『二重スパイ』(Double Agent)
監督 キム・ヒョンジョン


 日本映画でこのくらいのレベルにあるエンターテインメントは、滅多にないような気がする。ふやけてしまうか、芝居掛かった仰々しさで押し倒すか、いずれにしても緊迫感に富んだ悲痛な恋物語には、なかなか仕上げられずに終わってしまうだろう。『JSA』でも『八月のクリスマス』でも感じたことだが、写真という小道具の使い方が実に巧い。北のスパイであるが故に、証拠ととして残るような写真は撮れない事情があるために俄然、濃密な意味を帯びてくる“ポラロイドでの記念撮影”であるし、その写真への加工であるわけだ。残る写真以上に、並んで写真を撮ったことのなかに“証”がある。このエピソードひとつで、どれだけ映画作品として豊かになったことか。しかも、こういうレトリックは、芸術映画的な観念性や象徴性とは味わいの異なるエンターテインメントなればこその嵌まり具合で、エンディングの何も知らずに待ち佗びる妊婦の姿といい、定番の骨格を踏み外すことなく、それでいてもしかしてとの思わせ振りで引っ張った呼吸が心憎いばかりだ。
 しかし、最も感銘を受けるのは、日本では拉致問題にかこつける形で矢鱈と北朝鮮に対する反発感情を煽ることで軍事強化をしようとする動きがあるなかで、韓国では既に徴兵制が敷かれていることもあるかもしれないけれど、『JSA』でもそうであったように、北の兵士やスパイを悪し様に描いたりは決してしていないことだった。国家という体制とその論理に圧殺される人間の姿が描かれているのであって、むしろ苛烈な胆力を漲らせ、鮮烈な人物像を残すのは、心優しい町医者であることが決して装いのようには見えなかった人物像としての在韓北鮮スパイの大物たる清川江(ソン・ジュホ)や二重スパイのイム・ビョンホ(ハン・ソッキュ)である。かといって、民主化以前の韓国の軍事政権を悪し様に描いているわけでも勿論ない。イム主任に結果的に欺かれたことになるペク第2局長(チョン・ホジン)にしても、ひとかどの人物として描かれていたし、主要な登場人物に悪しき人物として描かれる者は誰一人いない。それなのに、拷問のことも含めて酷いことや理不尽なことが頻発する。それこそがまさに南北間の悲劇というわけだ。誰も彼もが犠牲者であることが際立つほどに、誰にとってこの分断が必要なのかが改めて問われてくることになる。実に正当な骨格を備えた物語だ。
 冒頭の1979年の古いTV画像をソースにしたかのようなパレードの映像には、十二年前に観た『金日成のパレード』を思い出したが、そこに違和感なくハン・ソッキュの姿と顔が映し出されたのに感心した。画像処理技術の進歩を改めて感じる。この1979年という年は、朴政権が大統領暗殺により崩壊した年で、韓国では歴史的にも非常に重要な年であるばかりか、全斗煥政権下での翌 '80年の光州事件ともども、『ペパーミント・キャンディ』の日誌にも綴ったように僕自身、当時けっこう衝撃を受けた覚えがある。今の民主化された韓国と違って軍事政権下にあって映画製作も厳しく監視された時分のことだ。『金日成のパレード』と同じ時期に観た『五月−夢の国』は、光州事件を描いた '88年の作品だが、確か韓国当局から上映中止勧告を受けた作品だったと思う。
 しかし、『二重スパイ』は、そういう全斗煥政権下の韓国批判にも北鮮批判にも傾かず、国民的悲願である南北統一に向けた視座を見失わないよう、断固たる悲劇を貫くわけで、分断のときと同様の身勝手な大国の論理で北に圧力をかける米国やその顔色を伺って強硬政策に傾きつつある日本に、ある意味で異議申し立てをしているとも窺える志が立派だと思う。この作品もまた『ダーク・ブルー』と同様に、国家は個人に対して、徹底的に無慈悲であることを物語っているように感じた。
by ヤマ

'03. 6.28. 高知東映



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