砂川炭鉱跡  探検: 北の細道 砂川炭鉱

砂川炭鉱で平成の閉山を見る




北海道上砂川町

   第二次世界大戦(1939〜1945)直後の物不足に起因する急激な 「インフレ」物の値段が上がり続け、お金の価値が下がること 終息を図るため、
「ドッジライン」GHQ財政金融顧問、デトロイト銀行頭取ドッジ氏による徹底した 経済引締め政策 が実施され、これは石炭需要の均衡に一躍買うこととなる。
そして、石炭統制時代の厚い保護のもと、石炭価格は上昇を続け、
やがてこの高単価の持続は基礎的エネルギーであるが故に問題視されることとなる。

これに対処するため、政府は昭和25年6月(1950)「石炭鉱業合理化計画」を策定し、
朝鮮動乱の好景気が一段落した後、是正措置として優良炭鉱のみの開発、
坑内構造の改革による機械化推進、非能率炭鉱の整理等合理化政策の邁進となる。

高炭価問題の解決と需給バランスの混乱等を防止するため、
石炭鉱業合理化臨時措置法が昭和30年8月(1955)に制定、
@合理化基本計画と実施計画の策定、A石炭鉱業整備事業団の設立、
B坑口開設の許可制、C基準単価の決定、D生産制限等の指示、
E石炭鉱業審議会の設置が行われ、5年以内の時限立法として石炭産業を見つめ直すこととなった。


施行された第1次〜5次までの合理化石炭政策では、石炭から石油へのエネルギー源の流体革命の中で、
多くの集中的な閉山が発生したため、産炭地地域振興臨時措置法を制定し、
合理化と同時に地域対策も講じるという困難な局面を迎えることとなる。

第6次石炭政策では総合エネルギー政策の中の石炭の位置づけが考慮、
第7次(昭和53年)〜8次(昭和56年)の頃には、内外炭価格差の拡大が進行し、
国内炭の段階的縮小を図ることも止む無しとの見解に終結した。

砂川炭鉱は財閥資本が鉱区開発から採炭までを一貫して行った炭鉱で、
地下660mの深部採炭を目的に昭和42年に開坑された立坑を中心とした炭鉱で、
昭和62年(1987)閉山と比較的後期まで稼働した鉱区であった。

閉山後、地上55m、地下710mの立坑はその長い垂直地下坑道を利用した、
無重力実験センターとして再開発される。
垂直立坑にカプセルを落下させることで、世界最長10secの無重力状態を作り出す施設として、
多くの実験が施工された。
だがその地域振興の要も陳情の甲斐実らず、平成14年(2002)廃止が決定となる。

今回はこの「第二の閉山」を過ぎた立坑周辺を探索する。




立坑・水路・冷泉・・・


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( ̄u ̄;)タイタン





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