フランスの古い家並
その1 山口彰先生と



それは1995年、平成7年のことでした。私が書いたエッセーをある雑誌に載せていただいたことで、その編集を受け持たれた山口彰先生の主催するフランス旅行への旅に誘われたのです。当時、勤めていた会社の文芸部に所属していた私。その時の旅行記をそこへ投稿していたのを思い出し、懐かしくて、ここに載せてみることに致しました。失敗ばかりの旅でした。

1995年(平成7年)、9月5日から12日まで、パリ&イル・ド・フランス(フランス郊外のこと)に行ってきました。ムルロア環礁での核実験騒ぎの最中、少々後ろめたくはありましたが、それ以前からの計画ゆえ、先ずは参加と相成りました。

今回の旅行では、私は一つの目的を持っておりました。それはシャンゼリゼ通りを一人歩きしてみることです。海外旅行にたびたび出掛ける二女が手持ちのパリの地図にサインペンでコースを書いてくれました。凱旋門を背にして、シャンゼリゼ通りを下り、ルイ16世やマリーアントワネットがギロチンで処刑されたコンコルド広場まで約2KMの距離、これを歩いてみようというものです。そして更にルーブル美術館を見物したあと、左に折れて、つまり北方向のオペラ座を目指す。私のホテルはオペラ座から歩いて3分くらいのスクリューブホテルというところでした。娘が「お母さんのホテル、すごくいいところにある。オペラ座の近くじゃないの。大丈夫、一人で行ける。」その言葉に大いに発奮していたのです。娘は更に言いました。「お母さん、一人で歩くときは胸を張って堂々と歩くのよ。」・・・・そんなわけでパリの初日がスタートしました。


ホテルにて朝食後、小グループに分かれての自由行動のときでした。我々10人近くのメンバーは、ルイヴィトン本店に立ち寄りました。ブランド物には余り興味のない私は、さっと目を通しながら、心の中では決行するなら今だと、一途に思っておりました。「私一人でシャンゼリゼ通りを歩いてきます、大丈夫でしょう?」と、添乗員の田島さんにそう言うと「ええ、大丈夫よ。気をつけて行ってらっしゃい。」と、さばさば答えられると、何だかポンと肩を押されたような気がしたのです。あとでこの通りの説明を読み返してみると「マロニエやプラタナスの豊かな広い歩道で、均整の取れた両側の建物など、見事な都市美です。道の両側には、各国の航空会社や自動車メーカーなどが軒を連ね、まさに世界のショーウインドーとなっており」と書いてありましたが、ただ無我夢中で歩く私には、マロニエやプラタナスの広い歩道は確かに見えましたが、軒を連ねた各国のショーウインドーは余り目に入りませんでした。


フランス語に余り馴染みがないので、地図と実際の表示とを確認するのに手間取り、直線コースだから、先ず間違いなく歩いていると思っても、通りすがりの人に確認せずにはおれません。リュックを背負った青い目のカップルに「ルーブルMUSEUM、this way?」と指差しながら尻上がりに尋ねますと「Yes!」と英語で返ってきて、先ず一安心。更に進んで行きました。胸をウンと張って堂々と歩くのよ。」娘の言葉がよみがえってきます。精一杯つっぱって、唇を噛みしめて歩きました。チェイルリー公園という所に出ました。中年の男性がカメラを向けてきます。にこっと笑顔を返すとすぐさまポラロイドカメラから撮ったばかりの写真を取り出し、「マダム、なんとかなんとか・・・・」とフランス語で話しかけてきました。どうやら100フランよこせと言っているようでした。100フランというと2,000円です。私は「No!」と言ってその場を立ち去る積りでしたが、面倒なことになると困る
と思って、50フランだけ渡しました。と、彼はもう一枚撮って私にくれたのです。




ルーブル美術館は厳戒体性の最中だからでしょうか、リュックサックの口を開けて、先ず入り口の所とエスカレーターの所で、検問を受けます。何処をどう廻ればいいかさっぱり分からず、行き当りばったりに見て廻ったのです。日本人の若い女性連れやツアー組も、ちらほら見えました。監視員の一人だったようですが、隅の椅子から立ち上がって私に近づいてくると、「キレイ、キレイ、ウツーシイ、ウツーシー」と歌う様に言いました。中年のくたびれたおじさんと言う感じで、酔っ払っているように思いましたが、悪い気はしません。そそくさと立ち去ると、行き会った日本人の若い女性二人連れに「ミロのヴィーナスとモナリザはどこでしょう。」と尋ねました。「階段を上がって右側です。」とにこやかに答えてくれましたので、その方向に行ってみても、見当たらないのです。又、そのおじさんの前に来てしまいました。意を決して聞くとフランス語で何か言うのです。私は「I don't understand French.」と言うと、そんな私を制して指先で私の背後の方向を指し、そこをぐるっーとひとまわりして行くようにと、身体全体で表現して、教えてくれたのです。その気迫と真剣な眼差しに打たれて、私は一生懸命理解しょうとつとめました。握手して笑顔で「さようなら」と言い、その場を離れました。



ミロのヴィーナスとモナリザをこの目で確かめ、さー、いよいよホテルへ向かいます。オペラ座独特の重厚な屋根が認められる位置にいましたが、小心な私はここでも確認せずにはおられません。バスを待っている中年のマダムに指差しながら「オペラ座ですね?」と英語で聞きました。フランス語でしたが彼女の口からオペラ座らしき言葉が出てうなずいていましたので、安心してカフェに入ることにしました。窓際に席を占めてアイスクリームを食べながら、人間ウオッチングを楽しみ、街をゆく車などを観察しておりました。レジでは黒人のウェイターが「Give me a telephone call」と言いながらウィンクで見送ってくれました。




途中でブティックや土産物のような店に2、3件より、私のために安物のスカーフを一枚求めました。さてここまではまず順調でしたが、オペラ座のすぐ近くまで来ていて、我がホテルになかなかたどり着けないのです。あっちでもない、、こっちでもない、それではここの信号を渡ったところあたりかと、少々あわてているところへ、我がグループを先導してくれるフィールド活動リーダー、鶴川高司青年に出会い、大いに安心したのです。その夜は、殉教者の丘という意味のあるモンマルトルの丘にタクシーで繰り出し、白いサクレクール寺院のそばを通って、古いパリの街並みを眼下に見下ろしました。ユトリロの絵に出てくるような坂道沿いのカフェで、先ずは無事な初日に乾杯して、食事をとりました。


翌日からは、我々の旅のメインコースです。パリを後にして約1時間バスに揺られて、西南約90キロに位置するシャルトルという田舎町に着きました。イビスホテルに荷物を降ろすと、サイクリング組と徒歩組みに別れて、大聖堂、博物館、旧市街、ウール川等、田園地帯を見ようというものです。徒歩組の私達は、洗濯場の痕跡を留める川べりを見たり、ゼラニュームの花が咲き乱れる家並みや、石畳に沿って並ぶ古い店等をきょろきょろ見ておりました。時計の修理屋の前で足を止めてシャッターを切り、カメラをしまおうと目を下に落とした瞬間でした。一行を見失ったのです。右を見ても左を見ても見当たりません。一瞬、顔から血の気が引きました、このあたりは同じような路地がまるで迷路のように入り組んでいるのです。出掛ける前に、フランス語で書かれた地図を渡されましたが、そんなものと照らしあわそうという余裕などありません。全くコンダクターの方にお任せのコースと決めて、ただついて行くのみでしたから、何処をどういう順序で廻るのか、さっぱり把握しておりませんでした。とにかく追っかけなければ、と走り廻っていると、リュックを背負った一行が見えたのです。「あれだ!」そう思って追っかけてみると全然知らないグループの人たちでした。気持ちは更に急きます。途中で出会ったおばさんに英語で「グループとはぐれてしまった、日本人の人達を見かけませんでしたか?」と聞くと意味が分かったかどうかは分かりませんでしたが、「私についてくるように」という素振りを見せました。とにかくついて行ってみました。中年の普段着姿の現地の女性のようでした。私の方が彼女の指さす方向に先に立って走りました。彼女は「フーフー」といってついてきましたが、私には思いやる余裕がありませんでした。彼女が何か指差して言いました。その方向には大聖堂らしき屋根が見えたのでした。彼女にしてみれば、観光客は皆そこへ行くから、そこさえ教えれば間違いないと思ったのでしょう。彼女の手をしっかりと握りしめ、「メルシー」と何度もお礼を言って別れたのです。そういえば、トライウェルインターナショナル(旅行会社)の松本会長が、後でここにも寄るようなことをおっしゃていたなと思い出し、とにかく入ってみることにしました。聖堂の入り口に、一人のうさんくさそうな男が、箱を持って立っていました。誰も入っていく人を見かけません。こわごわと戸を開けてみると中は暗そうで、ここに入ってしまったら二度と出られないように思い、入らなかったのです。私の心は焦っていました。グループの皆が私を見失ったために、折角の見物がゆっくりと出来ないのでは申し訳ない。何とか無事に一人でも帰るからと、連絡を取りたい一心でした。


聖堂の前の土産物屋に飛び込み、電話を借り、ホテルのフロントを呼び出して精一杯の英語を使って訳を話したのです。「日本から来た客だけれども、グループを見失ってしまった。一人でタクシーで帰るから心配しないように。」という内容でした。私はその時、本当にタクシーを使って帰るつもりで、店の方にお願いしますと、困ったような顔をしていました。今思えばあんな石畳の迷路のような所に来てくれるタクシーはないのではないかと思ったのです。その内、店には客が立て込んできたので、電話代を払おうとすると、手を振って要らないという素振りを見せるのです。「メルシー」といったところで、少し心が落ち着いてきました。とにかく連絡の手立ては一つついたのです。「I will try to look for them again」 そういうと店の方はうなずきました。英語がよく分かる若い女性でした。
大聖堂の周囲をひとまわりして、その店と大聖堂の入り口との位置関係を確かめると、意を決して中に入りました。もし何かことが起きたら、ここに飛び込もうと思ったのです。入り口にいる男性の箱に5フラン入れました。中に入ってなーんだと思いました。真っ暗と思っていたそこには、夥しい観光客が入っておりました。明かりが灯され、全然怪しい雰囲気ではありません。中の土産物や立ち寄った時、顔見知りの人の姿が明かりの中に見えたのです。「地獄に仏とはこのこと」と思いました。ところがその人はサイクリングコースの斎藤さんで、グループを率いる現地のフランス人女性インストラクター、クリスチーヌは冷たくもこう言ったのです。「私たちはまだ、自転車で他の所を廻ります。あなたのための自転車はない。ホテルに戻りなさい。」と。


そして彼女は帰る方向を私に英語で命じます。言っていることは理解できても頭に記憶するのは難しいので、おたおたしていると、自転車組の例の鶴川青年が私に書き取るように言いました。もうこうなったら歩いて帰るよりなさそうです。幸いに方向はすぐに分かりましたが、ホテルのそばまで来て、またまた分からなくなってしまったのです。すぐそばにいるという確信は犬を散歩させている人とか女子学生風の人に聞いたりして、ついておりましたが、このそばまで来て辿り着けないもどかしさに、一人歩きの落とし穴があるように思いました。


ホテルにようやく着くと早速フロントに尋ねました。「仲間から連絡は?」と。すると「Nothing」なのです。ますます心配になりグループの帰りを待ちながらホテルのロビーをうろついておりました。やっと帰ってきました。グループの一人曰く、「山口さんはシャンゼリゼ通りを一人で歩いた実績があるし、英語も出来るもの、大丈夫と思ったのよ。」と。喜んでいいものやら悲しんでいいものやらといったところでした。