『花と蛇』
監督 石井 隆


   二十余年前に谷ナオミによる小沼版の『花と蛇』を観たときには、当然のように女性客の姿は全くなかったけれど、今回は少なからぬ数で、しかも各世代にわたって万遍なく見掛け、いささか驚いた。時代の変遷というのは侮れないものだとつくづく思う。だが、主演の杉本彩が凄いことになっているとマスコミが煽り立て大っぴらに扱ったことで、ふだん目も向けない人たちが易々と足を運んでしまう状況にはやや複雑な思いが生じる。

 かなりキツいイメージのある杉本彩を遠山静子にキャスティングすることには少々違和感があったのだが、映画が始まってみると思いがけない柔らかみと気の優しさを偲ばせるフォトジェニックな効果と演出で撮られていることに驚いた。併せて抜群のプロポーションと共に見せる踊りの動きの強靭さが抜かりなく捉えられていて、映画の出来への期待を抱かせたのだが、どうやら作り手の意識は団鬼六の『花と蛇』ではなく、キューブリックの遺作アイズ・ワイド・シャットにあったようだ。僕が五年ほど前の日誌に「秘密のパーティのほうは仰々しくも妖しく、壮麗に描きはしても、裸体や性行為そのものを映しているのに殆ど官能性を漂わせず、他方で冒頭のダンスシーンでは裸体も性行為も映さずに危ない官能性を濃密に漂わせたりする。」と綴ったことと符合するように、圧巻とも言うべきSMショーに係るシーンに、小沼版には宿っていた覚えのある“まがまがしい官能性”というものがほとんど感じられない。それが意図的なものだったか否かは不明だけれど、『花と蛇』の映画作品として効果的だったとは思えないように感じた。


 考えてみるに、『アイズ・ワイド・シャット』のほうには乱交パーティとは対照的な形で冒頭のダンスに濃厚な官能性が宿っていたし、物語自体の主軸が夫の心理にあったから、好き嫌いは別にして作品としての骨格に揺るぎがなかったけれど、石井版の『花と蛇』のダンスシーンにはそこまでの官能性はなく、夫の隆義(野村宏伸)が物語の主軸でもないから、『アイズ・ワイド・シャット』もどきのヘンな作品になってしまった印象が強い。そして、そのSMショーのシーンから情感的な官能性を剥ぎ取ることに対して、作り手は実は確信的だったのではないかと、僕は密かに感じている。その理由には二つのことがあって、一つはショーの進行役たる珍妙なセーラー服姿のピエロ男の鬱陶しいキャラ造形が興趣を削ぐ方向に働かされていたこと、もう一つは団鬼六の世界のキーワードとも言うべき“女の羞恥心”を執拗に責めつつ官能を煽り立てる構図が凡そ無視されていたことだ。原作のエッセンスに忠実ならば、ピエロ男の静子への言葉責めが羞恥心を突く形で前面に出てきてこその『花と蛇』の世界となるはずだ。だが、作り手側には、この“羞恥心”に対する時代的共有への不安があったのではないかという気がする。アナクロニズムの一言で一蹴されてしまいかねない。しかし、元々原作はそういうアナクロニズムに居直ることで成立するファンタジーとしての女性像の提示に官能的妙味が宿っている作品なのだ。久しぶりの映画化となる『花と蛇』に対して、ここのところのジレンマからキューブリックの遺作への注目が生じたのではないかという気がする。ベッドの上に置かれた仮面を予期せぬ形で隆義が発見して手に取るシーンもあったし、夫との再会場面での静子の台詞が一言「して」だったのも『アイズ・ワイド・シャット』でのラストの妻(ニコール・キッドマン)の台詞「Fuck me !」とまさしく重なる。でも、それだけにシーンや台詞のニュアンスの意味深長さにおける雲泥の差もまた露呈するわけで、少々気の毒だった。

 そして、VIPたちの見せ物にされた静子と京子(未向)のシーンから“羞恥を焦点にした情感的な官能性”が削がれた後に残っていたのは、まるで体育会系クラブのしごきとそれに耐える女子部員の如きスポコンもののような肉体勝負の様相だった。その観点から言えば、杉本彩の根性は見上げたもので、『花と蛇』的な心理責めではなく絵になる吊り物が主体のキツいシーンの連続技を次から次へと懸命にこなしている感じだった。責めのプロセスを描こうとせずにフェイドイン・アウトで荒技を連続して繋ぐ編集が更にプロセスの興趣を削ぐ形になっている。股間の茂みを惜しげもなく晒しつつ、様々な大開脚ポーズも厭わずに頑張っているのに、ろくに興趣の宿っていない画面を観ていると、何だか気の毒になってくる。もし、作り手が意図的に官能性を排除して晒し物にしたのなら、そっちのほうが酷なSMだとさえ思ったのは、フェチ的にも本当にマニアックだと思われるオーラル・マスクのギャグ(口枷)を噛ませて縛り上げ、あかい口腔を覗かせつつ湧き出る涎を無惨に垂れ流させたりしていたからかもしれない。ここには性器へのダブルイメージを滲ませるような鬼六的言葉嬲りがいかにも似つかわしいのに、ピエロ男はそれをしない。静子に向ける彼の言葉が脅しや説得に偏っていると、それが原作にもそっくりの形であるだけに削がれたほうの言葉嬲りが際立ってくる。


 そもそも鬼六的SMというのは、肉体的には苦痛以上に快感を引き出すことで心理的にいたぶることを主眼とした嫌らしさが身上だという気がする。多大なる心理的苦痛と幾ばくかの肉体的苦痛を圧倒する肉体的快楽によって翻弄し、被虐の炎を炙り立てる筋立てなのだから、肉体的苦痛を与えて苦しむ様に性的興奮を覚えるサディズムや肉体的苦痛そのものを性的快感とするマゾヒズムとは本質的に異なる。だから、スパンキングや鞭打ちといった責めはほとんど出てこない。そういう意味では似非SMで、団鬼六自身もそう語っているらしい。しかし、だからこその愛好者も得て、一般的認知を広げてきているのだろうし、日本ではむしろ鬼六的な調教馴致のほうがSMとして了解されている風情すらあるように感じる。そこでは理不尽な標的となった美女が存在自体として圧倒的に高い位置づけにある。そして、あらゆる面で恵まれ、高貴な美を体現している存在をひたすら卑しめ貶めようとする。だが、責める側は、とことん屈辱に晒されながらも性感に生々しく翻弄され歓びの反応を見せてしまう女の姿を浅ましいと嘲笑しつつも、どっぷりと魅了されていくのだ。そういう捻れた羨望と憧憬の深さにこそ凄みがあるのが団鬼六の世界だ。

 その前提となっているのが、どんなに辱められ貶められても失せることのない気高さを保つどころか、その全てを受容してなお崇高な妖しさを獲得してしまう女性像の描出を果たす彼の筆力だという気がする。それを支えているのは、ヒロインの“どこまで行っても枯渇することのない羞恥心と慎ましさ”であって、それが損なわれれば全て崩壊してしまう世界なのである。言わば、在り得べからざる大幻想に支えられたファンタジーであり、願望的な女性崇拝に他ならない。だからこそ、今や少なからぬ女性ファンを獲得してもいるのだろう。そして、彼の小説では、そのようなヒロインの絶対的な崇高さへの到達と同時に、どこまで行っても彼女を堕落させられない敗北的状況を以て無間地獄とするような形で、その筆が置かれることが多いように思う。

 確か小説『花と蛇』では、拉致された静子が素っ裸にされ、最初に与えられる恥辱が浣腸による衆人環視のなかでの強制排泄だったような記憶があるが、苦悶しつつ我慢する腹の痛みには筆の重きを置かずに、ひたすら羞恥に悶えるなかでの諦観の到来に重きが置かれていたように思う。谷ナオミによる鬼六ものには、こういう仕打ちや股間の剃毛などが羞恥責めとしてのハイライトに据えられていたような記憶があるが、石井版『花と蛇』では利尿剤を無理矢理飲ませての放尿をさせても、鬼六的羞恥を浮かび上がらせたりはせずに全体重の掛かる肉体的にキツい磔や宙吊りの縛りがハイライトになっていた。強制排泄を施されて漏便を晒す羞恥は、それが最も美人に似つかわしくない姿として、女の恥辱の極致とされるのが鬼六世界のお約束事なのだが、むかし読んだ劇画漫画『ワル』に忘れがたい場面がある。石井監督も元々は劇画作品『天使のはらわた』シリーズで一世を風靡した人で、僕らはいわゆる劇画世代でもあるから、とりわけ興味深いのだが、『ワル』は確か真樹日佐夫の原作による影丸譲也の作品だったと思う。

 どういう経緯でそうなったのかはすっかり忘れているが、拉致してきた鉄火肌の女将に手を焼いたチンピラたちが、縛り上げた彼女を屈服させるための切り札としての辱めに、和服の裾をまくり上げて尻を晒す形で跳び箱状の台を跨がせるように伏せ押さえつけ、薬液を注入して羞恥を煽り、こうすりゃあグゥの音も出めぇと嘯くのだが、気丈にも女将は押さえつけられたままで「女がホントに恥ずかしくてたまんないのは、惚れた男に抱かれて自分じゃないような気のやり方をしちまったときだ! 無理矢理そんなことされちゃあ、出るものが出ちまうのは当たり前のことじゃないか。別に恥ずかしいなんてことあるもんか。恥ずかしいのは、嫌がる女をふん縛って力づくでそんな馬鹿なことをするお前たちのほうだ。お前たちの恥の証をとくと見やがれっ!」と堂々たる啖呵を切ったのだった。実に真っ当で理にも情にも適った正論で、惚れ惚れとする。これだけの気っ風を備えた女性もまた小説『花と蛇』の遠山静子と同じく、現実には到底いそうにもない気がするが、少なくとも静子が女将のような啖呵を切る女性だったら『花と蛇』の世界は成立し得なくなる。そういう意味からも僕は“女の羞恥”を削いだ石井版『花と蛇』は、鬼六の『花と蛇』とは訣別しているような作品だという気がしてならない。


 さらには、登場人物の名前や役回りはそれぞれ見事に踏襲しながら、黒幕の田代一平(石橋蓮司)を卑しい成り上がり者の街金融の社長ではなく、遠山家以上の権力を持つ大物にしているところにも鬼六的世界との訣別が示されていたように思う。鬼六世界では、下賤の者が嫉妬と羨望による逆恨みによって憂さ晴らしを夢見ないではいられない不条理が人間社会の前提として不可避であることを背景にしているというのが、お約束事の構図だからだ。手を汚さずとも裕福であれる境遇を得て、使用人を持つことが当然のようにして許され、天賦の美を外見のみならず徳性においてさえも備えて生まれる人間がいる一方で、そのようなものからは一切無縁の境遇に生まれる下賤の者がいて、その敗北感と屈辱感が根底にあっての嫉妬と羨望による逆恨みなのだ。加虐側の人物描写においては、常に性的嗜好性以上にそのことが強調され、いささかお安い形でヒロインの不運と悲劇的構図が煽り立てられる。そのうえで、下賤に生まれた者の敗北感は、どんなに嗜虐の限りを尽くしても決して癒されずに敗北し続けるという無常感が自ずと漂ってくる。それこそが鬼六世界で加虐の側に立つ者の大前提なのだ。石井版『花と蛇』に描かれた絶大なる権力を持つ老人の妄執では済まない、それこそ浅ましい恨みや僻みが不可欠で、その浅ましさの次元に何とか引きずり下ろそうとすることこそが加虐のエネルギーの源泉のようにして描かれるのが常だったように思う。


 そんなふうに官能性・羞恥心・恨み僻みこそが鬼六世界の三大ポイントだと見ている僕にとっては、そのことごとくを外してきた石井版『花と蛇』に、却って作り手が自分と同じようなところを鬼六世界の重要ポイントとみなしていることが窺えるような気がした。

 そして、鬼六的似非SMの被虐の官能世界をそれはそれとして充分認めつつ、似非SMを以てSM世界だと勘違いしている向きに対して、鬼六作品原作の名の下に冷水を浴びせかけようとの意図までもがあったとすれば、それはそれで端倪すべからざるものがあるように感じた。だが、だからこそ、鬼六的ヒロイン像を投影され、スクリーンのなかで見事に体現し得た谷ナオミが憧れ慕われたようには、杉本彩は慕われないような気がする。見映えはしたし、これだけ頑張っていたのに、ちょっと可哀想にも思う。





参照テクスト『花と蛇2 パリ・静子』をめぐる往復書簡編集採録

推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2004hacinemaindex.html#anchor001073
by ヤマ

'04. 3.14. 天六ホクテンザ1



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