『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト』
(Fur:An Imaginary Portrait Of Diane Arbus)
監督 スティーヴン・シャインバーグ


 ちょうど半世紀前となる1958年は僕の生まれた年なのだが、ヌーディストのコロニーのような施設が実際にニューヨークにはあったのだろうか。「この物語は伝記ではない」とことわられて始まった、“イメージ的な肖像画”との副題を持つこの作品は、ダイアンではなくディアンと呼ばれていた女性の写真家としての目覚めと踏み出しを、それに相応しいフォトジェニックな映像で美しく描き出していた。

 写真に裸の姿を写し取ろうとするのなら、自らも全裸にならなくてはならないと宣告されたディアン(ニコール・キッドマン)が、全ての衣服を脱ぎ落として緑の芝の庭に歩み出るまでの映画の時間のなかに、彼女が写真家としての踏み出しを始めるまでの過程が、ここに至る三ヶ月間への回想という形で描かれていた。物語的には実にシンボリックで大胆な筆致で綴られており、なるほど“イメージ的な肖像画”だったように思う。そのなかで、良妻賢母として甲斐甲斐しく暮らしていたはずのディアンに訪れたものが剥き出しの裸にされていたわけだが、この肖像画によれば、彼女の深層世界は、夫アラン(タイ・バーレル)からの不用意な勧めと神秘的な異形の男ライオネル(ロバート・ダウニーJr)から届けられた鍵によって誘われ、扉が開かれたようなイメージとなっていた気がする。やはり導きの要る世界なのだろうかとの疑問がなくはないが、そうしておくほうが穏当なのかもしれないと思ったりもする。

 異形へのフェティッシュな嗜好性の部分とは別に、写真家としての心構え的なところで作り手の提示しているイメージは、すっぱり衣服を脱ぎ落としたディアンさながらに実に潔くも真っ当で、冒頭で提示された言葉がまさしくキーワードとして据えられていたように思う。そういう意味で、この物語は、心身に掛けての“ネイキッド”を主題としていて、それゆえにライオネルは、ディアンと真っ向から向き合ううえで全身に及ぶ自身の体毛を剃ってくれと求める展開になるのだろう。すなわち彼もまた全裸にならなくてはいけないわけだ。

 ただ、そうしたことによって、主題的整合性は見事に図れたものの、この作品の大きな魅力の一つであるべきフェティッシュな嗜好性における“イメージ的な肖像画”の部分が、かなりの減退を余儀なくされてしまったような気がしなくもない。毛皮商の娘として幼き頃から毛皮に包まれ親しみ、まさしく毛皮さながらの体毛に覆われた異形の男に魅せられたディアンなればこそ、その長く濃い体毛に激しい性的興奮を誘われるフェチズムに彼女の真実が窺えるというほうが、“イメージ的な肖像画”としてふさわしいような気がする。互いに惹かれつつも一線を画して遠ざけていたセックスに、ライオネルの命がもう長くはないことが露わになるなかで遂に踏み出す際に、肝心の毛を剃ってしまってどうするとの疑問が湧かぬでもなかった。

 映画を観た後で読んだチラシによれば、ディアンは、ここから十一年後の1969年に離婚し、71年に自殺をしたらしい。彼女の深層世界の扉が開かれたことがどのように影響していたのかは僕には窺い知れないけれども、素っ裸のままでは、人はそうは長生きできないということなのかもしれない。

 ディアンを演じたニコール・キッドマンは、もう四十歳になるはずなのだが、相変らずの美人ぶりに圧倒された。だが、さすがに体型には衰えが否めなかったのか、現場では体当たりで臨んでいる様子が窺えながらも、ストレートに映し出すことが避けられ、ボディダブルを使っていたようにも感じられた。




参照テクスト:掲示板談義の編集採録


by ヤマ

'07. 6.24. 天六ユウラク座



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