりセックスだとは思えないような行為もあるわけです。
 こういう考え方は、あまり一般的ではないのかもしれませんが、逆に、そうとでも考えなければ、何をもってセックスと呼べばいいのか解らなくなる気がします。ことフィジカルな合一にかかるセックスに限って考えてみてもですね、どんなに濃密に身体で交わり合っても、挿入さえしていなければ、それはセックスではないのでしょうか? また、避妊具を装着していて、性器と性器が直に触れてなければ、それはセックスではないのでしょうか? あるいはまた、挿入はしてもそこがいわゆる性器でなければ、セックスではないのでしょうか? いずれも否と言うべきというか、そんなことで決まることではないと言うべきものだと思います。大事なことは、それによって肉体的に一体感を得ているか否かであって、器官や形態による区別は、ナンセンスだという気がするわけです。

(ケイケイさん)
 うちの掲示板で既婚者の男性が、妻の同志を紹介されたら、夫として居心地が悪いという感想を書かれていたんですが、ヤマさんならどうですか?(^^)。

ヤマ(管理人)
 居心地が悪いというのは、言い得て妙なる表現ですね。どう対していいのか即座に量りかねるという点において、まさしく居心地が悪かろうと思います(笑)。

(ケイケイさん)
 私はあぁそうかと、目から鱗でしたね。夫というものが、そんな気持ちを抱くとは想像していなかったから。

ヤマ(管理人)
 喜怒哀楽で言えば、紹介されただけでは、喜ぶのも怒るのも哀しむのも違うように思いますので、残る“楽しむ”を果たせる時間を過ごせればとは思いますけどね。

(ケイケイさん)
 でも夫から女性の同志を紹介されたら、やっぱり居心地悪いですよね。奥様は一度オフ会に来られたでしょう? どう仰ってました?
 あんなマニア臭出まくりの会では、ヤマさんが出来心が起こるはずもないから、却って安心されたんじゃないですか?(笑)

ヤマ(管理人)
 話に全く付いていけなくて、居心地は悪かったみたいですよ(苦笑)。コミノちゃんがいて助かったって言ってましたから(笑)。
 僕の出来心みたいなとこについて、彼女がどういうふうに思っているかを僕は聞かせてもらったことがないから、却って安心したというような気持ちが生じたのかどうかは、判らないですねー。シューテツさんが独身だっていうのは、少々意外だったようですが。
 あとケイケイさんの映画日記では、青の色遣いを海のシーンへと繋ぐためのものとの御指摘が目を惹くとともに、「男女の愛もあるけど、同士愛も感じます」との一節が大事だと思いました。

(ケイケイさん)
 ライオネルからもらった空のアルバムを観る彼女の微笑みや、ファーストシーンのペンダントを、「大切な友達からなんです」という笑みは、同じ質だったと思います。すごく清々しく感じました。

ヤマ(管理人)
 ライオネルに代表される異形者への愛のダイアンのスタンスを、作り手はそのように伝えたかったのだろうという気が、僕もしています。

(ケイケイさん)
 偏見や見世物的な部分は、一切排除されていましたものね。私が好感を持ったのは、それを受け入れられない人々の感情も、きちんと描いていたこと。それがないと、作り手の独りよがりだと受け取っていたかもしれません。

ヤマ(管理人)
 なるほどねー。

(ケイケイさん)
 男女視点が違えば、こんなにも観方が様々なのかと、ヤマさんのお返事で楽しませていただきました(笑)。「なるほど、それもありやね」と理解出来るのも面白かったです(^^)。

ヤマ(管理人)
 お互い様です(ふふ)。これこそが感想を交換し合う醍醐味ですもんね。




◎掲示板(No.7526 2007/07/05 08:50)から

(TAOさん)
 ヤマさん、ケイケイさん、こんにちは。
 一昨日から参加したいのに時間がとれなくて。ようやく参加できてうれしいです~。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、TAOさん。ありがとうございます~。

(ケイケイさん)
 さすが愛と性を語る「間借り人の映画日誌」掲示板ですよね(笑)。

(TAOさん)
 私も『毛皮のエロス』からはじめようっと。

ヤマ(管理人)
 どうぞ、どうぞ。

(TAOさん)
 『フランドル』はまた改めて書くことにしますね。

ヤマ(管理人)
 はい。楽しみにしてます。そっちに展開し始めると、シューテツさんも参加してくれそうですし、ね。で、前に振ってくださってたヘンダーソン夫人の贈り物のほうは?(笑)

(TAOさん)
 え~とまずライオネルの心情については、「そういうもんですよね~」ってことでケイケイさんに一票(笑)。

ヤマ(管理人)
 あらま、またしても、ケイケイ=TAOの強力タッグですか!(笑) 夫アランについても、同じ? 僕は、アランのディアンに対する態度に、彼女への愛情とともに、義父からのスポンサードに対する配慮というのもあったように受け止めていました(たは)。

(TAOさん)
 剃毛問題(こう書くとなんかいやらしい?!)

ヤマ(管理人)
 花と蛇スレ、並行してますから(笑)。

(TAOさん)
 その剃毛問題については、私も最初は、ヤマさんと同じく違和感を感じたんですよ。それじゃあ筋が違うだろう、ってね。

ヤマ(管理人)
 あ、そーなんですか?(喜) じゃあ、タッグ、組みます?(笑)

(TAOさん)
 ダイアン・アッバースがヌーディストの写真を撮っていたことに強引にこじつけたかったのかしらとも思ったり。

ヤマ(管理人)
 キーワード、“ネイキッド”ですしね(笑)。

(TAOさん)
 でも、1950年代という時代背景を考えないといけないなと思い直しました。

ヤマ(管理人)
 ほぅ。

(TAOさん)
 戦後のアメリカの中産階級は、ゴミゴミした都市を離れ緑豊かな郊外に住み、便利で衛生的な家電や水洗トイレやお湯の出る生活のなかで、死や汚れや人間の本能にフタをしてひたすら明るくお上品に暮らしているわけです。

ヤマ(管理人)
 そう言えば、ニコール・キッドマン、ステップフォード・ワイフにも出てましたよね。

(TAOさん)
 ファッション史的にいっても、30年代にシャネルがせっかく女性をコルセットから解放し、体のラインを目立たせない活動的な服を流行らせたのに、50年代になるとディオールの“ニューライン”という、時代に逆行する細いウエストと広がったスカートの、まるでお人形さんのような服が脚光を浴びて、シャネルをおおいに嘆かせるんです。

ヤマ(管理人)
 そーでしたか。このへん、僕の苦手とする領域です(とほ)。

(TAOさん)
 ディアンもファッションフォトグラファーの夫を手伝っていたときは、まさにそんな服装でした。

ヤマ(管理人)
 確かに。『ステップフォード・ワイフ』もそうでしたね。

(TAOさん)
 そんな時代だからこそ、ディアンは少女の頃から死体や痣のある少年に興味を掻き立てられていたわけで、人前で秘かに服を脱ぐ行為も、露出狂というよりは、動物的な身体性を隠そうとする「良識」を脱ぎたかったのではないかな。つまり、彼女にとって、裸は異形と同じように価値があるんです。どちらも死すべき存在である野生にフタをしてうわべを取り繕ってないところが。

ヤマ(管理人)
 なるほどねー。
 僕の趣味からすれば、ついフェチの観点から眺めたくなるところですが、主題的には、そーゆーことなわけですね。キーワード、“ネイキッド”ですし(笑)。まぁ、主題的観点からは、僕もそんなふうに観てはいたわけですけど。ただし、時代背景からの必然性もあったというのは、僕の想定の外でした。

(TAOさん)
 だから、服だけでは隠せない毛むくじゃらのライオネルに惹かれ、毛皮の下の素顔(=真の人間らしさ)も見たかったのだと思うし、ライオネルはそれに応えたんじゃないかなと思います。

ヤマ(管理人)
 求めたのはライオネルからでしたが、ディアンの心中を察して自分から申し出たというわけですね。なにせホントは紳士だったわけですからね。

(TAOさん)
 ディアンが写真家ダイアンになっていくにつれて、いかにも50年代的なお上品な服装や完璧なヘアスタイルがしだいに崩れ、

ヤマ(管理人)
 はい。

(TAOさん)
 どんどんグランジスタイルになっていって、最後は形見の毛皮を羽織り、ヌーディストクラブで自分も・・・という見せ方はとてもうまいなと思いました。

ヤマ(管理人)
 唐突ですが、そう言えば、『O嬢の物語』も最後は毛皮を羽織って…、いや、羽飾りでしたね、Oは(苦笑)。毛皮は、マゾッホのほうでした(たは)。ところで、グランジスタイルって?(たは)

(TAOさん)
 あ、注釈必要ですね、すみません。

ヤマ(管理人)
 うふ、僕の最も苦手な分野の用語ですから。すみませんねー(苦笑)。

(TAOさん)
 90年代のアメリカでグランジロックというのが流行し、それに付随して、汚くだらしない浮浪児風のストリートカジュアルが世界的に流行したのです。

ヤマ(管理人)
 おー、そう言えば、若者が破れものとか汚しものとか着てましたね。

(TAOさん)
 辞書を引いてみますと、"Grungy"とは「足の指の間の垢のように薄汚れた」という意味らしいです。いかにも”ばっちぃ”ですね。

ヤマ(管理人)
 なんか臭ってきそうじゃないといけないわけですね(笑)。

(TAOさん)
 今、自分の書いた日記を読み返して思い出したんですが(これだから書いておかないとダメなんですね~・苦笑)、ライオネルとディアンの関係で私は『美女と野獣』を連想したんでした。

ヤマ(管理人)
 mixi 日記は拝見してましたが、ここんとこに感心した覚えがあります。

(TAOさん)
 美女と野獣のお話はいろいろバリエーションがあるんですが、野獣は本当は美しい王子で、野獣の姿のまま愛してくれる女性(変わり者の三女)のおかげで、のろいがとけて元の姿に還れるというお話なんですよね。

ヤマ(管理人)
 確かにそうでしたね。ライオネルにとっては、まさしくそういう物語だったような気がします。なるほどねー。

(TAOさん)
 ケイケイさんとの談義のなかに、ライオネルがいきなり求めた入浴への言及があったかと思うのですが、これは私、洗礼の儀式だと思いました。

ヤマ(管理人)
 おー、そう言われてみれば、なんかそれっぽかったですね。厳粛とまではいかなくても、そっちに向かうベクトルを秘めた空気が確かに漂っていたような気がします。流石だナー。作り手、喜ぶだろうなー(感心)。

(TAOさん)
 セックスよりもっと大事な、いわば魂の儀式とでもいうかな。ケイケイさんがおっしゃるように、あそこでディアンが拒否したら、彼は友情もあきらめてたでしょうね。

ヤマ(管理人)
 御縁がなかったものと…(たは)。まぁ、物語的にはそうですよねー。やっぱディアン、試されていたんだ。

(TAOさん)
 ヤマさんとケイケイさんの刺激的なやりとりを ワクワクしながら読んでおります。

ヤマ(管理人)
  ありがとうございます。僕もワクワクしながら楽しんでおります(笑)。

(ケイケイさん)
 TAOさん、さすが愛と性を語る「間借り人の映画日誌」掲示板ですよね(笑)。

ヤマ(管理人)
 そんなに愛と性ばっか、語ってるかなぁ(笑)。
 でも、そういう話題でも仕掛けやすいと思ってもらえているようではありますね(苦笑)。

(TAOさん)
 ところで、ヤマさんの書いていた“自分のような異形に惹かれるところを奥さんが持っていることを知らないはずの夫に ちょっと突きつけてやりたいってな浅ましい欲”!  むむっ、それ、わかるなあ。

ヤマ(管理人)
 あ、そーですか(嬉)。TAOさんも僕と同じく人が悪いんだ(笑)。

(TAOさん)
 ライオネルはディアンのために表敬訪問をして、 夫を安心させようとしたのだと思いましたが、 たしかにそれだけじゃないですね。

ヤマ(管理人)
  まぁ、どちらも映画のなかで明確に示されているわけではありませんから、 どっちが正解というものではなく、言わば、観る側の人間観の表白となるわけですが、 まずはディアンのためにと受け止められたのですから、 僕と“同じく”人が悪いと言っては、いけませんね。失礼しました(笑)。

(TAOさん)
  ケイケイさん、ごめん! 前言撤回して寝返ります(笑)。

(ケイケイさん)
 わはははは、私もヤマさんの解釈を受けて、寝返ってもいいと思い始めています。

ヤマ(管理人)
 スリータッグ、いこか~(笑)。

(ケイケイさん)
 そういえば堂々としていましたもんね、ライオネル。私は毛のない彼の瞳に魅かれたから、ああいう解釈になったかもです。

ヤマ(管理人)
 意外な形で見せる弱々しさって、母性愛をくすぐるんでしょう?(笑)

(TAOさん)
 ライオネルは、ディアンが真に欲しているものを自分が与えられることに、 たぶん生まれて初めての幸せを噛みしめていたと思うのですが、 人間っていうのは欲深いですからねえ。

(ケイケイさん)
 同意します。
 今までそれこそ同志的な愛はあっても、男女の愛と言う経験はなかったのじゃないかなぁ。

ヤマ(管理人)
 ライオネルの場合、 浅ましい欲ですから、欲と言えば欲なんですが、欲深いっていうより、 ちょっと有頂天になって、調子に乗って浅ましい欲まで零れ出たっていう感じでしょうか(笑)。 男っていうのは、ホント、調子に乗りやすいものですから(たは)。

(TAOさん)
 愛する女性のパブリックな夫、 しかもどこに出しても恥ずかしくない外見をした男に対して 身を切り裂かれるような嫉妬を感じていたと思います。

ヤマ(管理人)
 ええ、嫉妬よりも引け目のほうが強かったのではないかと思いますが、 引け目を感じていればこそ、妬ましくもあったでしょうね。

(TAOさん)
 彼にしてみれば、外見に対するコンプレックスなんて とうの昔に克服したと思っていたのが、 ディアンのおかげで、忘れていたはずのコンプレックスやどす黒い嫉妬や 人並みのしあわせに対する浅ましい欲が ムクムクと現れてきたんじゃないでしょうか。

ヤマ(管理人)
 この抑圧していたものをディアンによって目覚めさせられたっていうのは、 とても刺激的なご指摘ですね。 そーだなー、ディアンもライオネルも互いに互いの沈潜していた欲望を 目覚めさせてたんですよねー。だから、特別な存在なんですよね、互いに(納得)。

(TAOさん)
 そう考えたほうが例の剃毛問題もすっきりしますよね。

(ケイケイさん)
 あぁこれはそうですよね。

ヤマ(管理人)
 確かに~。ライオネルが“人並みのしあわせ”として結ばれることを求めるならば、 やはりむかし早起きしてそうしていたように、剃って向き合いたくなるわけですよね。 なるほどねー。 さすれば、必ずしも主題的整合性に引き摺られて、とばかりも言えませんね。 それに、ディアンによってそういう方向に目覚めさせられた欲ならば、 なんか浅ましいとも言えなくなりますねぇ、なるほどなー(感心)。 フェチ目覚めの映画っていうだけじゃあなかったわけですねー(笑)。

(TAOさん)
 ライオネルが異形の人なので特殊に思えますけど、 たとえばネットだとしたらどうでしょう?
  孤独な青年がネットを介して人妻と深い関係になり、(セックスどころか会ったこともないという設定にしましょう) 以前に比べれば見違えるような毎日を送るのですが、 人妻への愛が深まるにつれて、 最初はどうでもよかった夫の存在がだんだん気になり始めるわけです。

ヤマ(管理人)
 このへんに微妙に、浅ましさのニュアンスが漂ってますね(笑)。

(TAOさん)
 家庭の事情などでメールのやりとりが途絶える度に 所詮オレなんてバーチャルな存在なんだと我が身を嘆き、 安穏としている夫に自分の存在を知らしめたいという 暗い野望を抱くなんてことは大いにありそうです。

ヤマ(管理人)
 でしょ(笑)。寝返り転んで、見事な寝技でございました(笑)。

(ケイケイさん)
 私も毛のない自分をディアンに観てほしいと解釈はしていましたが、その奥にはTAOさんがお書きの、夫への屈折した気持ちがあったかも。
 そうそう、TAOさんがネットを介した青年と人妻の出会いに例えて書いてた文章と同じ意味合いのことを、うちの掲示板で私と同じ年の既婚男性がお書きになったんですよ。私は最近オフ会を繰り返して、ほとんどネットを超えて普通のお友達になっちゃったもんで、ときめきは失くしましたから(笑)。

ヤマ(管理人)
 あらま、それもさびしかありません?(笑)

(ケイケイさん)
 昔よく雑誌に掲載されていた、「異性のペンフレンド求む」の世界観ですよね。現実の性愛はないけど、ふつふつ欲望の灯は消えないというか(笑)。

ヤマ(管理人)
 うんうん、それそれ(笑)。




◎掲示板(No.7536 2007/07/06 21:14)から

(マタンゴ・ともこさん)
 ケイケイさんに教わって、数日前から覗いてはいたものの、その昔、大縄跳びに入ろうと、上半身は前へのめるんだけど、足が一歩も出ない…というようなゆらゆらの日々でありました(なんのこっちゃ)。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、マタンゴ・ともこさん。間借り人の部屋、別に毒キノコ、生えてませんでしょ?(笑)
 マタンゴのような人食いキノコなど生えてませんからねー。もっとも、拙日誌でも触れたマタンゴのようにカルト色の強い話題にはなっているかもしれませんが(あは)。

(マタンゴ・ともこさん)
 私がこの映画を偏愛するのは、映画の「つくり」ではなく、ただただ、ニコールの「まなざし」にやられたからであります。

ヤマ(管理人)
 こういうとこって、映画という表現の本領部分ですよねー。ニコール、いい女優さんです。

(マタンゴ・ともこさん)
 あの、ライオネルをはじめとする異形の人々を見たとき。ぱ~~っと明るくなった表情。うっとりとした表情。自分の居場所をみつけた安堵の表情。それと、ディアンの次女の表情。嫌悪感あらわな長女と違い、次女は素直に溶け込んでいきます。なんだか、それが私には「救い」(ディアンへの)に感じられたのです。

ヤマ(管理人)
 おぉ、これは細やかなところを受け止めておいでですねー(感心)。そう言えばイン・アメリカ/三つの小さな願いごとでも、妹のほうがマテオに素直に溶け込んでいたことを思い出しました。

(マタンゴ・ともこさん)
 ただそれだけの「偏愛」なので、なかなか大縄跳びに入れなかったわけなんです。

ヤマ(管理人)
 こうして入って来てくださり、感謝です。

(マタンゴ・ともこさん)
 剃毛の件。

ヤマ(管理人)
 はい(笑)。

(マタンゴ・ともこさん)
 はじめは、なんで~~~??って思いました。あとから、映画の「枠組み」というか「つくり」からすると、そういうもんか、とも思いました。

ヤマ(管理人)
 ですよねー、後付理屈みたいなものを自分のなかで要しちゃう流れでしたよね。

(マタンゴ・ともこさん)
 しかし、あの「毛」でコートを作るという発想は、やはり、狩猟民族のなせる業ではないでしょうか? 日本人だと、せいぜい、鶴の羽の反物か。

ヤマ(管理人)
 じゃあ、マタンゴさんは、“毛皮のヴィーナス”派ではなく、“O嬢の羽根飾り”派というわけですね(笑)。




◎掲示板(No.7580 2007/07/18 05:13)から

(シューテツさん)
 ヤマさんの“セックス論”ですが、個人的にはほぼヤマさんの意見に同意しますが、一般的な解釈は、その辞書の方の見解(大辞林によりますと「性的欲望。また、性交すること。」となります[梅吉さん])で合っていると思っています。

ヤマ(管理人)
 あれ、シューテツさんも?(笑)

(シューテツさん)
 いやいや、世間一般の解釈としてその方が多いように思われるってことです。つーか、そちらの意味での使用頻度が多いように感じているだけです。

ヤマ(管理人)
 セックスって、欲望のことなんですか? 行為のことではないんですか、日本語では。

(シューテツさん)
 あと、私の最大の関心事は、ヤマさんの今回の文章の中では触れられていませんが、要するにヤマさんの言うところのセックスを複数の人間と行う事が可能なのか(成立するのか)どうか?という部分ですかね。

ヤマ(管理人)
 そりゃあ、成立はし得るんじゃないですか? 誰もが皆ってことではないでしょうが、可能か否かってことでは、可能だと思います。

(シューテツさん)
 これって、大概の国ではタブーですが、文化によっては許されているところもあり、元々人間の資質として果たしてどっちなんだ?という事が気になりますね。f^_^;; それが、色々な色恋の問題への一番大きな要因の一つになっているでしょ。

ヤマ(管理人)
 ことフィジカルな合一にかかるセックスに限って、ということでしょうか、それとも精神的な合一や感情的な合一も含めてなんでしょうか?

(シューテツさん)
 こちらの方の事です。それとタブーというより制度的なものとして例えたほうがよかったかも知れませんね。現状は調べていませんが、一夫一婦制多い世の中ですが、例えば一夫多妻制だとか多夫一婦(あるのかな?)というような処もありますし、そういう処でのセックスの概念が少し興味あったのです。

ヤマ(管理人)
 なんという映画で観たのだったか、忘れましたが、誰もが扶養力を持ってはいないなかにあっては、豊かで力のある者がそれに見合うだけ引き受けないと食い繋げないのだというのがあったように思います。女性が外で働いたり、商売をすることが認められていない社会なんでしょうね。そういう文化のなかにあっては、性道徳といった問題ではないわけですよね。
 まぁ、いずれにしましても、僕は、別に大概の国でタブーとされているようにも感じてませんよ。奨励されているとまでは思わないにしても、忌み嫌われてタブー化しているとも思いませんねぇ。得られる得られないは別にして、生来的には、むしろ人間にはありがちなことのようにすら思います。禁忌する部分があるとすれば、そのほうがすぐれて文化的なものからっていう気がしますね。

(シューテツさん)
 それまでのケイケイさんとの会話とは若干意味合いの違う視点から、複数の人間と同じ気持ちで(ヤマさんのいう“人の愛にまつわる三つのカテゴリー”を含む)セックスをしたとして、どちらかは本物のセックスで、どちらかは偽りのセックスって事になってしまうのでしょうかね。私はどちらも同じセックスだと思うのですけどね。
 まあ、社会的な部分や色々な状況でのプレッシャーや葛藤は伴うとは思いますが、どちらが本物でどちらが偽りって事もないような気がするのですが、その辺りについてはどうなんでしょうね。

ヤマ(管理人)
 え~と、先ず僕の言うところのセックスと意味では、友愛や敬愛にセックスはなじみませんよ。だって、合一を志向する愛(=性愛)の求める行為であればこそ、「すなわちセックスというのは、ひとつになろうとする行為」としているわけですから、合一を志向する愛ではない他の二つの求める行為ではないわけです。
 ただし、性愛と友愛と敬愛は、背反的に選択されるものではありませんから、一つの関係性のなかに、その三つともが併在していることは勿論あります。というか、そういうことのほうが多そうだし、望ましいように思っています。
 で、複数の関係性において、ひとつになろうとする行為=セックスが成立し得るか否かで言えば、セックスという行為は、それによって不可分一体を固定化するものではありませんから、というか、ひとつになろうとして行為を重ねても、それでひとつになるというものではないのが、現実なのだけれども、ひとつになっていると思いたいがゆえに、関係性のほうをひとつに限定したがる気持ちが生じるのだろうと思います。“ひとつ”ということについて、ここで微妙にすり替えて代償する感覚が生じるんでしょうね。
 従って、そういった混乱が情動として生じない場合は、関係性の限定に置き換えて“ひとつ”を担保しようとまではしないように思います。いずれにしましても、「同じ気持ちで」した「ひとつになろうとする行為」において“本物・偽り”は、ないように思います。そこに違いがあるとするならば、それは「同じ気持ちで」ではないことに起因しているのであって、行為の違いではありませんね。

(シューテツさん)
 このヤマさんの論はまたまた興味深く拝読させていただきました。m(_ _)m

ヤマ(管理人)
 恐れ入ります(笑)。

(シューテツさん)
 私にとって面白かったのは「ひとつになろうとする」の一つは、あくまでもその個人にとっても一つと解釈する事が正論だという人達が圧倒的に多いのかな?という事をあらためて認識いたしました。

ヤマ(管理人)
 僕は、乱暴にもそれを「微妙にすり替えて代償する感覚」などと言ってますが、“正論”のほうからすれば、とんでもない話に聞こえるかもしれませんね(苦笑)。

(シューテツさん)
 こういうSEX論というのは、いつもそういう人達の概念の前提があって、それに対しての論議になりがちですが、最初からそういう前提概念の無い、先ほどあげた例えば一夫多妻制などの国の人達に対してだとやはり中々想像力が働かないですものね。

ヤマ(管理人)
 ええ、それはそうなんですが、僕は、そういう制度的状況が異なるなかでのことよりも、例えば、千石イエスのおっちゃんのような事例のほうが測り知れなく、面白い気がします。

(シューテツさん)
 でも、あえて“愛”という言葉は使いませんが、人を好きになったり大切に思う気持ちって、人間にとってもっとシンプルなもののように思うのですが、そこにセックスという(行為のみの)概念の違いだけで、様々な問題が発生する訳ですよね。面白いなぁ~。

ヤマ(管理人)
 そうですねー、ホント。
 やはりセックスというのは、それだけインパクトのある行為なんですよ。インパクトの面だけで言えば、通常、メンタル<エモーショナル<フィジカルだと思いますが、高揚感では、メンタル<フィジカル<エモーショナルで、慣性力になるとエモーショナル<フィジカル<メンタルっていう気がしてます、僕は。三つともで一体感の共有を果たしていれば、最強なんですが、それとても、一体“感”であって、決して一体では有り得ないのが、人間ですよね。

(シューテツさん)
 これはセックスだけでなく“豊かさ”などについても同様の問題ですが、人間ってホント考えよう一つで、幸福にも不幸にもなる生き物なんですねぇ~。

ヤマ(管理人)
 考える葦、だそうですし(笑)。

(シューテツさん)
 そういうものは元々あるものとして肯定するのか、絶対に有り得ないものとして否定するのかで、人間の生き方ってまるで違ったものになってしまいますからね。(善悪の問題はとりあえず除外してのお話ですけどね

ヤマ(管理人)
 有り得ないなどとは考えていませんね~。それが有り得ないとするなら、むしろ、複数であるか否かによるのではなく、たとえひとつの関係性であっても、そもそも“真の合一”などといったものが有り得るのかという意味で問題になってくるようなことだと思います。

(シューテツさん)
 この問題って、ある意味人間の“生善説”と“生悪説”と同じ位スケールのでかい問題ですけどね(笑)。

ヤマ(管理人)
 そーなんでしょうか(笑)。大難問ではあるけれども、スケールは別にでかくもない気がするのですが(あは)。
 でも、普遍性は大いにありますよねー。

(シューテツさん)
 がははは、でもこの問題がスケールが大きくないという事は、私にとっては人間そのもののスケールがそもそも大きくないっていう意味と同じ事ですわ(爆)。

ヤマ(管理人)
 そーですよ~。
 人間って、なかなか奥深くて興味の尽きない存在ではありますが、スケールっていうことでは、やっぱちっぽけな存在ですもん。ときどき、そういう人間としての尺度からすると、桁外れた“怪物”みたいな人物も少なからず現れはしますが、人間総体ってのは、かなりトホホなもんじゃないかと(苦笑)。
by ヤマ(編集採録)



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