朝市 その2 プティトリアノンで出会った結婚式


翌日、シャルトルを後にして、自転車組みはシャルトル → ランブイエ → (約50K)のツーリング(途中、マントノン城を見物して)、我々バス組みはシャルトル、マントノン、ドゥリュー、ランブイエの森というコースを辿りました。ランブイエの森で両グループは合流するのです。バス組を受け持つクリスチャン氏は日本語ペラペラのフランス人男性ガイド、なかなかユーモアたっぷりで、日本歴史と対比させながらフランスの歴史を語って聞かせます。例えば、ヴェルサイユ宮殿が最初にルイ13世の命によって建てられた1624年は、江戸時代の徳川家光の頃であるとかいう風で、我が国のことを知らなさ過ぎて恥ずかしく思いました。

朝市があれば、バスを止めさせ、ざくろやいちぢく、サボテンの実などを切り分けて食べさせてくれます。そして、貴重な飲料水まで求めて、粘ついた私達の手を洗うように配慮してくれるのです。「このガイドさんには心がある。」とグループ最年長の浦田さんをして言わせしめた彼の額の汗には心を打つものがありました。


ランブイエにて城館を見物し、きのこを捜し求めましたが、生憎、私達にもがれるようなきのこはありませんでした。この旅の主催者である山口彰先生は、心理学だけでなくきのこの研究もしてらして、ツーリングの途中で人間の赤ちゃんくらいあるきのこを収穫したとのことでした。やがて林を縫って銀輪の列が見え隠れしてきました。「あれは、私達の仲間ではないでしょう。だってあんなにはつらつとして帰ってきはしないでしょう。なにしろ50Kだもの。」などと言い合っていましたが、私達の仲間だったのです。落伍者に備えて伴走のバスも1台用意されましたが、利用する人は一人としていなかったようでした。浦田さんのご主人は70をいくつか超えてこれに挑戦し、更に日本から持参した一輪社で、森の中の一本筋を乗りこなしたのです。大いに拍手、拍手でたたえました。


ホテルでのバイキング料理にも飽きてきたので、次なるホテル”クリマ・ド・フランス”の料理を断って、すぐそばのスーパーマーケットで思い思いの物を買って食べることにしました。刺身は無理でも、刺身竹輪様なもの、カップラーメン、漬物等を捜しましたが、ないのです。余り食指の動く物がなく、結局はホテルで頂くのとは大差のない生ハム、チーズ、エスカルゴ、オマール海老などに落ち着いたのです。ベッドの上に敷いた敷物の上に車座になりオリジナルな宴をはりました。


明けて朝、6時前でした。我が家へ電話をしたかったのです。
8時間の時差があるのです。今、フランスでは4月から9月までの間、サマータイムに設定してありますので、その差7時間です。とすれば午後1時ごろで土曜日ですから誰かしらいるはずでした。ホテルのロビーに下りていくと、ソファーに座っていたクラークが仮眠でもとっていたのでしょうか、ノーネクタイで髪の毛のはねた寝ぼけ眼で立ち上がりました。訳を話すと、「自分自身でかけたいか?」と聞き、うなずくと廊下の電話ボックスに案内してくれました。いくら入れていいのか分かりませんので、コインを何枚か手の平に乗せて「How much?」と尋ねると、彼は2、3枚つまんで入れてくれて、立ち去って行きました。旅行のしおりの電話のかけ方のページを開いて挑戦です。長女が出たようでした。「お母さん、今どこ?」「ランブイエというフランスの田舎のホテルよ。」そこで電話は切れてしまいました。もう一度コインを2枚程入れてかけましたが、呼び出しただけで切れてしまいました。10フラン硬貨を何枚か入れればよかったのでしょうけれども、おつりが出ないと困ると思って多分、1フランや2フラン或いは5フランといった小額のお金ばかり入れていたのでしょう。でも満足していました。くだらないことに挑戦して喜んで見たかったのです。彼にチップを出そうとしましたが受け取りませんでした。


その朝、9時、ホテルを後にしてヴェルサイユへ向かいました。このホテルは宮殿に隣接していて、その名もトリアノンパレスといい、白一色で統一され、それはそれはすばらしいホテルでした。お風呂がないと騒いでいるとベッドルーム程の広さの別室にあったりして、まるで女王気分に浸れそうな広さと豪華さでした。「遊びに出かけるのがもったいないようね。ずっとここにいたいわね。」と同室の山口先生の奥様と話しておりました。


ここでは我々バス組も自転車を借り、ヴェルサイユ地区の周辺をサイクリングしました。5・6年も自転車に乗っていないので、乗れるかどうかと案じましたが、すぐに昔の勘をを取り戻し、風を切りながらスイスイとペダルを踏みました。ヴェルサイユの街は、樹木が多くて道路は広く、学園都市のようでした。行き合った日本人の人達が「こんにちわ」と挨拶をしてくれるのは、とても嬉しいものでした。時候は日本の10月初旬というところでしょうか、暑くもなく寒くもなく、最高のサイクリング日和でした。昼食事にさしかかると市場へ連れていってもらい、パック入りのサラダやチーズのたっぷりふりかかったクロワッサンを買ってベンチに腰掛けていただきました。ヴェルサイユ離宮のグランドトリアノンは、時間の関係で眺めるだけにして、プティトリアノンの前に自転車を止めて庭園を散策しました。私の中で、マリーアントワネットは派手好きで流行を追いかけるのが大好きな姫君という印象しか残っておりませんでしたが、朝から晩まで人に取り囲まれる煩わしさから逃れたいという願望を持ち、こういった素朴な離宮をことのほか愛したということを、ガイドの方から聞くに及んで、その心根を思いめぐらしたものでした。

ヴェルサイユ宮殿の中は、壁面装飾、家具調度品など、ルイ王朝全盛時代の17、18世紀の絢爛豪華な生活ぶりが偲ばれ、ただただ嘆息をつくばかりでした。王妃の寝室のベッドに至っては、花の刺繍で彩られ、壁面に飾られたアントワネットと3人の子供たちの絵からイメージを膨らませて、そこに座らせてみたりしました。

運河ではボートに乗ってみましたが、他の2人はうまく櫓を操作できるのに、私ときたら一番若いくせにちっともうまくさばけません。岸辺でこれを見ていた山口先生は「山口さん、ヴェルサイユの運河でボート漕ぎの練習をするなんて、ちょっとやそっとでは出来ませんよ。」とからかわれてしまいました。


さてその夜、ホテルの前のレストランでディナーを済ませると、"光と水の祭典”というお祭りに出掛けました。年に4回しかないというこのヴェルサイユの華麗な行事に、偶然出会ってラッキーでした。ステージはヴェルサイユ宮殿の庭、運河を隔てた岸辺のなだらかな斜面が観客席でした。フランス語で演じられますので、内容はすぐには解せませんでしたが、ダイナミックなステージに本物の馬、象、ラクダまで繰り出し、格調高そうなナレーションで、物語が進行していきました。時々、目の前の運河で噴水が七色の柱を幾筋も立てて、ぐっと情趣を高めます。しまいには、椅子から下りて芝生の上に寝転がって見ていますと、昼間の疲れが出て睡魔が襲ってきます。うとうととしたようでした。”ドーン”という音で我に返ると、真上から光りの粉がふりかかってきます。一瞬、逃げ出したいような戦慄を覚えました。花火だったのです。瞬く間に散っていく花火に、追い討ちをかけるように次から次へと打ち上げられる花火、こんなに堪能するほどの花火を、まさかフランスで見ようとは思いませんでした。


フランスのこの近辺の人達も、この夜のお祭りを楽しみにしているのでしょうか。家族連れ、恋人連れ等の群集に混じって、夜道をホテルへと帰るとき、まるで、小さい頃lに田舎芝居を見たその帰りという普段着の感覚で歩いているのが不思議でした。


さてその翌日、ヴェルサイユの豪華ホテル"トリアノン・パレス”を後にして、再びパリへ、初日に泊まったホテル’スクリューブホテル’を目指してバスは1時間ほど走りました。再び自由行動となりました。私はこれ以上の迷惑はかけられないと、初日の勇み肌は何処へやら、しっかりとグループの端っこへ加えていただいて行動しました。

クリニャンクールの蚤の市へ、タクシーで分乗して行きました。掘っ立て小屋のようなお店に、所狭しと色々なものを並べてあります。これといって、購買意欲をそそるようなものはありません。ただ、何か異様な雰囲気に呑まれてしまって、心中、穏やかではありませんでした。スリも多いと聞いておりましたし、すれ違う人種もさまざまで身体がおのずと堅くなっていきました。少女の店で絵葉書だけを求めますと、「Are you Chinese?」と聞かれました。日本人かぶれで有名というおじさんが、大声で日本の歌を歌ったり、芝居のセリフにあるようなことを言って、我々の注意を引こうとしました。帰り道を急ぐ私たちの一行をめがけて、何やら液体のようなものが飛んできました。ある店の中の黒人の少年が水鉄砲を向けていました。一行の中に’ゆみちゃん’というソルボンヌ大学へ留学しているお嬢さんがついてきてくれておりました。先生の奥様の知人の娘さんです。彼女は水の飛んできた方向へ向かってフランス語で怒鳴りつけました。彼女と私の頬にかかり、塩酸ではないかと心配した彼女は、水で洗い流したいといいましたが、幸い何事もなかったのです。
私は塩酸だなんて露にも思いません。しかし、5年もパリに住んで、さんざん泣かされてきている彼女にしてみれば、そこまで考えが及ぶのです。心が荒んだ人達が集まっている蚤の市という彼女の言葉に、私達の知らない世界があるのに気付き、複雑な思いがいたしました。