『カナリア』をめぐって
映画通信」:ケイケイさん
咆哮」:シューテツさん
ヤマ(管理人)


  No.5848から(2005/09/14 15:08)
(ケイケイさん)
 ヤマさん、こんにちは。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、ケイケイさん。

(ケイケイさん)
 この作品は、私は3月ごろ観たのかな?
 何だか消化不良の多い作品で、自分の感想文では「惜しい作品」と書いた記憶があります。

ヤマ(管理人)
 先ほど再読しました。いろいろ触発されました(礼)。

(ケイケイさん)
 ヤマさんの感想を読んで、そういうことだったのかぁ、と今思っているところです。

ヤマ(管理人)
 お読みくださいましたか、ありがとうございます。
 拙日誌が既見作品の振返りの機会になったようで、とても嬉しいことです。

(ケイケイさん)
 「居場所のなさ」、なんですね。これはキーワードとして、よく理解できます。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(ケイケイさん)
 教団を脱会した人たちのコミュニティは、それをよく表現していたと思います。

ヤマ(管理人)
 そうですね。でも、彼らだけじゃないんですよね。言うなれば、あの作品の登場人物は、みんなそうでした。


-------レズビアンカップルの登場がもたらしてくれたもの-------

(ケイケイさん)
 ただあのレズカップルはどうも・・・。

ヤマ(管理人)
 実は、僕のなかでキーワードとしての“居場所のなさ”という言葉がいつもの反芻過程で湧いてきたのは、あのレズカップルのおかげだったんですよ(笑)。

(ケイケイさん)
 のっけに殴り合いをした後に乳繰り合いでしょう?(笑)。私はふとテレンス・ヤングの『アマゾネス』にも、そんなシーンあったなぁと浮かんじゃって(笑)。同性愛というだけで、世間一般からは充分居場所が少ないと思うんですよ。ましては片一方は、離婚歴があって子供を元夫に託しているわけで、こんなややこしい描き方をしなくても、普通に別れの近い同性愛カップルにしたら良かったのにと、過剰な演出にちょっとしらけました。

ヤマ(管理人)
 ですよね〜(笑)。僕もなんじゃ?このシーンは!って思いましたもん(苦笑)。それまで由希と光一の出会いと行き掛かりを、ケイケイさんも「描き方が素晴らしいです」と映画日記に綴っておいでのように描き出した作り手が、なんでこのレズカップルを登場させたのだろうって凄く引っ掛かり、僕の反芻作業は、専らそこから始まったんですよ、実は(笑)。

(ケイケイさん)
 そうなんですか。しらけたまま投げ出した私と大違い(笑)。疑問に思ったら、もっと考えなくてはいけませんね。昨日も友人と『メゾン・ド・ヒミコ』を観て話していたんですが、レズビアンは同性なので、どうも私は違和感があって。男性同士の方が違和感は少ないです。

ヤマ(管理人)
 あ、これは僕もそうかも(笑)。でも、レズビアンには何かもったいないって感じがしちゃいます。そうでなくなったところで自分にお鉢が回ってくるわけでもないのにね(笑)。なんでかな?(苦笑)

(ケイケイさん)
 レズカップルで私が違和感なかったのはマルホランド・ドライブかな? 『カナリア』でのあれが不倫で駆け落ちした男女という設定なら、痴話げんかの果ての抱擁も、素直に納得出来たと思います。

ヤマ(管理人)
 もっと時代が古ければ、不倫カップルも“居場所のなさ”というキーワードを導いてくれたかもしれないけど、今どきだと、僕には想起できなかったかもしれません(たは)。あのカップル、不倫のレズビアンでしたよね〜、確か。まだシングルにはなってなかったように思いましたが…。
 で、もしこれが「普通に別れの近い同性愛カップル」だったら、そんな引っ掛かりは僕のなかに生じなかったように思うんです。確かに奇異であろうが普通であろうが、同性愛カップルでありさえすれば、おっしゃるように「同性愛というだけで、世間一般からは充分居場所が少ない」のでしょうが、それだけでは、映画の受け手たる僕がそこに敢えて“居場所のなさ”を嗅ぎ取ったりはしなかった気がします。僕にとっては、どうにも据わりの悪く感じられるものが敢えて置かれているからには、そこに何らかの意図があるはずで、それはなんだろうと考えているうちにキーワードとしての“居場所のなさ”という言葉が湧いてきたのでした。そのとき併せて「そーか、だから、由希だったんだ」とも思い至ったんです。そういう意味では、僕にとっては、とても有効な引っ掛かりでした(笑)。
 幾つかのシーンの据わりの悪さにしらけてつまらなくなるか、引っ掛かりとして自分のなかで追求したくなるかの分かれ目は、その据わりの悪さをなんとか解消して納得したくなるような魅力を全体としての作品に対して感じる観客の側の“程の度合いの問題”であって、僕にしても、いつもいつもそうなのではなく、例えば、最近では『宇宙戦争』など、前回の更新でアップした往復書簡を御覧いただければ一目瞭然ですよね(苦笑)。

(ケイケイさん)
 私は『宇宙戦争』はヤマさんとお茶屋さんの間くらい。色々ケチはつけたいけど、まぁ堪忍しといてあげるわと言う感じです(笑)。結局面白く観たということですね。

ヤマ(管理人)
 いやぁ、それに越したことないですよ〜。

(ケイケイさん)
 『カナリア』は投げ出すか追求するか、ずっと微妙な線でラストまで行ってしまいました。親の愛情を必死で捜し求める子供を描きながら、男女の逃避行の部分もきちんと描けていて、本当にこの子達の描き方は見事でした。それに比べると、脱会者や残っている者、祖父や母の描き方は踏み込みが甘い感じがしてしまって。これだけ自分だけにしか意識が向かない人たちも珍しいなと(笑)。どうしてそうなったかがイマイチ見えてこないので、居場所になさにも、子供達ほど理解や同情が沸かなかったです。

ヤマ(管理人)
 子供達が、やはり際立ってますよね〜。で、そこを入り口にして、まさに「どうしてそうなったか」の理由こそが“居場所のなさ”なんだと伝えようとしてたんじゃないのかなって思いました。でも、そこがメイン・テーマではなかったろうとも思います。メインは、どうこう言っても、やはり子供達ですよね。
 ところで、僕が『宇宙戦争』にあんなふうな難癖つけているのも、全体としての作品に先ず脱力してしまったからだろうと思っています(笑)。
 僕は、日誌の綴り方が「〜だから…だ」という形になっていることが多いので、論理的だと見られがちですが、実際は逆で「…」に係る直感的なものが先にあって、なぜそう感じたのだろうっていう理由探しをして、自分なりの得心を求めるんですよね。そういう反芻作業を経て日誌を綴るので、綴るときには「〜だから…だ」となるんですよ(笑)。で、今回は、脱力じゃなくて支持が、観終えて先ず生じているから、据わりの悪さを引っ掛かりとして自分のなかで追求したくなったんです。そしたら、ああいうものが出てきたというわけです。

(ケイケイさん)
 そこで理由探しをして、自分なりの得心を求めるのを論理的って言うんじゃないんですか?(笑)

ヤマ(管理人)
 うは! そう言われれば、確かに(苦笑)。ま、僕が言いたかったのは、観た後、論理的に“考えてる”のであって、論理的に“観てる”んじゃないってことですよ(たは)。

(ケイケイさん)
 私なんか感情だけで書いてるもん(ワハハ!)

ヤマ(管理人)
 決してそうとも言えないと思いますが、ケイケイさんの映画日記のイチバンの魅力が感情の豊かさであるのは間違いないですねー。
 その追求のエネルギーを僕にもたらしてくれた最大の功労者は、ケイケイさんも「由希をこれ以上ないほど熱演しています」とお書きの谷村美月だったように思います。も少しヒットしていれば、新人賞間違いなしってな精彩を放ってましたよね〜。

(ケイケイさん)
 すごかったですよね、彼女! 新人賞なんか飛ばして、主演女優賞をあげたいくらいでした。火火の田中裕子と比べても見劣りしません(絶賛)。今、海賊版撲滅のCMに出ていますが、『カナリア』とは別人みたいで、CMの方はあんまり魅力がないですね。セリフを喋ると生えるタイプの女優さんかな?

ヤマ(管理人)
 あらま、そーだったんですか! あの黒い涙を流すやつでしょ? へぇ〜、そーか〜。全然気づかなかったですよ、僕。あっちは完全に美少女系ですよね。実は僕、黒く流れ落ちる涙に沿ってカメラが降りていく際に大きく映る唇の少し歪んだ加減に妙に惹きつけられてましてね(あは)。
 それからすると『宇宙戦争』のダコタ・ファニングには、由希のような魅力はなかったし、トム・クルーズにしても、光一を演じた石田法嗣が体現していた「世間ズレした今時の少年にはない生真面目な頑なさ」に匹敵する精彩を放ってませんでした。西島秀俊の演じた彰とティム・ロビンスの演じたオギルビーを対照させても、やっぱり僕には『宇宙戦争』のほうが魅力に乏しい気がします。

(ケイケイさん)
 私はそんなにタコタは嫌いじゃないんですが、今回初めて鬱陶しいと思いました。

ヤマ(管理人)
 僕もそうです。『アイ・アム・サム』でのルーシーは、よかったですよ。あんときは、むしろショーン・ペンの演技のほうが鬱陶し気味っていうか、演技力見せつけ型って感じがしましたよ、僕はね。

(ケイケイさん)
 お芝居は上手なんですから、そろそろ相手役で作品を選ぶのは辞めた方がいいかも。

ヤマ(管理人)
 僕は、映画のなかの絵とか動きとかも好きなんですが、やはり映画のなかに“人間”を観ている部分が強いほうなので、『宇宙戦争』では、絵とか動きや場面演出の魅力でカバーされきれなかったんでしょうね。


-------突如、白髪と化した光一のもたらした効果-------

(ケイケイさん)
 それとラストのあの白髪(笑)。言いたいことはわかるんですが、これもどーもダメ。

ヤマ(管理人)
 映画日記には「母の死を知って一瞬の内になったと解釈しました」とお書きですね。僕は不思議と、ついぞそうは想起せず、拙日誌にも綴ったように“教祖誕生”の視覚イメージと解釈しておりますが、ケイケイさんの映画日記を読んで、むしろ、こう解するほうが自然だよな〜と思わぬところを突かれたような気がしました(たは)。僕にとっては、光一の「天啓を受けたように神懸かった口調」が効いたんでしょうね(笑)。

(ケイケイさん)
 私は逆に教祖誕生なら自然かなぁと、ヤマさんの感想を読んで感じていました(笑)。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。この解釈のほうが物語的にはすっきりしますよね。
 でも、光一の希望の光である母の死の与えたショックって受け止めるほうが、感情的には、やっぱり自然な気がしますよ。解釈はともかく、なんで自分は想起もしなかったんだろうって思いましたよ、僕(苦笑)。

(ケイケイさん)
 でも、自分が観ていたときは、子供二人の道行きにぐっと感情移入し続けていたので、こういう終わり方にするかと、すごく落胆してしまって。ヤマさんの感想を読んで、ちょっと気を取り直しましたが、やっぱり不満(笑)。

ヤマ(管理人)
 ケイケイさんが映画日記に「兄を見て、妹は何の疑問もなく抱きつき、3人一緒に手を携えて生きていこうとするラストは誰も知らないに似ていますが、最後に生きる希望を感じさせた『誰も知らない』に比べ、こちらは収集がつかなくなって尻すぼみになった感があります」とお書きの終わり方のことですね。
 同じように僕も『誰も知らない』を想起しつつ、あれとは全く違うという違和感のほうが強かったですね。で、なんでそう感じるんだろうと追求してると“教祖誕生”イメージが作用しているからだと思い当たったんですよ。

(ケイケイさん)
 教祖誕生と観ると、すごーく暗いですよね。三人で暗闇へまっしぐら(笑)。

ヤマ(管理人)
『誰も知らない』の明は、『カナリア』の光一みたいに「神懸かった口調で突如祖父に赦しを与える」ような変貌は見せず、誰も知らない』の拙日誌にも綴ったとおり「孤独な魂同士の再会が生の同伴者としての殊のほかの掛け替えのなさを双方に抱かせているような、ささやかな光を醸し出していた」という感じの終わり方でした。

(ケイケイさん)
 ユキの「私も誰か人の役にたちたいねん。」と言うセリフが印象的でした。その役にたつ事柄のあまりの無鉄砲さと幼さ、でも子供なりの正義感も感じさせて、饒舌なのに自分の殻も作るユキの、一番本当の姿が見えた気がします。

ヤマ(管理人)
 そうなんです!! 僕も反芻しているうちに、こういう人物造形を由希に施してあることが鍵だと思うようになりました。こういう由希を光一に近づけて“居場所のない者同士”として重ね、ある種の同一化を図っているわけですよね。そして、その光一の背後には教団の信者たちという存在があり、信者のなかにもさまざまな立場の種々の者がいるわけです。十把一絡げに“教団”として責を問うと、確かに判りやすくなるのですが、それってアメリカ政権の国際戦略を非難し、その責を問うときに、政権を担いも支持もしてない人も含めて丸ごとアメリカを責めるのと同じことになるのではないかという気がします。
 僕は、今のアメリカの国際戦略には大いに憤慨していますが、アメリカ映画は好きですし、好感を抱いているアメリカ人も数々います。確かにアメリカであれ、日本であれ、現在の政権に支持を与えているのは、自分も含んだ“国民という総体”なのですから、その責の一端を負ってはいるのですが、例えば、日本国民だからってことでイラクの人に拒まれてしまうようなことがあったら、それはそれでやむを得ないと思いつつも、ちょっと悲しい気分になります。また、今に続く歴史のなかでの数々の虐待や差別という事実によって、韓国の人から、日本人ということで拒まれるとしたら、やはり悲しく思います。
 そういうなかで、作り手が由希にケイケイさんのおっしゃるような人物造形を施していたのは、何を意味しているのだろうって考えたりもしたわけですよ。そして、白髪と化した光一と手を携えて由希や朝子に“独自の道”を歩ませるようなことをしてはいけないと思った次第でした。やはり彼らは被害者なのだと思います。

(ケイケイさん)
 逆の発想というか、描いた奥ですね。ヤマさんの結論なら、救われる気がします。

ヤマ(管理人)
 お得でしょ(笑)。ケイケイさんとの比較では『宇宙戦争』の分、取り戻したような気分です(笑)。

(ケイケイさん)
 ちょっと嬉しいかも(笑)。お書きのように、この子達だけじゃない、被害者の子供達は他にもたくさんいるわけですから。

ヤマ(管理人)
 ですよね。僕が、格差奨励社会への邁進途上にある日本で、社会の荒みに憂鬱を覚える被害者であるのと同じ程度に、その責任の一端を免れないなかでの被害者なのだろうという気がしています。

(ケイケイさん)
 今回の選挙で、言葉こそ違えど、私がネットでお付き合いのある方全て、同じ意味合いのことを仰ってるんですよ。びっくりするほどです。ちょっと気持ちが暗くなってきました(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕は、日誌を綴り始めた二十年前からも、日誌のなかで政治について書いたりはしてましたが、時事的な政治問題や現政権批判みたいな生臭さはずっと避けていました。自分の映画日誌は意識的に時事的なところから離れてたんです。ですから、ちょっと迷いつつも、そうではない方向に踏み出した日誌は 記憶に残っていて、米英のイラク攻撃支持を日本政府が表明したことに否の意思表示をしたダーク・ブルーの日誌でした。奇しくも英題が“Dark Blue World”なんですよ(苦笑)。

(ケイケイさん)
 ところで、ユキの裸を見てお金を払う老人、奥村公延でもいいんですが、浜村純が存命なら、もっと老人の滑稽で哀れな姿を演じてくれて、作品のいいスパイスになった気がします。

ヤマ(管理人)
 うん、うん。『祭りの準備』で桂木梨江の演じるタマミに入れ込んでいた老人をやってましたね。あれは絶品でした(笑)。十代時分に観た僕の記念碑的な作品の一つですよ。

(ケイケイさん)
 それで浜村純なら、もっとそれを表現出来ただろうなと。実物の浜村氏は、背が高くて落ち着いたダンディなお爺さんだったみたいですね。インタビュー番組を見て、素敵な人だと記憶にあります。
 それはともかく、ユキの裸を見てお金を払うあの老人も居場所のない人なんですよね。

ヤマ(管理人)
 なるほど。彼もそうですね〜。かの独居老人までは、僕は思いが及んでいなかったのですが、言われてみれば、確かにそのとおりです。

(ケイケイさん)
 これはヤマさんの居場所のなさから連想しました(笑)。

ヤマ(管理人)
 おお、それはそれは! なおさら嬉しいじゃありませんか(礼)。
 本当にあの作品の登場人物は、みんなそうだったんですねー。これは、よい気づきを与えていただきました。ありがとうございました。

(ケイケイさん)
 ヤマさんとの対話重ねて、今なるほどと納得しているところです(*^^*)。やっぱりこの作品を観て良かったなと思います。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。管理人なればこそ許されるみたいな呆れるほどの長レスしちゃって申し訳ありません。そう言っていただいて助かりました(礼)。


-------シューテツさんのブログへの書き込み-------
title: 御覧になってたんですね。 ヤマ 2005-09-19 23:59
 僕も『誰も知らない』を想起したのですが、あれとは全く違うという違和感のほうが強かったラストでした。そこんとこと例のレズ・カップルの「なんじゃ?このシーンは!」って違和感が僕の反芻作業の出発点になったのですが、ラストシーンの受け止め方は異なれど、「大人(社会)も様々ではあるが関係性としては最終的に信用してはいないということだろう。というか、今の時代では大人(社会)は頼ってはいけない対象になっている」ということでの「同じ」には同感です。
 「最後の主人公の言葉に対して私達大人はどう受けとめて良いのか」との個人的回答を僕は「棄ててはいけない」と素朴に出してしまったのですが、個人の行動としては何もしていない以上、語る資格を持っていなかったのかもしれません。
 でも、思いの表出に「資格」なんてものが要るのかなとも思いつつ、シューテツさんのほうが誠実だなと思ったりしました。これについては、僕はそれは「資格の問題」というよりは言葉の「説得力の問題」ってことではないかと考えています。そういう意味では、拙文での主張には説得力が欠けているってことになるな〜(とほ)。
 まぁ、でも、日誌ですから、思ったことを率直に綴ったまでと言えば、それまでのことでもあるんですけどね(笑)。
------------------------------------------------

(シューテツさん)
 ヤマさん、お久しぶりです。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、シューテツさん。

(シューテツさん)
 私のブログの『カナリア』に折角コメントを付けて頂いていたのに、放置状態にして本当に申し訳ないです。m(_ _)m で、遅くなりましたがこちらの方にレスを付けさせて下さいね。

ヤマ(管理人)
 どうぞ、どうぞ、大歓迎です。

(シューテツさん)
 「ラストシーンの受け止め方は異なれど」ってとこですが、私もヤマさんの日誌を読んで、ああ〜こういう観方が出来るのかと感心しましたよ。

ヤマ(管理人)
 恐れ入ります。ちょうど今、かつての自主上映仲間のガビーさんとこの掲示板で、こちらにも訪ねてくださるムーマさんやお茶屋さんと面白い話になってまして、それとの関連で改めて思うに、僕は完全に大人の側で観ていて、彼ら子供たちに寄り添う側では観ていなかったですね。その点は、おそらくシューテツさんもそうだったのではないか、と。
 そして、『誰も知らない』についても、同様のことが言え、大人の側で観た人と子供たちの側で観た人がいたように思います。そういう面でも、両作品は共通してましたね。
(シューテツさん)
 教祖誕生という発想にまで私の場合は至らなかったので、ヤマさんの日誌は実に興味深かったです。

ヤマ(管理人)
 僕にとっては、あの神懸かった口調で突如祖父に赦しを与える行為とセットになっていたのが大きく作用しました。それと彰と光一の名前を弥次喜多風に繋げば、「ショーコー」となるようネーミングしてある点も、影響を及ぼしてます。

(シューテツさん)
 私の場合は、教祖誕生とは思いもしなかったから、『誰も知らない』と結末的にほぼイコールと感じた訳なんですけどね。
 それと「思いの表出に“資格”なんてものが要るのかなとも思いつつ、シューテツさんのほうが誠実だなと思ったりしました。」とのくだりでは、フォローしていただき、ありがとうございます(笑)。
 でも、結局は私もそう言いつつ“見棄てている”訳ですけどね。f^_^;;

ヤマ(管理人)
 行動的には、僕もそういうことになります。なんの支援活動もしてませんから。でも、僕は、わりと厚かましいもんで、行動していなくても、心情的には異なっていることを思いとして表出するのに、資格としての行動は特段に要するものではないと思ってますよ(あは)。

(シューテツさん)
 「僕は“棄ててはいけない”と素朴に出してしまった」とのことですが、これは、子を持つ親の立場と私のような一人身とでは絶対に差が出てくるのではないでしょうか?

ヤマ(管理人)
 それは確かにあるでしょうね。

(シューテツさん)
 だから、ヤマさんがそう思われるのは当然と言うか、自然だと思いますけどね。

ヤマ(管理人)
 こちらこそ、フォローいただき、恐れ入ります(笑)。

(シューテツさん)
 私がそれを言うと胡散臭いでしょ(苦笑)。

ヤマ(管理人)
 このへんがシューテツさんの誠実さの現れなんだと思いますよ。


-------それから一ヶ月ほどして-------
No.5984 (2005/11/09 20:55)
ヤマ(管理人)
 ほんの二日程前なんですが、シューテツさんへのレスでご紹介したシネマサンライズの掲示板での『カナリア』談義を読んで、塩田明彦監督が公式サイトの掲示板に長文レス[No.164]を書き込んでくださってるのですが、そのなかで「正直、映画監督にとってインターネットという場は恐ろしい場所で、観客の方々の生の声に触れる事ができるという前向きな面も大いにありつつ、発言者の品性すら疑わざるをえないような誹謗中傷にも溢れ、最近ではあまり近づかぬようにしていたのですが。」とお書きになってました。
 でも、掲示板での談義を読んで「やはり時には触れてみるべきかと再認識した次第です。」とも書いていただき、とても喜んでいるのですが、さらに嬉しいことには「発言者のひとりであるヤマさんの『間借り人の映画日記』の方も読ませて頂きましたが、その指摘を読んだ時には少々込み上げるものがありました。」とまで書いてくださってて、全く以て書き手冥利に尽きるというか、感激しているところです。

(ケイケイさん)
 ヤマさん、おはようございます。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、ケイケイさん。

(ケイケイさん)
 わ〜、監督さんに観客の声が届くなんてすごい!

ヤマ(管理人)
 ホントに思い掛けないことでした。

(ケイケイさん)
 塩田監督、腰の低い良い方ですね。レスに人柄がにじみ出てはります。

ヤマ(管理人)
 そうですねー。
 とっても丁重なレスで、しかもあちこちに配慮が行き届いてますよね(笑)。

(ケイケイさん)
 本当に書き手冥利に尽きますよね!

ヤマ(管理人)
 そりゃ、もう(えへ)。

(ケイケイさん)
 ヤマさんのか『カナリア』の感想文をもう一度読み直しました。

ヤマ(管理人)
 ありがとうござます。

(ケイケイさん)
 監督さんたちに良い仕事をして欲しくば、観客も真意を汲み取ろうとする努力も必要なのですね。それが次につなげようとする誠意も引き出すだろうし。要は一生懸命作った作品は、観る方も一生懸命観ないとダメということでしょうか?

ヤマ(管理人)
 まぁ、通常は、一観客の声が届くということはないですし、我々一般の観客には、別にそういう努力は必要じゃありませんよ(笑)。

(ケイケイさん)
 それでは通常通り、まったりと鑑賞します(^^)。

ヤマ(管理人)
 構えて観ると、ろくなことになりませんから、それが一番です(笑)。努力とか必要とかとは違うとこで、一般観客のまったりの質が上がってくれば、それこそ、批評家の促し以上に、作り手の良き仕事に対して効力著しいとは思いますが、下手に構えて観ても、そういうことには繋がりにくいですからねー。  努力をしなきゃいけないのは、以てそれを生業としている批評家たちで、作り手によき仕事を促すのは、彼らの仕事のハズですよね。

(ケイケイさん)
 でも、手抜きまるだしで作ったとわかる作品もあるのが、哀しいですけど(笑)。

ヤマ(管理人)
 もっと哀しいのは、ケイケイさんに振っていただいた花と蛇2』の対話で、僕が「石井隆としては緩み以上に、あれだけ話題と注目を集めても、団鬼六やキューブリックに対して施した意匠について、映画としては殆ど目を向けられないことに萎えたとでもいうか」という発言にて触れたような形で、作り手をスポイルしている場合のほうですよ。
 まぁ、石井隆監督の『花と蛇2』の場合が、実際にそうだったかどうかは全く確証のない話ですが、僕にはそんなふうに見えた作品でしたね。

(ケイケイさん)
 『カナリア』は、確かに一生懸命作った作品でした。

ヤマ(管理人)
 ええ、映画ならではの力の宿った作品でしたね。ここ、間借り人の部屋で対話していただいたときに「幾つかのシーンの据わりの悪さにしらけてつまらなくなるか、引っ掛かりとして自分のなかで追求したくなるかの分かれ目は、その据わりの悪さをなんとか解消して納得したくなるような魅力を全体としての作品に対して感じる観客の側の“程の度合いの問題”」だと書きましたが、僕にとっては、たまたまこの作品の力が、そうしたくなる程の魅力でもって映ってきたということであって、別に映画鑑賞に必要な努力としてそうしたわけじゃありませんでした(たは)。

(ケイケイさん)
 今日はお昼からタダ券があるので、友人と『TAKESI'S』観てきます。多分玉砕でしょうが(笑)。

ヤマ(管理人)
 『座頭市』は結局観逃しました(たは)。これも予告を観て、折りが合えば行ってもいいかなって感じです(笑)。他の作品の上映状況との兼ね合わせになりますねぇ。

(ケイケイさん)
 タダ券のお返しに友人がおいしいランチのお店を知っているので、おごってくれるそう。今日はそっちがメインです(^^)

ヤマ(管理人)
 そりゃよかったですねぇ〜。映画も食事も両方ともタダになったわけですか。そんならきっと『TAKESHI'S』にも不満は抱きますまい(笑)。
by ヤマ(編集採録)



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―