『ヘンダーソン夫人の贈り物』(Mrs Henderson Presents)
監督 スティーヴン・フリアーズ


 戦後日本のヌードレビューは、「額縁ショー」という形で始まったと聞き及んでいたのだが、それが戦中の英国に端を発したものであったらしいことを、実話に基づく作品だというこの映画で初めて知った。日本では、モデルが動けば風俗擾乱として摘発するというお達しがGHQから出されていたらしいのだが、「裸体が静止していれば芸術作品、少しでも動いたら猥褻物」などという空疎で建前的な基準は、どこかいかにも英国風だという気がしないでもない。二十代の時分にブニュエルの自由の幻想['74]を観て以来、僕の猥褻観というのは、当時の日誌に綴ったとおりのものとして定着しているので、こういう基準にはいささか失笑を禁じ得ないのだが、制約を余儀なくされることで昇華し洗練されるのが芸術表現の常という点では、結果論的には静止という制約を受けている分、ウィンドミル劇場の舞台は、芸術に向かっていたような気はする。そのあたりを考慮してか、ミュージカル・ショーの歌詞にもあった「ショーの魅力は洗練、娯楽に要るのは熟練」という一節を非常に意識していたような印象の残る映画だった。ちょっと洗練のほうに囚われすぎていて、もう少しサービスがあってもと思えるほどだったが、なかなかのステージ演出ではあったように思う。とりわけ、静止したヌード嬢たちにわずかの動きと表情の変化を最後に添えることで、その魅力が倍加することを示したショットが終幕場面に仕込まれていて、鮮やかに印象づけていたところには、ちょっとニンマリしたけれど、本当は、ドラマ的にもっともっと面白く作れる映画だったような気もする。

 実話に基づく物語なればこそ、仮に事実、ヘンダーソン夫人(ジュディ・デンチ)の遺した言葉として、生身の女体を目にすることさえなく戦場に散ってしまった息子への想いに端を発した若い兵士たちへの慰撫というものがあったにしても、決してそれだけではないはずで、その辺りを少々殊更めいて美談化しすぎていたような気がしなくもない。当時、ヘンダーソン夫人や踊り子たちに向けられていた視線と彼女らの葛藤や抗いがもう少し丹念に描かれていたほうが映画としての深みが増したように思うのだが、作り手としては、娯楽に徹したということなのだろう。なにせキーワードは「ショーの魅力は洗練、娯楽に要るのは熟練」という映画作品だ。

 だが、たとえヘンダーソン夫人の実際の思惑が、明日にも命を散らし得る若い兵士たちへの慰撫として、戦時下なればこそ一日たりとも劇場を休むわけにはいかないということばかりではなかったとしても、戦死した息子の遺品に隠されていたヌード写真が彼女に鮮烈な印象を残したように、多少の例外を除いて、多くの男にとって、女体を目にし触れることが何にも増した慰撫となることは、何も若い連中だけの話ではない。何年か前の新聞報道で目にした記事だが、確か、特老ホームで寝たきりだった爺さんにロマンポルノを見せていたら、自立歩行ができるまでに機能回復したとの話もあるくらいで、徒な疎かには出来ないことだと思う。だから、夫人の興行上の思惑とか劇場や踊り子に向けられた視線とかの部分ではなく、そこのところにもっと焦点を当てたドラマとして描かれていても、映画としての深みは、やはり増したように思うのだが、それも少々中途半端な気がした。筋立て的には、劇場支配人ヴァンダム(ボブ・ホスキンス)への若々しい思慕を秘めた、老境にある男女の友情物語がクローズアップされていたように思うのだが、映画企画として、いかにも中高年女性客をターゲットにしていた気のする本作品の“娯楽に徹した映画づくり”からは、いささかのぶれもない見事な職人芸だったというべきところなのかもしれない。達者なもんだ。
by ヤマ

'07. 6.15. 県立美術館ホール



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