『カナリア』をめぐって
チネチッタ高知」:(お茶屋さん)
(ムーマさん)
シネマ・サンライズ」:(ガビーさん)
(塩田明彦監督)
ヤマ(管理人)


  シネマ・サンライズ掲示板から
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『カナリア』 名前: お茶屋 [2005/08/28,10:41] No.102
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 ガビーさん、ムーマさん、『カナリア』いかがでしたか?

 私は、大変おもしろく見ました。『誰も知らない』を髣髴させるところがありましたね。結局、親子の問題がクローズアップされる形になっていましたが、アイデンティティを模索する若者たちの話でもあり、わざわざカルト教団を出してきた意味もあったと思います。

 残念なところは、西島秀俊の長セリフやラスト(祖父との対決)がちょっと説明的だったことです。
 また、話の流れから行くと悲劇的結末が予想されたのに、荒技で希望ある結末にしたことがリアリティを欠き、「逃げたな」と思ってしまいました。でも、これは作り手の逃げではなくて優しさだったかもしれませんね。

 しかし、光一が短時間のうちに悟ることにも無理があるけど、その悟りを髪の色で表現したのがこれまたビックリで、誠に申し訳ないことにちょこっと笑ってしまいました(^_^;。

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希望について 名前: ムーマ [2005/08/28,12:49] No.103
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 私は、最近よく付き合ってくれる14才の男の子といっしょに観ました。

 お茶屋さんの言われるように、西島サン(あの方が、T・レオンの弟さんですね(笑))の台詞やラストについて、「説明的」なのが残念だと、私も思いました。
 光一の髪の色にもビックリ(笑)でしたが、見終わって最初に感じたのは、実は、ただただ「疲れた~~~~~~~」。

 何にそんなに疲れたのかというと、ストーリーの深刻さそのものにではなく、とにかく、出てくるオトナたちが全員自分のことしか考えてないということ。ここまで身勝手なオトナばかり大量に(笑)出てくると、自分は本当に疲れるのだということを、久々に思い出させてもらいました。

 人間が洗脳される生き物だということは、自分も含めて、周りをみているだけでもよく分るので(ソモソモ洗脳までいかなくっても、イエスを磔にするくらい、私もしそう・・・)、カルト教団についてどうこう言う気力は湧かないのですが、カルトと関係があろうと無かろうと、あの映画に出てくるオトナ達は、皆あまりにも自分のことしか頭に無い・・・。で、自分にだけ言い聞かせればいいことを、皆、こども相手にあたかも真理ででもあるかのように、厳かに或いはガナリたてて言う・・・。

 で、若いヒトの感想も聞いてみようと、一緒に行った男の子に尋ねてみると、彼は、「とても良かった・・・が、一番近いかな。でも、それより、見に来てる人、20人もいないくらいだったけど、大丈夫なんかちょっと(心配になる?)・・・」。

 「故郷の香り」は、人もたくさん入って、観た人の評判も良かったみたいだから、色んな場合があるのかも・・・と私が言うと、
 「オレ、カナリアの方がいい。」
 「どうして?。主人公達に親近感を持つから?」
 「こどもは、小さい女の子に、将来大学出してやるなんて「身勝手」なコト言わないから(笑)。ソウイウコト言わない人が主人公のほうが、やっぱりいいんだよね(笑)。」

 彼が私のように疲れたりしないのは、まさに「視点が違う」のだと、改めて思いました。14才の彼は当然こどもの立場で観ており、作品中のこどもはと言えば、せいぜいモノを壊すぐらいしか悪いことはしてない・・・。

 お茶屋さんは、あのハッピー・エンディングを「荒技」と言っておられますが、私もほんとにそう思います。ただ、その一方で、あのエンディングをみて初めて、「そうか、こどもはどういう経路をたどったとしても、将来への道が見つけられるんだ・・・。」と思い、こういう希望の持ち方(持たせ方?)もあるのか・・・と、驚きました。

 「こどもは親を選べない」けれど、生の現実の中を必死で自力で泳いできた子(由希)も、精神世界と暴力だけしかほとんど知りようがないような特殊な環境に居た子(光一)も、幼くてただただオトナのなすがままにされるしかなかった子(妹)も、皆、自分の人生、自分の未来の入り口見つけ出せるのだ・・・という希望。

 「いくらなんでも、あの髪はちょっと・・・」と私が言うと、彼は「主人公の内面の変化がどれほどのものであるのか、あの短時間で説明できないから、あれぐらいのコトしてみせるのも一手だと、オレは思うけど。それほど不自然とも思わないし・・・。」オタク属ゲーマー種にとっては、ソンナモノなのかしら?

 そうかあ・・・映画ってホントに、観たヒトの数だけ感想があるんだ~・・・なあんて、改めて思ったりして、ほんとに楽しい一夜になりました。

 「ガビーさん、どうもありがとう!!」 

 お茶屋さん、長くなっちゃってゴメンナサイ。 m(_ _)m

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無題 名前: お茶屋 [2005/08/29,00:01] No.104
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 T・レオンの弟(笑)、いい味出していたでしょう。好きなんですよ、この人。特に声がたまりません(笑)。

 あのハッピー・エンディングは、荒技で残念と言いつつ、実は好きだったりします。私には、あれが子どもたちの自発的な行動というより、作り手が希望のある終わり方にしたかった(子どもたちをあれ以上ひどい目にあわせたくなかった)ために取らせた行動に見えたんですね。作り手の手が見えてしまったところが残念なところであり、また好きなところでもあります。

 息子さんのおっしゃる「主人公の内面の変化がどれほどのものであるのか、あの短時間で説明できないから、あれぐらいのコトしてみせるのも一手だと、オレは思うけど。」というのは、そのとおりだと思います。言い換えれば、短時間で説明するために、あれくらいのコトをして見せたわけですね。不自然とも思わないとおっしゃるのには、ビックリでしたけど。世代間のギャップですかね~(笑)。

 子どもって生きていくために、環境や人間関係を受け入れて、順応せざるを得ないのがつらいところですね。(自我が強くて順応できない子どもがよく主人公になりますね。『大人はわかってくれない』『動くな、走れ、蘇えれ』)よく順応できるというのは諸刃の剣で、強くもあり弱くもあり。良くも悪くも染まるし。カナリアというのは、よいタイトルですね。自我が強いと希望と絶望の振幅が大きいと思います。
 光一や由希の場合、自我の強さと順応性のバランスがよかったので、「こういう経路をたどったとしても、将来への道が見つけられるんだ」となんだか思えてきましたよ(笑)。

 しかし、ムーマさん、お子さんとご覧になれていいですね~。でないと、なかなか若い人の感想なんて聴けませんもん。若い人の感想を読ませてもらえて、よかったです。ありがとうございました。

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主催者も言いたい! 名前: ガビー [2005/09/03,10:43] No.105
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 ムーマさん、お茶屋さん、書き込みありがとうございます。主催者である私も、参戦(?)することにいたします。

 「カナリア」は私にとって大変刺激的な映画であると同時に、なかなかとらえ難い映画でもありました。魅力的だったのは、子どもとの距離の取り方で、子どもへのシンパシーの強さだったと思います。決して大人にとって都合のいい子ども像が描かれているわけではないのに、深い共感を感じさせるのは、監督の才能というより資質なのでしょう。子ども時代を、遠い出来事ではなく、昨日のことのように描けるという。

 とらえ難かったのは、従来の子ども観・大人観からかなり逸脱した映画だったからでしょうか。突飛ですが、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」と比較すればよくわかります。困難な状況を、智恵と勇気で独力で切りひらいてゆく、というのが宮崎さんが理想とする子ども像ですが、独力とは言ってもそこには見守ったり励ましたりする大人の存在があります。(時にそれは、すでに亡くなっている父親であったりします。)
 子どもたちは、勇気をもって果敢に行動しますが、道徳的な規範を逸脱することはないので、大人にとっても受け入れやすいのです。

 「カナリア」の子どもたちの置かれている状況の過酷さは、大人が子どもに庇護を与える存在でないばかりか、悟りのためと称して親子の情愛を断ち切ろうとしたり、子どもに暴力をふるったり、小学生と援助交際しようとしたり、子どもに対してあからさまな加害者として登場することです。そして、大人の庇護を受けられないまま生きていかなければならない子どもは、自分の食べるものは、万引きするか援交で稼いででも獲得しなければならないという経済原則にたちまち呑みこまれてしまいます。

 この作品のとらえ難さは、子どもたちが倫理的規範を守っていては生きて行かれないという今日的な状況に対して、私自身が「ラピュタ」型の古い倫理観にとらわれているからでしょう。そして、もうひとつのとらえ難さは、ムーマさんが大人たちが皆自分勝手で自分のことしか考えていないと言われたように、大人が大人として自立していない、とても子どもに庇護を与えられる存在ではなく、逆に自分も何らかの意味で庇護を欲している存在だからでしょう。お茶屋さんも言われていたように、「誰も知らない」に共通するリアルな現実世界ですね。

 私は、「カナリア」を理解しやすくするために、地上におりて、地上を這うパズーとシータの物語に置き換えて考えています。洗脳という大きな負荷を背負わされたパズーと、口が悪く怒りっぽいシータの現代的冒険の物語。性格も、倫理観も、大人たちとの関わりも違いますが、純粋さとひたむきさは変わりません。(以下、次回)

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「カナリア」その2 名前: ガビー [2005/09/25,23:19] No.110
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 映画の記憶もかなり遠ざかってしまったので、的はずれのことを書くかもしれません。

 お茶屋さん、ラストで光一の髪が白くなっているのは、彼が短時間で悟りを開いたからではありませんよ。(と、断言してしまおう。)母親を求めて東京へやってきた彼は、まだ母親の庇護や愛情を求めており、血縁による家族という共同体を信じています。しかし、母親が自分たち子どもを捨てる形で自死という道を選んだ以上、大人に頼ったり大人に庇護を求めたりする子どもらしい感情を自ら断念し、自分が由希や妹の庇護者になることを決意したからだと思います。子どもが、子ども時代の終わりを自分に課したのです。(それを緊迫したシチュエーションの中で短時間で成しとげたことをもって悟りと言えばそうなのでしょうが、宗教的啓示を得てカリスマ的存在になったというわけではないのですね。あくまでも白髪は、心理的な葛藤の結果を顕在化して見せたものです。)

 それにしても、光一の祖父にドライバーを振り下ろそうとする由希の手を止めて、突然現れた光一の頭が白かったというのでは、見せ方としてあまりにも唐突ではないかと思います。頭髪が白くなることが唐突なのではなく、白くなった頭髪の見せ方が唐突なのです。白くなってもおかしくない心理的葛藤の描写が、ワンクッション必要だったのではないでしょうか。

 終盤近くの、光一の祖父の長ゼリフも、説明的であったり全体のバランスを崩すほど長かったりするのかもしれませんが、祖父の長ゼリフで初めて見えてきたものもあります。光一たちが東京の祖父の家を訪ねたとき、家への暴力的な落書きや建物の損傷などによって、信者の家族もまたニルヴァーナの被害者であることを知るわけですが、祖父の長ゼリフから観る者は祖父とその娘(光一の母)との親子関係の冷たさを知ることになります。ヤマちゃんも「間借り人の映画日誌」の中で書いていましたが、祖父という人物は、光一を残して光一の妹を選別して引き取ったように、自分の子どももまた早くから選別する人物であったろうと容易に想像できます。そして、選別される子ども(母親)の側の苦しみに対して思いを致さない人だったのでしょう。そのことが、光一の母が新興宗教にのめりこむ大きな原因ではなかったかと思われます。信者の親として事件の被害者である父親は、また、光一の母に対しては精神的加害者としての顔をもともと持っていたのではないでしょうか。祖父の長ゼリフがないと、そのことに思い至りません。

 そのような親子の関係性障害が、次の世代の関係性障害を生み出していくという皮肉な連鎖は、現実に幾らでもあり得ることだと思います。光一は、母の死によって、言わばこの関係性の悪循環を断ち切る存在として立ち現れます。親から十分な愛情や庇護を得られなかった子どもとして、いつまでもそれを求め続けようとするのではなく、そうした感情を断念し、身体の隅々から追い出してしまうことを決意しているのです。そして、血縁によってではなく、愛しい人とのつながりによって新しい共同体(新しい家族)を作り上げようとしています。

 髪だって、白くなるはずだと思いませんか?

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無題 名前: お茶屋 [2005/09/28,23:26] No.111
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 ガビーさん、お待ちしていましたよ。>書き込み
 私が「悟り」と言ったのは、半ばガビーさんもお汲み取りいただいているようですが、一言で言えば「祖父を殺すことをやめた」ことを指しております。宗教的啓示とかカリスマ的存在は、思いもよりませんでした。

 問題は、「なぜ」祖父を殺すことをやめたかですが、それは私、あんまり考えてなかったです(爆)。でも、まあ、「殺す」「殺さない」で葛藤があったことは間違いないし、ガビーさんのおっしゃる「白髪は、心理的な葛藤の結果を顕在化して見せたものです。」には同感です。ムーマさんのご子息も同様のことを言われていましたよね。

 したがって、「頭髪が白くなることが唐突なのではなく、白くなった頭髪の見せ方が唐突なのです。」というのは、おっしゃるとおりかもしれません。

 父親の長セリフについて(というか父親と由希の対決)は、私に関して言えば、興を削がれたという事実があるので、やはり要点を絞ってほしかったと思います。
 ガビーさんがお書きになったことは、次の二つの場面(の三つの要点)で充分わかると思います。(寝たきりの妻に孫が話し掛けているのを見て「わかりやせんよ」と言い放つ冷たさ。娘から電話の場面で、光一を引き取らなかった理由が述べられるところと、娘の「(私が出家しても)お父さんは変わらなかった」の一言。)
 電話の場面は、由希に話して聞かせる形だったかもしれませんが(どうも記憶が薄れてしまってスミマセン)、どうしてそういう形にする必要があったのでしょう?
 私は由希が父親に言ったことをほとんど忘れているので、ますます、父親と由希との対決の必要性はなかったんじゃないかと思うのですが、ガビーさんはどう思われますか?

 それから、ヤマちゃんの話が出たので、ガビーさんに質問(笑)。
 ヤマちゃんは、あの結末を希望があると見る人、又は最悪と見る人がいると思うとのことで、ヤマちゃん自身は最悪と思ったそうです。
 ガビーさんは、いかがですか?
 私はどちらかと言うと希望派です。そういうことなら、西島秀俊のところへ行って世話になりなさいと。
 でも、私の本当の気持ちとしては、あの結末は嘘派です。私が予想していた結末は、「光一は祖父を殺して、あるいは殺しそこねて、刑務所(少年院?少年法で保護される年齢でしたっけ?)入り。妹は祖父に飼い殺し。由希は路頭に迷う。」というものでして、流れからすると私の予想が自然と不遜なことを思っております。あの結末は作り手が、子どもたちへの情けからあえて希望あるものにしたのだと思いました。

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無題 名前: ムーマ [2005/09/29,14:58] No.113
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 ガビーさんの文章を読んでから、お茶屋さんの書き込みを、実は待っていました。(なんか、ズルイかなぁ、ゴメンナサイ(笑))。

 私も、作品を観てから時間がたっているため、ストーリーもそれぞれの場面についても記憶はとっくに霧の彼方~状態で、トンデモナイ勘違いを書きそうで怖いのですが、その時はどうぞ教えて下さい。


 ガビーさんの文章を読んだ時、私は本当に嬉しかった!!

 あの結末については、不自然で醒めたとか、教祖誕生を連想したとかいった、どちらかというとマイナス評価に近い反応しか私には見あたらず、実はシオレテいたのです。

 私自身は、以前に書いたものの書き方が言葉足らずで、誤解をまねくのでは?と後から気づきました。

 私は、最後の場面での光一の髪について、白髪になったこと自体には違和感はありません。ただ、あんまりピカピカのきれいな銀色で、どう見てもカツラにしか見えないのがナンかな~~と感じただけです。もう少し自然に見えれば、それで構わなかったかも。

 私は、この映画は最初から最後まで「こどもの視点」で作られていると思います。

 あれほどまで「自分のコトしか考えていない」オトナしか出てこないのは、描き方が偏っているのではなく、ある種のこども(というか、もしかして、こども一般についてあてはまることのような気もするのですが)からは、世の中はああいう風に見えているからなのだと思います。「いくらなんでも、あんな大人ばっかりじゃない」と、大人自身は言いたくなりますが、それくらい大人とこどもの見ている風景は違うのだということです。

 そう思って見ると、この作品は非常にリアルです。あくまで、こどもの側からみての話ですが。

 この映画を作った人は、ガビーさんが「才能というより資質の問題」と言われたように、何らかの形で、光一や由希のような経験のある人のような気がします。なぜなら、「この映画はこどもの眼から映しているのだ」と思った途端、すべてに納得してしまう私自身も、やはり違う形で「そういう体験」をしている者だからです。

 ガビーさんの文章を読んで嬉しかった私は、この映画を観てもいない19才の息子と、この作品について話をしました。(彼は、予告編とチラシぐらいしか見ていないのに、驚くほどこの映画のことを理解しているようで、そのこと自体にも驚いたのですが・・・・・。)

 彼に言わせると、「もしも監督がこどもの位置に本当に立っているなら、由希がドライバーを振り上げたところで「オトナにも良く分かるロード・ムービー」はオシマイなんだと思う。後の結末は、そんなに簡単にオトナにワカルようなかたちにはしたくないんじゃないかな・・・。」

 「オトナ・・・というか、人間ってすんなり分かるとそれで納得して、それで過ぎて行っちゃうから・・・。それで安心して忘れてしまう。ナンなんだ、これはって、疑問を持ってもらいたいんじゃないかなぁ。だって、それで今こうして僕らも話してるんだし・・・。」

 「大人とこどもでは、モノの見え方ってホントに違う。それは仕方のない事なんだろうけど。あってはならない筈のことは、なかなか大人の目には映らない。まあ、こどもも同じかもしれないけど。」

 「混ぜっ返すようで、ホントに申し訳ないんだけど、僕の目から見ると、教祖誕生でもそうでなくても、そんなに違わないんだよね。」」

 「将来、新興宗教の教祖になるかどうかはともかく、それと同じくらいの変化が、光一の中で起きた。生きるか死ぬかを突きつけられて、それに答えを出すっていうのは、そういうことなんだと思う。」

 「もともと、こどもはどんなに楽しげに無邪気にみえても、大人よりは日常的にそれを問われてるところがあると思う。保護してくれる存在が必要ってことは、そういうことだから。光一はその究極の形だけど・・・、でも、確かに、こんな選択を12才に問うようなことあっちゃぁいけないんだけど。」

 彼は、つくづく頭を垂れて、独り言のように「白髪にもなるって・・・。」とつぶやきました。

 彼は、私の観た「カナリア」からこういう感想を漏らしたに過ぎない・・・と言われれば、ほんとにその通りです。  ただ、14才の弟が、「ひと言で言うと、とても良かった、が近いかな・・・。」と言ったことも含めて、本当に、本気で、若い人達がこの映画を観たらどういう感想を持つのか、訊いてみたくなりました。

 後から、ガビーさんの文章を読んで、19才の彼は「最後のひと言が、ホントにいいね!。」と笑っていました。


 ここからは、私自身があの映画を観て、考えたことです。
 私は、光一の白髪について、妹も由希も何も言わなかったのを見て、やっぱりそうか・・・と思いました。もちろん、祖父も無言のままだったのですが、あの髪について一番違和感を訴えそうなこども達が何も言わないのには、それなりの理由があると思うからです。(こどもの立場から見ると、それほど突拍子もないことではない・・・とでもいったような。)

 私は、前にも書いたように、この映画に出てくるこども達ほど極端な形でではありませんが、「追いつめられる」こどもを自分でも体験し、また大人になってからは大人の立場で、そういうこども達を身近に見てきたと思います。

 そういう者から見ると、この映画の結末のように、本当にこどもが行くところまでいって追いつめられ切った状況では、大人の側からの助けは現れないというのは、大前提になると思います。そこで大人の助けが現れたのでは、それこそ「嘘」になってしまう。この監督は、何度も言うようですが、それがよくよくわかっている人のように見えました。

 映画でも現実でも(というか、現実がそうだからなのですが)、「こどもの側、こどもの中」からしか突破口は見つからない、と私自身は思います。

 とすると、あの場合、一体どういう「突破口」があるのか・・・。
 私は最初、監督は既に「おとな」なので、それを観客の納得のいくような形では見せられなかったのかと思いました。

 こどもというのは、トンデモナイ出口を一瞬のうちに見つけ出す生き物です。
 例えば、こういう話を読んだことがあります。

 ある父親が、行き詰まって、一家無理心中を図りました。他の家族を既に手に掛け、最後に小学生?の男の子を、テレビを見ている後ろから首を絞めようとした時、ぱっとこどもは振り返って、「おとうさん! おとうさんが世界で一番好きだ!!」と叫んだというのです。

 父親は、その瞬間、こどもを殺すことができなくなったと。

 こういうこどもの凄さ??を、私も身近に見てきた気がするので、状況はそれぞれ違っていても、「大人(大抵は、親)なんか捨てて、お願い! 自分の道を行って!」と思う事が、本当に現実にもあるのです。

 でも、息子の「もしも、監督がホントにこどもの立場に立っているのなら、そう簡単に理解して貰いたくは無いんだと思う。」という言葉を聞いて、なぜか、納得してしまいました(笑)。

 この映画を観た直後、私がクタクタに疲れたのは、かつてああいう風に世の中が見えていた、大人がすべてああいう大人にしか見えなかった時代のことを、思い出したからだと思います。このことが上手く説明出来そうになかったため、この文章を書くのも長いこと躊躇っていました。

 こういう言い方は、切って捨てるようで本意ではないのですが、「カナリア」(や「サマリア」も?)のような映画は、ワカルひとには説明抜きで分かり、そうでない健康な人には、とても説明し辛いものがあると、こういう作品に出会うたび、いつも私は困惑します。(私が「サマリア」を高く評価するという意味ではありません。)

 ただ、最近はこういう私なんかが「困惑する」ような、人の生き死にやこどもに対する虐待や、或いはヤマさんのいわれるところの「居場所のなさ」をテーマにする作品が多くなっている上、こどもを含めて若い人達の中に、幸か不幸か私のように「困惑」しそうな人が増えてきているのを感じるので、余計に、若い人たちの意見が訊いてみたいとも思います。


 ここまで書いて、息子達に見せたところ、二人とも「これを投稿しても、多分、分かって貰えないと思う。」「書いてる当人のことを全然知らない人にとっては難解過ぎて・・・。」

 確かにそうだ!(笑)。
 でもまあ、せっかくだから?送ることにします(笑)。

 ガビーさん、長くなってゴメンナサイ。でも、大人の筈の私がこんな事言うのもヘンかもしれませんが、ガビーさんの「(こどもの立場を)理解しようとする努力」のようなものに、私は本当に感動したのです。

 お茶屋さん、悲劇的な結末しか、あのストーリーからは考えられない、というのは私もよくわかります。(世間には、そういう例が、文字通り掃いて捨てるほどあるでしょう。)
 でも、当のこどもの側から言うと、「それでは困る」のです(笑)。
 どれほど大人に絶望してても、こどもは生きていかなければならないわけで、西島サンのところにそのまま行けばすむというものではない、と。

 髪が真っ白になるほど経験(というか、本人の内面の変化)なしに、この先「生きていく」決意はあり得ない・・・と私なんかは思ってしまう。
 映画を、時として一作品とは思えない、スクリーン間際で観ているものの感想です。

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『カナリア』、僕も。 名前: ヤマ [2005/10/03,23:30] No.115
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 ガビーさん、お茶屋さん、ムーマさん、こんにちは。
 スレッドのなかに僕の名も日誌のことも引き合いに出してくださっているので、遅ればせながらの参入です(笑)。

 あの白髪化については、僕は、不自然うんぬんということよりも表現者としての作り手の意思のほうを強く感じました。そういう意味では「主人公の内面の変化がどれほどのものであるのか、あの短時間で説明できないから、あれぐらいのコトしてみせるのも一手だ」とのムーマさんの息子さんと同様に受け止めております。
 で、お茶屋さんから提起してもらった「あの結末を希望があると見る人、又は最悪と見る人がいると思うとのことで、ヤマちゃん自身は最悪と思ったそうです。」というのを少し補足すると、この希望と最悪という受け止めの主語を誰に置くのかということが、実はかなり重要なことではないのかということです。
 僕の最悪というのは、観客であり、大人の側にいる僕にとっての「最悪」ということが一番強く響いてきた部分でした。拙日誌に「彰が光一に諭す「自分自身を背負って自分で生きていく」ということの実現が、ローティーンで白髪化して独自の道を見出すことでしかないとしたら、そこにまで追い遣る“棄てる社会の側の責任”は、あまりにも重たいし、酷薄に過ぎるではないかと感じた。」と綴ったのは、そういうことでした。そして、「ローティーンで白髪化して独自の道を見出す」ことというのは、ムーマさんがお書きのように「髪が真っ白になるほど経験(というか、本人の内面の変化)なしに、この先「生きていく」決意はあり得ない・・・」以上、彼らが生き延びていくうえで必要な決意を手にしたことを示しているわけですから、絶望の淵に沈んだり、お茶屋さんが予測した結末にいたることよりは、彼らを主語とした場合の「生きる希望」の光を与えているようにも見えます。
 どちらを見て取るのかの違いは、この主語の、どちらの側に己が身を置いているのかの違いだと僕は思っています。ちょうど、ここでの対話の焦点になっていることと重なってくるわけです。そして、僕は、子供の側でなくて大人の側に身を置いていたからこそ、彼ら子供たちにかような“独自の道を見出すこと”を強いる状況が耐え難いというか、最悪だと感じたのだろうと思います。彼ら子供たちの側に近しいものを感じていれば、生き延びるために必要な決意を手に入れたことを以て最悪だとは、決して思わないですよね。
 だから、どっちを見て取るのが妥当か否かという問題では決してありません。しいて妥当性を問えば、ムーマさんのおっしゃるように「この映画は最初から最後まで「こどもの視点」で作られている」のですから、子供たちの側に寄り添って受け取るほうが妥当なのだろうと思います。ですが、僕には「この映画に出てくるこども達ほど極端な形でではありませんが、“追いつめられる”こどもを自分でも体験し」とムーマさんがおっしゃるような体験がなく、尚かつ既に充分以上に長らく大人の側に身を置いているものだから、素朴に子供たちの側に寄り添って受け取ることができなかったのだろうと思います。それよりも「そこにまで追い遣る“棄てる社会の側の責任”は、あまりにも重たいし、酷薄に過ぎるではないか」と感じるほうが先に立ってしまった次第でした。

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「カナリア」その3 名前: ガビー [2005/10/04,00:02] No.116
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 お茶屋さんのご質問や、問いかけについて考えてみたいと思います。

 (なぜ光一が、祖父を殺すのを止めたか?)
 僕は、もともと光一が祖父を殺す目的を持っていたとは思っていません。光一の目的は、祖父の手から妹を奪い返すことだったのであり、祖父を脅してでも、必要とあらば傷つけてでも、という気持ちはあったでしょうが、殺すことは意図していなかったのではないでしょうか?

 なぜなら、光一の祖父に対する憎しみは、母親の祖父への恨みを受けた形のものだったろうと思いますが、母親の恨みは、祖父(父親)からの愛を得られなかったことに起因するものであり、それは祖父を殺して晴れるという性質のものではないからです。

 「殺してやる。」という意味の発言が多々あったのを、僕が聞き逃しているだけかもしれませんし、ドライバーを研いでいる様子は、ビジュアル的には殺意の現れと受けとめるのが当然だと思います。それでも、祖父を殺したところで、母親が祖父から最後まで愛されなかったという結果が残るだけで、何の解決にもつながらないと思います。

 (なぜ、祖父と由希が対決しなければならなかったか?)
 ストーリーの流れの上では、光一と祖父の対決に由希が割って入ったような形になっており、流れが混濁したようにも見えますが、あれは由希が光一の祖父を通して自分自身の父親と対決しているのであり、由希にとっては非常に重要なことだと思います。

 由希の父親は、由希に不当な暴力を加える肉体的な迫害者であり、祖父は母親や光一の精神的迫害者というべき存在でした。祖父に自分の父親と同じものを嗅ぎ取っている由希は、父親に対して発揮できなかった怒りを一挙に爆発させているのです。

 実際に由希が祖父を刺してしまえば、悲劇以外の何ものでもないのですが、父親の一方的な被害者であった由希が状況を打破するためには、加害者に転ずることも必要だったのではないでしょうか。

 また、自分のためだけだったら、そうはならなかったかもしれませんが、光一との交流を経て、光一の気持ちを受けてそうしているところに意味があるのかもしれません。

 (ラストは悲劇なのか、それとも希望なのか?)
 具体性はないけれど、何らかの希望を感じられるエンディングだったと思います。それは、由希が「これからどうする?」と、何をするかという事柄を聞いているのに対し、光一が「生きる。」と答えたように、何らかの生き方のベクトルを見いだしたと思えるからです。生き方のベクトルが決まれば、何をしようと、何をしまいと、また、どこにたどり着こうと、どこにもたどり着けなくても、後悔はないでしょう。光一が由希や妹と結んだ手に、迷いはありませんでした。

 実際的には、お茶屋さんがひとつの例としてあげられていたように、西島の所へ戻るのが最善の方法かも知れません。そこで仕事を手伝わせてもらうもよし、行きたくなれば学校に行かせてもらうのもいいでしょう。保護を受けることと依存とは違うので、信者であったことの償いをしたいと考えている西島の所に身を寄せるのが、三人にとってベスト・ポジションではないかと思います。

 ムーマさんには、拙文を子どもの心を理解しようとしていると過分に評価していただき、お恥ずかしい限りです。僕は僕自身の中の子どもの発言をそのまま書いているだけなので、子どもを理解したいと思っているわけでも、子どもが好きなわけでもないのです。

 「追いつめられた子ども」ではないにしても、「親との関係性にこだわりを持っている子ども、欠落感を持っている子ども」なのでしょう。これはどうも、僕自身の永遠のテーマのようで、だから子どもを扱った結構シリアスな映画をついつい上映してしまうのだと思います。

 来年のアジア映画祭のテーマは、「少年たちのアジア」(!)かもしれませんよ。

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カナリア 名前: お茶屋 [2005/10/06,20:50] No.118
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 ガビーさん、にぎわってますねー!>掲示板
 
 >ガビーさん
 お返事いただき、ありがとうございました。
 (なぜ光一が、祖父を殺すのを止めたか?)について、初めから殺す気がなかったというのには、ありゃりゃ、そうだったのですか(^_^;。いや、私は殺す気満々と思っていたので拍子抜けしてしまいましたよ(笑)。

 (なぜ、祖父と由希が対決しなければならなかったか?)については、なるほどと、うならせられました(脱帽)。

 「祖父に自分の父親と同じものを嗅ぎ取っている由希は、父親に対して発揮できなかった怒りを一挙に爆発させているのです。」
 「自分のためだけだったら、そうはならなかったかもしれませんが、光一との交流を経て、光一の気持ちを受けてそうしているところに意味があるのかもしれません。」

 いずれも、そのとおりと思い、「はっ」といたしました。特に後段は、大切なところですよね。光一との出会いからいっしょに旅をしてきたことが、ぐぐっと生きてきます。

 (ラストは悲劇なのか、それとも希望なのか?)については、下にまとめて書きますね。

 >ムーマさん
 「この映画はこどもの眼から映しているのだ」という視点を与えてくださり、ありがとうございます。

 自分が光一や由希のような気持ちでこの映画を見れなかったにしても、光一や由希のような子どもが私の感想を読んでどう思うか、それを考えてなかったのは、ちと申し訳なかったと思っております。

 それから子どもの理解者が、子どもの気持ちに沿って撮った映画ということで、『動くな、死ね、蘇えれ』『ひとりで生きる』というロシアの映画を思い出しました。『ひとりで生きる』は大人の抑圧から逃れて自由になる子ども(大人の保護がないわけだから過酷)を描いていまして、それでも子どもにとって『カナリア』よりましと思えるのは、映画の中の社会全体がまだのんびりしていたからだと思います。
 おすすめしようと書きましたが、ガビーさんが上映されていますし、既にご覧になっているかもしれませんね。

 >ヤマちゃん
 あの結末は、大人から見て最悪か、子どもから見て最悪か。
 そういうことだったのですか。ぜんぜん、知らんかったー(笑)。

 私は、No.111 に書いたとおり、どちらかと言えば希望派だったのです。

 ところが、「間借り人の部屋へようこそ」No.5884 のシューテツさんの発言「私の場合は『誰も知らない』と結末的にほぼイコールと感じた訳なんですけどね。」を読んで、自分もそう思っていたことを思い出しまして、それなら最悪の結末と感じていたはずなのに我ながら矛盾していると思ったのです。

 そこへNo.115 のヤマちゃんの書き込みでして、そうか私は子どもの視点で希望派、大人の視点で最悪派と同時に感じていたのかと教えていただいた次第です。自分でもわからなかった矛盾を解いていただきまして、ありがとうございました。

 >再びガビーさん
 というわけで、こんなに話が面白く発展していって、上映会主催者冥利ですね?
 よい映画を上映してくださりありがとうございました。

 >「少年たちのアジア」

 美少年だったらいいなあ(笑)。
 あ、でも、子どもは生命力に輝いていると美しいですよね。

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カナリア 名前: 松田広子(オフィス・シロウズ)[2005/11/02,19:53] No.130
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 はじめまして。塩田明彦監督作品『カナリア』のプロデューサーで松田と申します。
 ある人から、こちらの掲示板で作品をめぐって内容の深いやりとりが拝読できると聞きましてお邪魔しました。作品をきちんと観てくださり、意見を交換していただいて、とてもうれしいです。
 10月28日にDVDが発売されたこともありまして、改めて多くの方に観ていただきたいと思っているところです。さしつかえなければ、『カナリア』の公式ホームページでこちらの掲示板になんらかのリンクを貼らせていただいてもよろしいでしょうか?

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オフィス・シロウズさんへ 名前: ガビー [2005/11/03,11:13] No.132
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 ご連絡、ありがとうございました。
 「カナリア」の製作サイドからメールをいただけるとは思いもせず、驚きました。

 掲示板でのやりとりは、管理者の私の方で何のまとめもしていないので雑然とした状態のままですが、自由にリンクを張っていただいて結構です。
 熱心にご意見をお寄せいただいた皆さんにも、喜んでいただけると思います。
 もともと、「カナリア」は、見終わってそれでおしまいというような映画ではないので、いろんなところで論議を呼んで当然だと思います。
 何度も繰りかえし見られるべき作品です。

 現在の日本映画の中で、オフィス・シロウズさんの活躍には目をみはるものがあります。口当たりのいい映画ばかりがもてはやされがちな状況の中で、必要と見ればあえて口当たりのよくない作品も作る姿勢には、日頃より敬服しています。それは、配給を担当されたシネカノンさんにも言えることです。

 これからの真摯で果敢な挑戦にも、期待させていただきます。
 ありがとうございました。


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『カナリア』公式サイト掲示板から

[No.164]-------------------------------------------------------------
ありがとうございます 塩田明彦 -------- 2005/11/07 (Mon) 01:39:34
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 関係者より下記に管理人の方がリンクしたサイトの件を聞き及び、閲覧させて頂きました。
 そして驚きました。プロの批評家という訳でもない方々がこれほどまでに充実した議論を展開していることに。そして批判もありつつ、その批判にすら、発言者の方々の映画に対する愛情のようなものが感じられ、それがとても嬉しかったです。
 正直、映画監督にとってインターネットという場は恐ろしい場所で、観客の方々の生の声に触れる事ができるという前向きな面も大いにありつつ、発言者の品性すら疑わざるをえないような誹謗中傷にも溢れ、最近ではあまり近づかぬようにしていたのですが。やはり時には触れてみるべきかと再認識した次第です。

 ラストの「白髪」を巡る議論、とても面白いですね。発言者のひとりであるヤマさんの「間借り人の映画日記」の方も読ませて頂きましたが、その指摘を読んだ時には少々込み上げるものがありました。皆さんのご指摘通り、あの白髪は確かに荒技ですね(笑)。そして僕があそこで意図したのはガビーさんや他の皆さんの仰るとおり、あれだけ追い求めていた母親の死に対する精神的な衝撃がああいう形に肉体化したということです。それは必ずしも宗教的覚醒の視覚化というわけではありませんでした。にも関わらず多くの方々が指摘しているように、それはどこか「宗教的」にもみえる。さらに劇中、ひたすら本音をぶつけてくる由希に対して、一貫して他者から強要された言葉ばかりを語り続けていた光一が、最後に自らの意思で発した言葉が(それこそが)どうやら教義の核心にある言葉のひとつであったという一種の皮肉・矛盾のような展開がその後に続く。僕がそこで表現したかったのはヤマさんの日記でのご指摘の通り、もしかしたらニルヴァーナ(或いはそのモデルとしたオウム真理教)の教祖や幾人かの信者たちもまた、光一と同じように不条理な世界の現実との闘いの中から生まれ、育まれたのではないかという問いかけのようなものでした。
 そしてそこには僕自身の宗教に対する接し方、たとえば「宗教、是か非か」といった二者択一的な問いかけではなく「良き宗教と悪しき宗教の違いは何か」という、そういう次元でものを考えている僕の態度があそこに反映してしまっているとも云いうるかと思います。僕自身は格別に宗教的な人間ではないのですが、しかしここには書き記せない身近な状況が僕にそう考えさせるのです。
 その意味では、僕自身の中では、その後の光一がいつしか宗教人としての人生を歩み始めることも充分にあり得る話なのです。この考え方には反発する方々も多々いらっしゃるかもしれませんが‥‥。
 しかしそれが僕の考え方でした。お茶屋さんの「白髪化が問題ではなくて見せ方が問題」という指摘、真摯に受けとめたいと思います。

 それから「カナリア」を子供の視点で見るか、大人の視点で見るかで映画世界の見え方もラストの捉え方もまるで違ってくるという議論もとても面白く読みました。特にムーマさんやその息子さんの言葉には本当に勇気づけられました。若干14歳の方にあの映画が理解され、評価された事ほど嬉しいことはありませんし、19歳の息子さんの直感力には僕もまた舌を巻きました!
 映画の作り手にとって、映画はあくまで「映画」として評価され、語られる事が望ましいわけですが、それでも映画が誰かの日常にある種の「光」として存在し得た時には、本当に喜びを感じるものです。公開中の「この胸いっぱいの愛を」という作品もまた賛否両論渦巻いていますが、長い間の鬱症状に苦しめられ、自殺を決意していた方が、あの映画を見て自殺を思いとどまったという話を掲示板に書き込んでくれたりする。本当かどうかは分かりませんが、やはり嬉しいものです。
 「カナリア」完成当時も、一部の批評家が意味不明の抽象言説で公開前の映画を否定する中、かつて光一と似た体験をしたという某雑誌関係者(子供時代、両親が離婚し母が新興宗教にのめり込み、自分も宗教を強要され、財産すべて失いかけたが離婚した父の努力で危機を救われた)から「光一たちを取り巻く状況や感情描写があまりにリアルで鑑賞中、息が詰まって一度では見られなかった。何度も何度も観て、ようやくすべて見終わった時、どこかで救われた気分になった」といった言葉を聞かされた時も、その方の、その言葉を聞けただけでも「カナリア」を作った甲斐があったと思ったものでした。ムーマさんと息子さんたちの言葉はこれと同じぐらい嬉しい言葉でした。
 長々と書いてしまいましたが、ネット上には他にも「カナリア」に関する多くの充実した言葉が溢れているようです。本作をご覧になって下さったすべての方々、そしてその感想をこの場や他のネット上に記して下さったすべての方々にこの場を借りてお礼申し上げます。

 ありがとうございました。

 塩田明彦


[No.168]-------------------------------------------------------------
びっくりしました ヤマ -------- 2005/11/09 (Wed) 00:10:58
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 ガビーさんとこの掲示板での談義に参入しておりました『間借り人の映画日誌』のヤマです。塩田監督御本人から、こんなにも丁重なレスがいただけるとは夢にも思ってませんでした。僕もインターネットで無責任に垂れ流されている、映画好きとはとても思えない人の映画についての書き込みには辟易としているので、そんなものばかりではないと、塩田監督が「やはり時には触れてみるべきかと再認識した次第」とお書きくださっているのが、とても嬉しく思いました。ありがとうございます。
 また、掲示板談義のみならず、拙日誌のほうにまでお訪ねくださり、重ねてありがとうございました。しかも、思い掛けなくも作り手御本人に「少々込み上げるもの」まで受け取っていただき、大いに感激するとともに、かように触発力に富んだ感銘深い映画を撮ってくださったことにも、映画好きとして感謝しております。地方都市に住んでいると、専らスクリーンでしか映画を観ない僕など、なかなかこういった作品を観る機会に恵まれないのですが、今回はとても幸運でした。
 そして、拙日誌に綴った「かつての彰晃の誕生にもそのような側面があったのではないかということを偲ばせていた」と僕が受け止めたことが、まさしくそうであったことを御本人から伺うことができ、今回はとても幸運でした。ありがとうござました。

by ヤマ(編集採録)



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